「魔女」 月野明良

「メアリー」
 優しい声が私を呼ぶ。本を読んでいた彼女は顔を上げて私に微笑みかけた。
「はい、先生」
「今日のお茶はお庭でしましょう。とってもいい天気ですもの。先に行ってテーブルを出してくるから、あなたはお茶をお願いね」
 そう言って女は本を閉じてローブを羽織ると、杖を手に庭へと向かった。、窓越しに見える庭はまだ寒いはずなのにまるで春のように花が咲き乱れている。
「かしこまりました」
 いつも通りの言いつけ。それに従い、ハーブ園へ材料を採りに向かう。ラベンダー、ローズマリー、レモンバーム。いつも通りのブレンド。それらを持ってキッチンに行き、ハーブを洗うとティーポットへと押し込む。湯を沸かしている間に棚からラムレーズンのチョコレートを取り出し、皿に山盛りにする。いつものティーセット。
 この家に来てから何も変わらない、いつも通りの動作。日常。
 でも、今日はそこに一つだけ、いつもと違うものを入れなければならない。
 私はポットを持って自室に戻ると、隠し棚の中から一つの鉢植えを取り出した。雪のように白い花は恭しく神戸を垂れている。高鳴る鼓動を抑え、その輝く純白のひとひらをポットの中へそっと収めた。ああ、ついにこの日が来たのだ。
 そう考えていると背後からしゅんしゅんと蒸気の音がして、急いでキッチンへと戻る。そしてまたいつも通りポットに湯を注ぎ、古い砂時計をひっくり返した。
 青い砂がさらさらと窮屈なガラスの中を滑り落ちる。
 どこにも行けない砂はただただ底に溜っていくだけ。
 戻ることのない時間の流れが私の決意を固くした。
         *
 幸福な記憶を思い出そうとすると、いつもクローバー畑でノエルと遊んでいたことが真っ先に浮かぶ。春の良く晴れた日だ。そこで四葉を探したり、紙とペンを持ってきて一緒に絵を描いたり、話をしたりした。ノエルは私に付き合って花冠を作ってくれたし、私はノエルに付き合って悪戯の計画を一緒に考えた。そして何より夢を語った。いつかここを出て、大人になったらしたいことを考えるにはいくら時間があっても足りなかった。ケーキをおなか一杯になるまで食べたい、世界中を旅してみたい、
いろんな仕事をしてみたい。そんな話ばかりしていた気がする。
 私と双子の兄のノエルは気づいたときには山間にある小さな町の孤児院で暮らしていた。気づいたときには、というのもそれはただ私の記憶には残っていないだけであり、どうやらノエルは覚えていたらしい。幼かった私はそれを知ると何度も彼に両親のことやどうして私たちは孤児院にいるのかなどを尋ねたが、秘密主義の彼は話たがらなかった。ただ「幸せではなかった」とだけ答えて彼はいつもその話を終えた。
 あの頃の私が幸せだったかと聞かれると、私にはわからない。学校では親がいないからといじめられたし、意地悪な町の人からはごみを投げつけられたり殴られたりしたこともあった。ノエルも勉強をしに図書館かどこかに行ってばかりで私に構ってくれないときもあった。
 けれど全く幸せではなかったと言い切ることも、私にはできない。いじめられたらノエルは一緒に仕返ししてくれたし、孤児院に帰れば優しい家族たちが慰めてくれて、一緒に遊んでくれた。自分よりも小さな子たちのぬくもりも、世話をしてくれた兄さんや姉さんたちの優しさも、私は全部覚えている。勉強ばかりのノエルだって、勉強の合間を縫って一緒に遊んでくれた。みんなと過ごしたあの暖かい時間は本当にかけがえのないものだった。そのせいで、兄弟姉妹達に新しい家族が決まったときにはみんな別れがつらくて涙が止まらないこともあったりした。けれど、それだけみんなが互いに思い合えていたのだ。そこには間違いなく私の幸福があった。
 だからこそ、優しい姉たちが次々に殺されたと知ったときの悲しみは想像を絶するものであった。
 事件は家族の中でも一番年上だった姉が行方不明になったことから始まった。夕食の時間になるというのに姿を現さない姉をみんなは心配して探したけれどついに帰ってこなかった。そのときの私は不安でいっぱいで、ノエルの単なる家出かもしれないから大丈夫だという言葉をただ信じていたかった。けれど、無情にもその二週間後にまた一人の姉が姿を消した。そして次々にまた一人、また一人と姉達は消えて行き、ついに六人の姉が帰ってこなかった。
 三人目が行方不明になったあたりから町には疑心暗鬼な空気が漂い、記事のネタを嗅ぎまわる新聞記者が増え始めた。おかげで事件が収束するまで学校も閉鎖されることになった。また少女ばかりが行方不明になったことから女子は外出することを禁じられ、私も孤児院の外に出ることは許されなくなった。孤児院に警察が調査に入るようになると、ママや大人たちはより一層神経を尖らせるようになった。あの頃の孤児院は息が詰まるような雰囲気が漂っていた。それから男の兄弟たちは姉妹の代わりに駆り立てられるように大人の制止を振り切って姉たちを探しに行った。
 けれど、それでも姉たちは見つからずついには孤児院の中に居たはずの姉たちまで姿を消した。
 そんな不安な日々が続いていたある日、突然ノエルが血まみれの髪飾りを持って帰ってきた。私はそれを一目見て、最初に消えた姉のものだとわかった。ノエルは騒ぎになることを恐れ私だけにそれを見せ、風邪を引いた末の弟のために薬を買いに行った町外れの薬屋の家で見つけたと言った。乾いた黒い血にまみれたそれは、私たちに最悪の結末を告げていた。姉は殺されたのだ。
 ショックのあまり震えて言葉も出なかった私に、ノエルは一つの可能性を示した。
 あの薬屋は魔女かもしれない、というものだ。
 それは子供たちの間で流れる奇妙な噂で、私とノエルもそれを完全に信じていたわけではなかった。けれど、ではどうやって姉たちは誰にも気づかれることなく姿を消してしまったのか?どうして姉の髪飾りがそんな場所で見つかったのか?
 あの薬屋の魔女が姉を殺したのではないか?
 そんな疑念を抱いた私にノエルが一つの作戦を提案した。自由に動きまわれる男のノエルは魔女の弟子となって魔女を監視しつつ姉たちを探し、孤児院から出られない私は姉妹がさらわれないように見張る、というものだ。当然私は反対した。素直に大人に髪飾りを見せて相談すべきだと言ったのだ。しかしそれを聞いたノエルは静かな声で「相談したところで、大人が何をしてくれるの?」と私に問いかけた。大人は魔女の噂なんて信じない。おかしく騒ぎたてたら他の消えた姉たちまで殺されるかもしれない。そもそも魔女なんて捕まえられるのか、それこそ魔法で消えてしまうのではないか。現にあれだけの大人が孤児院で目を光らせているのに、姉たちは消えているではないか。そう言ってノエルはいかに大人に気づかれず慎重に事を進めるべきかを説いた。
 このとき薬屋が魔女であるという証拠はなかった。しかし薬屋が魔女であると考えなければ、この不可解な状況を私たちは説明できなかった。そして幼い私はどうしたら姉を助けられるかを考えるだけに必死で、ノエルの作戦に従う他に選択肢なんて存在しなかったのだ。
 こうしてノエルは魔女の弟子となった。
 どうやって彼が魔女に取り入ったのかはわからない。でも、彼が弟子となったことであの薬屋が本当に魔女であったということが判明した。季節も関係なくめちゃくちゃに咲き誇る花々、魔女を訪ねてくる異形の者、しゃべる猫、おかしなまじない。ノエルはそれらを全て見聞きしたと言い、時には目の前で習得したという魔法を目の前で披露してみせた。遠くの者の姿を映すという魔法を通して見た魔女は、とても美しい人のように見えた。
 しかし、それと同時に彼は既に行方不明になった姉たちの殺された痕跡も発見してしまった。彼が血まみれになった姉たちの身に着けていたものを持って帰ってきたときには、心臓が潰れる思いがした。振り返ればこの時から私たちは次第にどうすれば魔女を殺せるかを考えるようになっていったのかもしれない。そしてそれは事件を解決するためというよりは、復讐のために違いなかった。
 ノエルが魔女の行動を探る一方で、私も作戦に従い姉妹を失うまいと必死に警戒していた。けれど活発に動き回る妹たちの面倒を見ながら家事に奔走する姉たちから目を離さないようにするというのは至難の業だった。また監視していることを悟られるわけにもいかず、孤児院の規則も守って生活するには別行動を迫られる場面もあった。
 そして私の力は及ばず、無情にも他の姉たちも姿を消していった。
 己の無力をあんなにも呪ったことはない。けれど、それはノエルも同じだった。彼は何度か魔女を毒などで殺そうと試みたらしいが、ついに気づかれることもなく失敗したらしい。では体に直接攻撃すれば殺せるのではないか、と事故に見せかけた罠を仕掛けた寸でのところで防がれてしまうらしい。かといって直接ナイフで刺すなんてことをしたら、それこそノエルが殺されてしまうかもしれない。それは、それだけはなんとしてでも絶対に避けなければならない。
 為す術もなくむざむざと姉を奪われていく。これを絶望と呼ばずしてなんと呼べばよかったのだろう。当時の私は姉を失った悲しみにそれ以上耐えられず、その脆い心は決壊してしまった。生きる気力も失われ、空虚な体はやけに重く感じられた
 しかし、そんな状況においてもノエルは決して諦めなかった。彼は魔女の元で、必死にまさしくその魔女を殺す方法について調べて続けていた。あの頃のノエルの復讐心を宿した恐ろしい瞳を今も覚えている。彼のリンゴのように色づいていた頬はどんどんと青白くこけていき、目の隈は日を追うごとに濃くなっていた。彼は確実に追い詰められていっていた。
 けれど、それが終わる日は突然に訪れた。
 私たちの十二歳の誕生日だった。あの日の薄荷水のような朝を忘れたことは一日もない。珍しく誰よりも早く目が覚めてしまった私は、朝の静寂が怖くて隣のベッドで眠るノエルを揺らして起こそうとした。彼は反応を返さなかったけれど、そんなことは彼が朝に弱く布団から出られないことを知る私には想定内だった。
「起きてノエル。誰も起きてなくて怖いよ」
 そう言って私は彼の布団を強引に引きはがした。つもりだった。
 布団はなんの抵抗もなく軽々と彼から離れた。その強烈な違和感にわかりやすく心臓が締め付けられる。一瞬呆然としたが、すぐに焦燥に駆られ何度も体を揺らしながら名前を呼んだ。返事は一度もなかった。
 最悪な予感が脳を掠める。それを拭い去りたくて、安心したくて、祈るように彼の胸に耳を当てた。
 なのに何も、感じられなかった。体温も、心音も、息遣いも。
 知りたくなかったその感覚の意味を理解したとき、私は声を押し殺して泣くことしかできなかった。愛した私の片割れはもう永遠に戻らない。
 どれだけの間泣いたのかはわからない。とても長い時間のようにも短い時間のようにも感じた。彼のいない世界になんて一秒だって生きていたくなかった。
 そんな彼に覆いかぶさるように泣いていた私の指先に、薄く硬い何かが触れた。枕元にあったそれは、少し古びた封筒だった。私は気づくと乱暴にその封を破り、縋るように中身を読み始めた。
 ノエルは自身が魔女に殺されることを予見して遺書を書き残していた。そこには私にこれから起こること、魔女を殺すための唯一の方法などが記されていた。魔女はノエルの妹である私を監視するために引き取りに現れること。魔女を殺すためには、魔女に殺された者の遺体の一部と犠牲者の愛した人の涙でスノードロップを育て、その六度目の花の雫を魔女に飲ませる必要があること。
 ノエルは魔女の本当の姿を見てしまったせいで殺されてしまったこと。
 ある日ノエルは銀盤の水鏡越しにその正体を知ってしまった。それはとても醜い老婆だったそうだ。きっと姉たちは若さを保つための薬にでもされてしまったのだろう。そして、それだけ美に執着していた魔女だからこそ、醜い姿を知ってしまったノエルを生かしておくはずがなかった。
 手紙の中でノエルは何度も私に謝っていた。それは私を残して逝ってしまうことだけではなかった。魔女を殺すためには誰かが死ぬ必要があったからだ。私たちはこれ以上犠牲を出さないために必死に戦ってきたのに、結局最後は自分を犠牲にしてしまい約束を破ってしまう。このことを彼は酷く悔いていた。そしてだからこそ、彼は手紙の中で強くこの計画を成功させるように私に言いつけていた。この殺人こそが魔女の最大のミスであり、私たちに残された最後のチャンスであると。彼の魔女への殺意は死してなお生き続けていた。
 もう、引き返すことはできなかった。
 私は彼の遺体の一部を手紙で示された植木鉢へと埋め、涙を一粒落とした。
        *
 砂時計の砂が全て落ち切る。嗅ぎなれた爽やかな香りがキッチンに漂う。
 私はティーセットを全て盆に載せ、裏口から庭へと歩みだした。冷たい風に吹かれながら慎重に踏み出す。道沿いに魔女のお気に入りのナズナが揺れて輝く。
 魔女は花園の真ん中にいた。膝に乗せた黒い猫と話をしている。魔女に声をかけようと近づくと猫が私の方へ振り向いた。すると猫は魔女の膝から飛び降りると急にどこかへと逃げてしまう。あら、と魔女は小さくつぶやくと私と目が合った。
「お邪魔してしまい申し訳ありません」
「いいのよ、ちょっとした世間話だもの。お茶にしましょう」
 魔女はにこやかに答える。
 盆をテーブルに置き、ティーポットを手に取る。緊張で手がかすかに震える。
「まだ風は冷たいけれど、日差しが温かくなってきたわ。もうすぐ春ね」
 大きなカップにお茶を注いでいると、魔女は微笑みながら私に話しかける。
「ええ、そうですね」
「春になったらサンドイッチをもってピクニックにいきましょうね。きっと今年も公園のチューリップがきれいに咲くわ」
 魔女は優しい振りをするのが上手い。どんな童話の中でだって魔女はいきなり本性を表したりはしない。いつだって甘いお菓子のようなことを言いながら首に手をかけてくるのだ。
「はい、今から楽しみです」
 カップがたっぷりのハーブティーで満たされる。
 私はそれを魔女の前にゆっくりと置いた。
「ええ、楽しみだわ」
 魔女はカップに口づけるとあっという間にそれを喉の奥へと流し込んだ。
 次の瞬間、カップは魔女の手から離れ落ちる。目を見開き、魔女は強く胸元を抑えた。
「……スノードロップ」
 魔女が苦しそうに肩を揺らしながら、私を見る。ああ、私の復讐は今、果たされようとしている。
「やはり、自分を殺す花の味はご存知でしたか」
「……そう、なのね。ああ、なんてこと。あの子の計画は成功してしまったのね?」
 魔女の輪郭がぼやけていく。いつも魔女はノエルのことをあの子と呼んでいた。
「姉さんたちも、ノエルももう帰ってきません。みんなあなたが殺したんです。私の人生は先生を殺さなければ始まらない」
 怒りと興奮で、喉が締め付けられる。それでも必死に絞り出した言葉で魔女を呪う。許せない。許さない。許すわけにはいかない。この魔女が地獄の底の底まで落ちなければこの怨念ははらされない。
「あな、た……あの子から、何も聞かされて……いないの?」
「ノエルのことを気安くあの子だなんて呼ばないでください。たかが数か月の付き合いだったあなたに彼の何がわかると言うんです」
 そう言うと魔女は不思議そうな顔をして、再び口を開いた。
「……数か月? 何を、言っているの? あの子は六歳のころに私の元へ来たのよ?」
「……は?」
 六歳? 
 そんな馬鹿な。だって、ノエルは姉さんたちを助けるために弟子になったはずだ。そうでなければ魔女の弟子になる必要なんてなかった。六歳だなんて、姉さんが殺されるよりも遥かに前じゃないか。
「やっぱり……何も、教えてもらっていないのね」
「ノエルは私にこの計画を託して、あんたに殺されてやったんです! それをまるで私が何も知らない子供みたいに……!」
 魔女の輪郭がどんどんとぼやけていく。体中が溶けだし、形を保てなくなっている。
 だというのに、その目には憐みで満ちていた。
「……なんのつもりですか? 復讐に憑りつかれた私を憐れだとでも思っているんですか?」
「いい、え。……あなたは、勘違いしているわ。あの日、私があの子を殺せていたのなら、この呪い……は成功しなかったはずよ」
 ノエルが殺されていたら、この計画は成功しなかった?
 馬鹿な。ノエルはあの朝、確かに死んでいた。体の一部を埋めた後には、彼の遺体は燃やされてしまっている。彼の骨も、灰も、私は見たのだ。この魔女はノエルが生きているとでも言うつもりなのか? あの花は魔女を今も蝕み続けているのに?
 死の恐怖から妄言を吐いているとしか思えない。なのに、私はその言葉を無視することができなかった。
「……メアリー、あの子に、私の杖を渡してはダメ……よ。お願い、ね。いい子で、いるのよ」
「なんで、なんでそんなノエルが生きてるみたいなこと。何を知っているんです?ノエルは死んだんですよね? あの花はいったい……!」
 問いかける間にも、魔女の体は重力に耐え切れず潰れていってしまう。終わりの時は近い。だというのに、魔女は私に何かを伝えようと必死に口を開く。
「あれは……あの、花は、六つの魂と自ら命を……」
 しかし、その言葉の続きが紡がれることはなかった。
 突如魔女の内側から何かが膨らみ始め、体は突き破られた風船のように割れた。目の前にいたはず魔女の姿は消え、気づくと鮮やかだった花園は真っ赤に染まっている。あたりには濃厚な鉄の匂いと立ち込めていた。
「おしゃべりはもう終わりですよ、師匠」
 中心から聞こえた声は幼く、見ればそこには血まみれの子供がいた。へばりついた髪の隙間からのぞく顔がひどく懐かしい。あのりんご色の頬を私は知っている。
「ノエ、ル」
「久しぶりだね、メアリー。すっかりお姉さんだ」
 落ちていたローブを身にまとい、ノエルはにっこりと私に笑いかけた。
 呆然とする私をよそに、少年は何かを確認するように全身を触って確かめる。その手が頭へと伸びると彼は声を上げた。
「ああ、耳たぶか。てっきり指でも切られたかと思っていたよ。考えたものだね」
 髪をかき上げて見えた小さな耳は不自然に欠けている。見覚えのあるその形は私がハサミで切った後と全く同じものだ。
「な、なんで、死んだはずじゃ……」
「その通り。けど、君がきちんと僕の言葉を守って魔女を殺してくれたからこうして蘇ることができたんだ。本当にありがとう」
 そう言ってノエルは背のびをして私の頭を撫でた。触れた手は小さく柔らかい。ひとしきり撫で終えると、彼は魔女の居た場所を見まわし始める。
 呆然とその場に立ち尽くしていれば、魔女の残した言葉が脳で渦を巻く。ノエルが弟子となったときの年齢。魔女のノエル殺害の失敗。埋めたノエルの遺体の一部。魔女殺しの成功。花と六つの魂。
 そこから導きだされる答えにたどり着いたとき、絶望が目の前で大きく口を開けていた。ああ、一番の愚か者は私だった。
「ああ、あった。吹っ飛ばされたのか」
 ノエルは植え込みの中に腕を伸ばし、細い棒を引き抜いた。魔女の杖だ。それを手にしたノエルはとろけるような笑みを浮かべる。そして杖で地面を三度叩き、彼が何かをつぶやけば血の汚れは落ち、清潔な衣服が彼を包み、少年は青年へと変わった。
 ふうと一息吐くと、彼はもう一度私の方を向いた。
「なにか、言いたそうだね」
 青年は子供っぽく首を傾げる。彼の癖だ。
「姉さんたちを殺したのも、ノエルを殺したのも、あなただったのね」
 握りしめた拳に爪がささる。恐怖に震える私とは反対に、彼は悪戯がばれた少年のように申し訳なさそうな顔をする。そしてゆっくりと私の方へと歩み出した。
「騙すようなことして、ごめんね。けど、仕方がなかったんだ」
「仕方がなかった?」
「この杖を手に入れなければ、僕らに未来はなかった」
 ノエルはすっと一度杖に視線を落とすと、意を決したように口を開く。
「僕らみたいな透明な子供たちは消費されて終わり。誰も見えないし、見ようともしない」
「透明? わからないよ、ノエル。いったい何の話!?」
「僕らは誰にとっても大事な存在じゃなかったってこと。いじめられたって、捨てられたって、売られたって、殺されたって誰も気にしない。
 逃げようとしたって、抗おうとしたって無駄なんだ。体力のない子供はここの険しい山は抜けられないし、山の向こうに何があるかも僕らは知らない。山に入ったところで山賊にでも襲われて殺されるのがおちだ。それにママや大人たちが商品を逃がさまいと死に物狂いで追いかけてくる。僕らは大切に育てられた特注品だからね。そういう子供が好きな人もいるんだ。
 何が言いたいかというと、無力な子供に生き残る術はないってことだよ。逆境から抜け出して逞しく生きていくなんて夢物語だ。
 兄さんや姉さんたちもそのことに薄々気づいてた。兄さんや姉さんたちが家を出たときに泣いていたのは別れを嘆いていたからじゃない。売られた先に待ち受ける恐怖を知っていたからさ」
「そんな……」
「この杖はね、物の時間を操ることができるんだ。これがあれば僕らの悲惨な運命は変えられる。弱い子供を大人にすることも、悪い大人を僕らの下僕にすることもできる。けど、そのためには師匠から杖を奪わなくちゃいけなかった」
 目の前でノエルの歩みが止まる。その背は私を追い越し、顔を上げなければ視線を合わせることもできない。
「ごめんね、メアリー。でも、姉さんたちは僕の提案を受け入れてくれたんだ。売られて辱められるくらいならって。もちろん、苦しまないようにしたよ。あの髪飾りについていたのは動物の血、決して殴るなんて野蛮なことはしてない」
 骨ばった男の体が私を抱きしめる。脱力した私の体はなされるがまま体温を受け入れる。耳元で囁かれる謝罪は、何の意味も成さない。
 ふと、魔女の笑顔が脳裏をよぎった。ああ、あの人はいつも優しく私の名前を呼んでくれた。兄を亡くした私を気遣って、世界の広さや美しさについて話しかけてくれた。母がいたらこんな感じなのだろうかと考えたことさえある。それを受け入れられなかったのは私の復讐心が許さなかったからだ。
 しかし、あの人は無罪だった。それどころか、きっとノエルの計画に気づいて止めようとさえしていた。ノエルが自殺すればあの花の呪いは成功してしまう。だから自殺する前に殺そうとしたのだ。けれどノエルが殺される寸前で自殺を図ったことから、失敗したことに気づけなかった。優しいあの人のことだから、殺してしまったことへの罪滅ぼしのつもりで妹である私を引き取ったに違いない。
 結局、ノエルの掌の上で踊らされていることにも気づかないまま、私は無実の先生を殺してしまった。犯した罪が百足のように背中を這いまわるのを感じる。
「……ノエルお願い、先生を、姉さんたちを返して。その杖なら時間を巻き戻せるでしょ? みんなに謝ろう、きっと許してくれるよ。そしたら全部元通りに……」
 彼の肩を掴んで引き剥がし、懇願する。しかし願いは虚しく、彼は残念そうに告げた。
「体なら戻せるよ。でも、消えた魂は返ってこない。かわいそうに、素直な君のことだから師匠にも情が移ってしまったんだね。自分を責めなくていいんだよ。全部僕が悪いんだから」
 幼子を甘やかすかのような声。彼の熱を持った指が私の頬に愛しそうに触れる。指がそっと目元を拭ったとき、初めて自分が泣いていることに気が付いた。自覚してしまえば、もう涙が溢れて止まらなくなってしまう。
 あの頃に戻りたい。兄弟たちと日が暮れるまで遊んでいた頃に。姉妹たちと夜中までおしゃべりをしていられた頃に。ノエルと大人になったら何になりたいか、クローバー畑で語りあっていた頃に。先生と春の公園にピクニックに行っていた頃に。
 不完全で、窮屈で、だけど穏やかな幸福があった頃に。
 決して戻ることのないあの日々に。
「世界をひっくり返そう、メアリー。僕らで世界を変えるんだ」
 そう呟いたノエルは、かつて花冠を頭に載せて夢を語っていた少年と同じ目をしていた。