路地裏の異世界

青井

 

あ、猫……。

日々通うのに慣れた石畳の道で、人の波を縫うように悠然と歩く猫と出会った。錆色の毛皮を艶めかせ、ピンと立てた尻尾を揺らめかせながら歩くその姿は、白い息を吐きながら忙しなく足を動かしお喋りに夢中な人ばかりの中、まるでそこだけが別の空間になってしまったかのように彼女だけの世界だった。

彼女はどこに向かっているのだろう。気晴らしに、付いて行ってみようか。そう思い立ち、人波に消えそうになった尻尾を見失わないように少し足早に追いかけた。

 

猫の縄張りが存外狭いというのは本当らしい。彼女の自適な散歩はそう長く掛からなかった。私の知らない場所に出てしまったらどうしようか、それはそれで構わないけど。なんて考えていたが、石畳のアーケードを端まで行くことすらなく、途中にある路地に入り込んでしまった。確かに追いかけていた筈の錆色がどれほど目を凝らしてもいなくなってしまった時は少し焦ったが、少し嗄れた声でニャアと聞こえた路地を覗き込むと、その真ん中に彼女は座っていた。まるで私が気付くのを待っていましたとばかりに目があった途端、ふいっと顔を背けて何処かに入って行ってしまったのだ。追いかけている間、店や人に構うことなく歩いていたので考えていなかったが、猫が店に入り込んだりしてはいけないのではないだろうか。慌てて路地に入り、彼女が入って行った建物の前に立つと、そこはなんとも不思議な場所だった。店構えはレトロな喫茶店といった感じなのだが、装飾なのか販売物なのか、雰囲気がなんとも混沌としていた。ショーケースの中には壊れた映写機、古びたフランス人形、外套、燻んだアラビアンランプに真っ赤なティーセット。恐らく入り口と思われる扉の横には、建物に二階があるのだろうか、階段があったが、それを半分塞いでいる雨晒しの棚の中には壊れた時計とワイングラス、弦の切れたバイオリンとシルクハットが入っていた。

扉には手書きの「営業中」の文字があるので何かしらの店であることは間違いないのだが、入店に少しばかりの勇気が必要な雰囲気である。しかし彼女が入ったのは恐らくこの店な筈……、と尻込みしていると目の前の扉が開いた。

「やっぱり、ご新規さんか」

着流しに丸眼鏡、パイプというその店にマッチしてるのかどうなのか、兎に角中々見かける事のない風体である事だけは間違いのないその人は店の奥に向かってマスター、ご新規だよと呼び掛けた。そのまま中に入っていくその人を追い掛け、閉まりそうな扉に滑り込む。

「すみません、ここに猫、入ってきませんでしたか。黒と茶が混じったような柄の」

そう訊ねると、着流しの男にマスターと呼ばれた人があぁ、と何か納得したような顔をして

「君、サビの客引きにまんまと嵌ったんだろう。うちの子上手いんだよねぇ」

え、と店の中を見回すと何かの鍵やら昔のカメラやら不揃いのカトラリーやら統一感のないようなあるような物の中に馴染んで大きな欠伸をする彼女がいる。折角だから珈琲でも飲んでいくといい。そう言って私の前に置かれたそれは、普段飲むものよりなんだか美味しそうな匂いがした。

 

一杯の珈琲を飲む間に冬の短い日は落ちてしまったようだ。空を見上げると飛行機の光が黒い空に瞬いていた。アーケードの方を見ると、そこで何か境目があって、違う時間軸なのだとしか思えないほどせかせかと忙しなかった。それほど狭いわけでも暗いわけでもないのに不思議と人の入って来ないこの路地も、人も物も混沌としているこの店も、ここに私を導いたサビも、もしかして全く違う世界に存在していて、出てしまえば何もなくなっていたりするのではないだろうかなんて、突拍子も無い事を真面目に考え、少し名残惜しく一歩石畳に踏み出してみたがそんな事はなく、振り向いてもそれらはしっかりとそこに存在していた。此方からみたらなんの変哲も無い路地だというのに、何故か私の心は少し軽くなっていた。