贈り物 暮山慎之介

 

 朝だ。ケータイを見る。誰からも連絡はない。体の動きを制限する眠気は彼に着衣水泳を思い出させた。 雨の音がする。 偉大な理性の力により体は休むのをやめ、歯ブラシをくわえバスルームに入った。熱いシャワーを浴びながら古代ギリシア人々の生活を思い描いた。彼らは目覚めてすぐにケータイを確認したりなどしなかった。貰い物のタオルで体を拭き、下はスーツにタンクトップという格好で朝ごはんを作った。雨の音さえなければいつもと変わらない朝だと彼は思った。しかし朝ご飯を半分ほど食べ終わったとき彼は気づいた。何かが違う。何が違うかはわからない。彼は部屋を見渡し目に見えぬものを探した。そうして少し経ったあと、違和感の原因が内側にあると直感し目を閉じた。感覚を研ぎ澄ませ何秒かがたった。彼は気づいた、味がしないのである。味の濃いであろうケチャップを口に含んでみた。ただ舌に何かがまとわりついただけだった。もう一口食べてみたが同じことだった。これからどうするかを考えた。会社に連絡し病院に行くべきだと思ったが、休むべき時期ではなかった。

 

 時間はいつもどおりベルトコンベアーのようには流れず、そこには重ささえわからぬ不審な荷物が乗っていた。昼食に希望を託したが、その希望に裏打ちされた悪い予感は的中した。彼の悪い予想はよく当たるのだ。定時に仕事を終え、急いで病院に向かった。

 

『今日はどうされましたか。』

『味覚がおかしいんです、先生。』

『最近何か変わったものをお食べになりましたか。』

『いえ、特にこれといっては。』

『手足にしびれを感じることは。』

『いえ、ありません。』

『では少し舌を見せてください。……何もありませんねぇ。頭のCTを撮ってみましょう。』

 

CTの結果も特に異常はありませんね。どうです、知り合いの精神科に行ってみては。』

『はあ、自分では精神的に参ったと思うようなことはないのですが。』

『大抵の精神病の人は自分は問題ないというのです。』

 

 精神科に着くと自分が最後の患者だった。時計を見るといつもなら風呂から上がって酒を飲んでいる時間だった。すぐに名前が呼ばれ待ち時間なく診察室に入った。

 

『最近辛いことはありませんでしたか。』

『ありません。』

『一般的に辛いとされてることでも構いません。親が死んだとか、恋人に振られたとか。』

『特にありません。』

『ペットが死んだとか。』

『ペットは飼っていません。』

『そうですか…いくつか質問をしてもいいですか。』

『ええ。』

退屈な質問がいくらか続いた。

『これといって異常はありませんねえ。』

『どうしたらいいんでしょう。』

『どうしようといっても、異常がないのですから対処のしようがありませんね。』

 家に帰ると、いつも身の回りにあるものとの距離がでたらめになったような感覚になった。その日は何も食べずに眠った。

 

数日の間、彼はいつも通り時間を過ごしたが心の中は霧が立ち込めているようだった。食事には気を使った。今まで考えたこともなかったのに、味覚を失ったことを機に気を使うようになったことを彼は皮肉に思った。

 

そしてある日彼は同僚から暴君ハバネロをもらった。辛さを感じないことはわかっていた。しかしそれを見た同僚たちの反応は思ったよりいいものだった。久々に感じたその種の視線は彼を高揚させた。彼は残ってしまったハバネロを全て食べた。同僚たちの反応はますます良くなった。

 

その日から彼は辛いものを食べるフードファイトを探し周った。探して見ると案外たくさんあるもので、知ろうともしない世界が他にも無数にあることを感じた。

 

休日にやっている大会があったので出て見ると簡単に優勝してしまった。賞金とトロフィーをもらった。賞金はなかなかの金額であり、初めてもらったトロフィーには言葉にできない胸の高ぶりを覚えた。次の休日も大会に出場し、また優勝した。彼は波に乗り、次々とその分野のあらゆる賞を総なめにした。

 

彼は会社を辞め、それを生業とすることにした。収入は安定しないといっても以前よりは格段に多く、何より心が踊るのだった。認知度が上がるにつれテレビにもでた。時間は嵐のように過ぎ、彼はひたすら食べ続けた。ついに海外の大規模な大会に呼ばれるようになった。空港を出る時彼は決意した。

 

『激辛王に俺はなる!』