見上げたら、青 ハリイ サクラ

 

《あらすじ》

 田舎までとはいえないが都会とは言えない中途半端な街に住む高校二年生の優斗。彼は放課後部活には参加せずに図書館で本を読みふけっていた。そんな彼の日々は授業である場所を訪れたことをきっかけに少しずつ変わっていく。

 

              *

 

 この街に引っ越してきてもうすぐ二年が経とうとしている。親の仕事の都合で住み慣れた街を離れることになったと知らされた時、特に悲しいとも思わない自分がいることに気がついた。「親友」みたいな存在の人もいなかったし、自分が引越しすると聞いてもクラスメイトはきっと何も思わなかったはずだ。担任の先生が気を利かせて送別会を開いてくれて、クラスメイトからの寄せ書きももらったけれど、そこに書かれていたコメントはどこか違和感を覚えた。それに、送別会の時に初めて話した人だっていたし、こっちに引っ越してきてからというものの彼らとは何一つ連絡を取らなかった。もちろん高校受験が近く、自分も含めてそれどころじゃなかったというのもある。けれど本当の理由はいたって単純だ。わざわざ連絡を取り合うような間柄ではなかったからだ。あくまでクラスメイトであって顔見知り、友達とまではいかないような関係性なら互いの様子を聞く必要なんてない。そう思う度に引越しして逆に良かったと思うようになってしまった。そんな自分の考え方は間違っているのだろうか。そうして今日も自問自答の渦に飲まれていく。

 

 さて、ここで少し自己紹介らしいものをしておこう。名前は結城優斗。特に変哲のないどこにでもいるような高校生だ。趣味は本を読むことぐらいだろうか。本といっても、物語ではなく新書を多く読むのでそこは少し変わっているかもしれない。今住んでいる街には二年前に引っ越してきた。前住んでいたところがそれなりに便利な街だったので、この街が少し田舎に感じる。とはいえ、ちゃんと電車も通っているし、バスもある。だけど、前の街のほうが便数も多かったし、お店もたくさんあった。住めば都、という言葉もあるぐらいだから二年経てば少しは慣れてくると思っていた。どうやらそううまくいくわけではないらしい。

 慣れないといえば、今年のクラスメイトともうまく馴染めない。高校に入ったばかりの頃は、みんな友達を作りたい、というよりかは一人でいるのを避けたいと考えたのか、積極的に話しかけている人を多く見た。自分はどちらかというと一人でいるほうが好きだったので誰かに話しかけることはしなかった。だけど、そんな自分にも話しかけてくる人はいるもので、冷たく突き放すわけにもいかない、そんな思いから、話をうまく合わせていた。

しかし、二年生に上がって再び同じクラスになったものの、その子は別の話し相手を見つけたようで、いつしか顔を合わせても互いに目をそらすような関係性になっていた。その時僕は悟った。やっぱりあの子も気を遣っていたんだな、と。やっぱり一人でいるほうが気楽なんだ。無理して誰かに合わせるぐらいならもう誰とも話さないほうが誰も傷つけないし、自分も傷つかない。そんな考え方が次第に僕をじっくりと侵食していったことが、自分にもよくわかった。

 

 話を今に戻そう。今日も授業を終え、みんなが部活へと足早に向かう流れに逆らいながら、校舎等の隅っこにある図書室へ向かう。もうすぐ七月になるので三年生の先輩方が受験勉強に図書館を使い始める頃だ。しかし、学校の近くには市立図書館があり、そちらのほうは自習スペースが充実しているので、学校の図書室を使う先輩は多くない。だから、読書をするにはもってこいなのだ。図書室の重い引き戸をゆっくりと開ける。本の香りが少しずつ溢れ出す。ここに来るたび、初めて図書室に来た時のことを思い出す。

 この学校は入学式の翌日から部活見学週間という期間が設けられていて、放課後三十分は必ずどこかの部活を見学しなければならない、という生徒会が毎年行っているものである。学校側が強制的に部活を見学しろ、と言っているわけではないので、僕は部活見学週間の初日にどこかの部活に行くことはせず、図書館に向かったのだ。入学式の時にもらった校内図を片手に右往左往しながらなんとかたどり着いた時、僕には図書室の引き戸が一種の壁に見えた。この図書室には簡単には入らせないぞ、と引き戸が言っているように感じた。入ることをためらってしまった僕はその日は図書室には入れず帰路についた。次の日、放課後に再び図書室へと向かった。今日こそは、と心の中で静かに意気込んで入り口の扉に手をかけ、開けた。その瞬間、何かがそっと僕を包み込むような感覚に陥った。それを言葉で表すのは難しいけれど、確かに言えるのは、肩に乗っていた何かがすっと落ちていった、ということだ。それ以降、僕は学校がある日は毎日図書室に通うようになった。

それから一年とちょっとが経った今もなお、その習慣は続いている。最近は図書室の本を読むだけでなく、授業の課題をやることが増えた。日に日に暑さが増し、衣替え移行期間とはいえ、夏服を着る人が増え始めた。廊下にいる間は蒸し暑い空気がしつこく僕を取り巻くが、図書室に入った途端、人工的な冷気が重い熱気を吹き飛ばす。二年生に上がるとき、文理選択をしなくてはいけなくなり、まだ将来の夢が定まっていなかった

僕は、理系の科目のほうが得意だった、という理由で理系へと進んだ。専門科目が増え、そのせいか授業の課題も増えてきたので、この頃は図書室に来ても本は読まず課題を進めることが多くなった。

今日も六限の授業が終わり、全校一斉の清掃をしてからすぐに図書室に来た。図書室に入り、奥のほうにある自習用の少し大きな机を確保する。ここの席は窓に背を向けるように置かれていて、座ると遠目ではあるがカウンター近くに掛けられた時計を見ることができる。自分にとっては特等席なのだ。自分の領域に戻ってこられたような安堵感もそこそこに、リュックサックから筆箱やら教科書、プリントを取り出す。もうすぐ期末テストがあるから、多くの教科で課題がたくさん出ている。時間が経つにつれ、机の上には教科書やノートが乱雑に広げられる。しかし、これを咎める人はいないし、これは自分にとっていつの間にか当たり前になっていた。

 どれぐらい時間が経っただろうか。僕は今何時かを確認しようと掛け時計を見るため視線を上に向けた。午後五時四十七分か、もうすぐ帰らないと。いつもならそう思っていたはずだろうが、今日に限っては違った。見慣れない、とはいえ図書室に限ってのことなのだが、いつも見かけない人物の姿があった。その人はちょうど図書室の扉を開けて中に入ってきたところのようだ。右手には一片のメモが握られていた。どこかで見たことある、だけど思い出せない。その人は図書室を見渡すように首を回しているから、何か本でも探しているのだろうか。あっ、思い出した。そう僕が思ったのとその人と目が合ったのがほぼ同時だった。その人、すなわちクラスメイトの矢本君がこちらに駆け寄ってくる。

 「やっと見つけたよ、掃除が終わってから渡せばいいやと思っていたのに気づいたらいなくなっているし、どこの部活に入っているか分からなかったし、もうどうしようかと思ったよ」

 彼が立て板に水のように話す。その勢いに少し押されてしまった僕は、

 「ごめん。」

 としか言えなかった。

 「いいっていいって。それよりこのメモ、堀内先生から。さっきまで授業の質問に行ってて、そのときに渡してほしい、って頼まれたんだよね」

 「先生からか、うん、ありがとう。」

 彼から受け取ったメモには、二者面談を行いたいので明日の昼休みに職員室に来るように、と先生の手書きの文字で書かれていた。

 「いつもここで勉強していたんだね、知らなかった。」

 彼の視線とその言葉が歪むことなく僕に突き刺さる。どこか落ち着かない感じがする。

 「うん、ここは静かだし。」

 「ふうん、そうなんだ。部活には入ってないの?」

 どうして彼はこんなにも自分のことに足を突っ込んでくるのだろう。芽生え始めた疑惑を気づかれないように慎重に言葉を選ぶ。

 「うん、部活は全員強制ではないし」

 すると彼はいきなり真顔になって、

 「それってもったいないよね。勉強ばかりじゃ楽しくなさそう。」

 と言い切った。

 もったいない?楽しくなさそう?いったい彼は何を言っているんだ?

 僕は言い返そうと必死になって言葉を探した。だけどそれ以前に彼に反論するほどの勇気を持っていな

かった。

 「まあ、部活に入らないのも一つの選択肢かもね。」

 彼の口調は初めのころとは違い、無機質なものになっていた。

 「先生からのおつかいも終わったことだし俺は部活に行くことにするよ。勉強頑張ってね。」

 彼は一方的にそう言って図書館から姿を消した。

 あまりに唐突なことで僕の頭と心は完全にフリーズしていた。初めてクラスメイトに話しかけられたと思いきや、自分の考えを押し付けてそそくさと帰っていった。初対面の人が他人の領域に平然と入ってこられるだろうか。僕なら絶対にできないが、彼はそれをやってのけた。無意識なのか、それとも意図的なのかは分からない。本当であれば言い返すべきなのだろうが、僕にはそれができなかった。

 心が空気の抜けたボールのようになってしまったまま、帰るための身支度をし、図書室を出た。今日の空は何も描いていないキャンパスを青い絵の具で塗りつぶしたようで、もうすぐ地平線の向こうへと消えようとしている夕日のオレンジ色がより一層映えていた。

 

          *

 

 次の日。

 いつもより少し遅い時間に家を出て学校へ向かった。というのも、昨日の一件がどうも心に引っかかりよく眠れなかったのだ。そのせいで、いつもなら目覚まし時計のアラーム音が鳴る前には起きているはずが、今日はそのアラーム音にも気づかず、母に叩き起こされてしまった。

 「寝坊するなんて珍しいじゃない。体調でも悪い?」

 急いで身支度やら食事やらを済まし、学校に行こうとしていた直前、唐突に母が聞いてきた。

 「ううん、大丈夫。暑さで少し疲れてたのかも」

 昨日の出来事が気付かれないように平静を装う。

 「ならいいけど。これから暑い日が続くからちゃんと水分を取りなさいよ」

 ちょうどリビングにあるテレビで流れるニュース番組のアナウンサーが「これからの一週間は例年に比べて気温が高い地域が多いので熱中症にはお気をつけください」と画面越しに呼びかけていた。

 母の言葉に、うん、と軽く返事をして、行ってきます、と玄関のドアを引いた。

 確かに今日はとても暑い。ちょうど昨日から制服が完全に夏服に変わり、暑苦しかったブレザーを着ずに登校できるようになった。我が家は学校への通学路の脇道を少し進んだところにあるので、一旦通学路に出てしまえば学校の生徒を多く見かけることができる。制服には半袖と長袖があり、多くの人が長袖を着て袖を七分まで捲りあげている。いつもと違う時間帯なので制服を着た人たちの顔ぶれは見慣れないものばかりだ。

 家から学校までは歩いて十五分ぐらいかかる。この時間だとなんとか遅刻にはならずに済みそうだ、とほっとする。今日は雲ひとつない快晴で、朝日が肌に刺さって、少しずつ汗ばむのがわかる。このまま自分の心の中の雲も消してくれればいいのに、とどこかで考える自分がいた。

 

 昼休み、僕は弁当が入ったトートバックを片手に職員室に向かった。昼休みということで、教室の中では何人かの女子たちが机を集め一つの島を作り、楽しそうにおしゃべりしながら弁当を食べている。男子たちは誰か一人の机に集まって時折大笑いしながら食事をしていれば、本を読んでは箸を動かして、を繰り返している人もいる。この賑わいは教室にとどまることなく、廊下までにも広がっている。部活の友達と昼休みを過ごすのか、自分と同じように弁当箱を片手に自分のクラスではないクラスの教室へとためらいなく入っていく人もいる。そんな人達を横目に見つつ、職員室へと向かった。

 職員室のドアをノックして失礼します、と言って中に入る。途端に心地よい冷気がふわり、と体を包む。担任の先生であり物理の先生でもある堀内先生の机はちょうどドアの近くにあったのですぐに気づくことができた。

 「先生、お仕事中失礼します。」

 「ああ、昼休み中なのに呼び出してすまないな」

 「いえ、特に用事もないですし」

 「そうか。ならいいけど」

 先生との他愛のない会話だが、無駄に緊張してしまうのはなぜだろうか。

 「結城に聞いておきたいことがあってね。ここだと少し騒がしいし、物理科室に行こうか」

 確かに先生の言うとおりだ。教室何個分もあるこの職員室には、全学年の先生方の机があり、昼休みということもあって多くの先生がお昼ご飯を食べたり、パソコンに向かって作業していたりしている。他にも、授業の質問や、部活の御用聞きなどをする生徒がこの時間に多く集まるので、教室のように賑やかだ。先生は机の上に置いてあったパソコンを畳み、いくつかのクリアファイルとともに脇に抱え、トコトコ歩き出した。

 「先生、荷物持ちましょうか?」

 職員室を出て廊下を歩き始めたとき、先生に尋ねてみた。

 「ん?ああ、大丈夫だよ。結城だって弁当持っているだろ、気にしなくて大丈夫。ありがとな」

 「いえ、とんでもないです」

 先生は僕の言葉を聞いてふふっ、と小さく微笑んだ。

 この学校は外から見るとカステラのようにきれいな直方体をしている。職員室は二階にあって、物理科室は一階の職員室とは真反対にあるので少し遠く感じる。各クラスの教室は三階より上にあるので、授業の間の休み時間と比べてこの時間はとても静かだ。人影はあまりなく、先生と僕の足音がペタペタと長い廊下という空間で反響している。

 一階へと降りて、もう少しで物理科室に着くというとき、ふと先生が口を開いた。

 「そうだ、このあとの五時間目は物理だったな」

 「はい、そうですね」

 頭の中で時間割を思い浮かべながら答える。

 「まだ連絡はしてないんだけど、今日の授業は滅多に行けないところに行こうと思っていてね」

 「そうなんですか、それはどこですか?」

 先生はまるでいたずらをする前の子供のようにニヤリと笑って

 「それはお楽しみに」

 と言った。

 そんな話をしていたら物理科室の前に着いた。先生がドアを開けると、コーヒーの香ばしい匂いが溢れ出す。この学校には三人の物理の先生がいて、一人の先生がコーヒーマニアとのことでよく美味しいコーヒーを淹れては先生方で楽しんでいる、という話を以前聞いたことがある。科室には誰もいなかった。先生が机の上に荷物を置き、近くにあった椅子を引っ張り出してくる。

 「弁当食べてないでしょ、時間もないし食べながらでもいいから話をしよう」

 と先生が言うので、お言葉に甘えて、と言って椅子に座り弁当を広げる。

 「最近どう?」

 「ぼちぼち、ですね」

 先生が答えにくい質問をしてくるのでつい曖昧に返してしまう。

 「そうか、去年に比べればずいぶん学校に来るようになったし、少しほっとしたよ」

 「あまり休んでいても勉強が遅れますし、変にクラスの人達に心配かけたくないので」

 半分正解で半分綺麗事を言ってしまう。

 「そうか、少しずつでいいから焦らずにな」

 はい、と流れ作業のように相槌を打つ。

 「そういえば、誰とは言えないけど結城がいつも一人で行動しているのを気にかけてた人がいたよ。」

 「え?」

 思わず問い返してしまう。

 「前に進路面談したときに最近気になることがあるかを聞いたら、そう言っている人がいてね。」

 「そうですか」

 「とはいえ、難しいよな、ほんと」

 先生が独り言のようにつぶやく。僕はその言葉の真意をあえて聞かないことにした。

 その後は進路についての話が続いた。弁当を食べ終わる頃には面談も終わりに差し掛かっていた。五時間

目が始まる十五分前になっていた。

 「そろそろ終わりにするか。時間も時間だし」

 「ありがとうございました」

 僕は弁当を片付け、急いで科室を出ようとする。

 失礼しました、と言ってドアを開けようとしたのとドアのノック音がしたのが同時だった。はい、という先生の声がしてドアが開いた。

 「失礼します、堀内先生いらっしゃいますか。」

 そこにいたのは昨日の一件の張本人の矢本くんだった。そうだ、彼は物理教科委員だった。次の時間は物理だから、御用聞きに来ることはごく当たり前だ。完全に油断していた。

 あっ、と彼が声を漏らした。僕は思わず目をそらし、急いで科室から出た。たった少しの出来事がこんなにも距離感を生むなんて。昨日の混乱が再び襲ってきて、頭がズキズキと痛み始めたのが自分でもわかった。

ほんの一瞬、後ろから視線を強く感じたが、それをすぐさま振り切って、僕は教室へと戻っていった。自分の足音だけが一階の廊下に虚しく響いた。

 

          *

 

五時間目の物理の授業が始まった。

 午後の授業ということで、教室の空気は昼休みの頃と比べて雲が立ち込めているように重い。僕の席は後ろの方にあるので教室全体を見渡せるのだが、机の上に教科書やノートを出している人、既にウトウトしている人もいる。

 先生がチャイムの音に少し遅れて慌てて入ってくる。起立、礼、と学級委員の挨拶に合わせて皆が立ち上がり礼をする。

 「さて、今日の授業だけど、テスト範囲もとりあえず終わったことだし、自習にしようかと思う」

 先生の言葉に教室がざわつく。その声を遮るように先生が言葉を続ける。

 「と言いたいところだけど、今日は特別授業と題して、普段行けない学校のあるところに行こうと思う」

 再び教室がざわつく。さっきまで教室に立ち込めていた雲がすっきりと消えた。

 「最近テスト勉強でみんな疲れているだろうし、気分転換も大事だからね。さて行こうか」

 先生がにこやかに話し、授業用のトートバッグを持って教室の外に出るように促す。クラスメイトががやがやと話しながら廊下へと出ていく。僕はあえてクラスメイトが移動するカタマリを遠くから見るように、最後尾となって向かっていく。

 僕のクラスの教室は四階にある。教室の近くには大きな階段があり一階から最上階の五階まで行き来できる。先生はその階段を上っていく。五階になにか特別な部屋でもあっただろうか。五階には一年生の教室があるだけだったはずだ。先生が五階まで階段で上ったところで立ち止まった。

 「ここからが本番。これが最初で最後の機会だろうからしっかり目に焼き付けるように」

 先生が小さめの声で呼びかける。皆の雰囲気が少し引き締まった感じが後ろから見てわかった。先生は階

段をさらに上へと向かう。一年生のときは気にしていなかったが、この階段は五階で終わっていなかった。さらに上へと延びていた。

 先生が階段を上っていく。階段の一段一段に少しずつ埃が被っていく。普段からあまり使われていないこ

とがよく分かる。階段の終点にはドアがあった。このドアも少し古びていて、図書室のドアとは雰囲気が違ったが、門番のような印象は同じだ。先生が鍵を取り出し、ガチャガチャとドアノブに入れて鍵を回す。クラスメイトはどこに行くのかもう察しがついたようでそわそわし始めた。

 そして、カチャリ、と心地よい音が聞こえ、ドアが開いた。ドアの古そうな見かけによらず、ドアはスムーズに開いた。その瞬間、爽やかな風が堆積した階段の埃すべてを吹き飛ばすように入ってきた。

 「ここが今日の目的地だよ」

 先生がみんなに呼びかけた。そこにあったのは普段は生徒の立ち入りが禁止されている屋上だった。

 

          *

 

 クラスメイトがざわざわしながら屋上へと足を踏み入れる。その後に付いていきながら僕も屋上へと入っていく。屋上に入ったのはこれが初めてだった。普段から事故防止ということで屋上には出入りできないし、生徒にとっては屋上に行く理由は単なる興味心でしかないから先生方を説得させることもできない。だから、先生の言う通り屋上に入れるのはこれが最初で最後なのだ。

 屋上の大部分は大きな太陽光パネルがそびえ立っていた。太陽光パネルは、昔からそこにいたのだと僕に主張するかのように群青色の胴体を輝かせていた。

 「ここの屋上には見ての通り太陽光パネルがあって、職員室には発電量を確認できるディスプレイがあるんだ。知っていた人いる?」

 先生の言葉に、知らなかった、見たことないよね、と話す言葉が聞こえる。僕も知らなかった。

 「今日みたいに晴れている日だとちゃんと発電できているだろうな。教室に戻ったら職員室にあるディスプレイの写真をみんなに見せよう」

 先生が太陽光パネルの解説を続ける。教室での授業とは違い、みんながほんの少しだけ前のめりになっている。

 十分ぐらい経っただろうか。先生の解説が一通り終わった。

 「それじゃあ、少し時間もあるから、十分間自由時間にするか。危ないことをするなよ。」

 はーい、とまばらに答える声がして、クラスメイトたちがばらばらに散らばり始めた。先生の言葉を聞き、僕はそっとカタマリから離れ、太陽光パネルの裏側へと進んだ後、屋上を取り囲むフェンスの前に立った。

 そこから見える景色は、今まで見たことのないものだった。この街に引っ越してくる前に住んでいたところは、比較的都会で、マンションの高い階に住んでいたので、毎日のように街の様子を窓から見ることができた。窓から見えるのは背の高いビル郡だけだった。もう少しちゃんと見ていれば、マンションの隙間にそっと佇む小さな公園を見つけることができただろう。しかし、それらは無機質なコンクリートの塊にもみ消されていた。この街に来てから、こんなに高いところから街を見ることがなかったので、僕の心は街の景色に完全に惹きつけられた。

眼下に広がる建物の灰色や公園の緑と空の青色が美しく調和していた。遠くの方にはおぼろげに山のシルエットが見える。確かこの街にはあれほど大きい山はないから、隣町か、はたまたその隣町か、もしかしたら

もっと遠くにある山なのかもしれない。少し視線を下ろすと、雑多とした住宅街や商店街、この街唯一の駅が見える。所々に見える緑は公園や幹線道路の街路樹だろう。まるでこの街のミニチュアを見ているようだった。図書室からも外の景色を眺めることはできるが、同じ景色のはずなのにそれとはまた別物だった。図書室よりも高い位置にあるので、より遠くを見渡せるのはごく当たり前のことだ。しかし、図書室の窓でフィルターをしたものと、フェンス越しに見る景色は迫力が違った。フェンスを越えれば自分もこの景色の一部になることができる、そんな気持ちにもなる。

 この違いを作っていたのはおそらく風にもあった。吹き付ける風は屋上に入るときに感じたそれとは違い、僕の心までも通り抜けていくように感じた。たしかに同じ風ではあるのだが、受ける場所によってこんなにも違うのか、と感心してしまう。

 一言で言うなら、僕はこの景色に魅了されていた。できるものならずっとここからこの景色を見ていたい、ここにいる時なら自分らしくいられる、そう思っている自分がいた。

 どれぐらい経っただろうか、先生の張り上げた声が聞こえる。

 「そろそろ教室に戻るから集合」

 クラスメイトたちが次第に先生のもとに集まる。先生の声でふと現実に戻った自分は、慌てて集団の後ろにそっと戻る。

 「よし、集まったな。それじゃ、戻るよ」

 先生がもと来た道をたどって教室に戻る。クラスメイトたちがそれに従ってぞろぞろと歩き出す。僕もそれについて行く。しかし、心はどこかまだ屋上にある気がした。

 

          *

 

 教室に戻ったあとは、先生がこの学校の太陽光発電システムの説明をした後、タイミングよくチャイムが鳴り、授業は終わった。案の定、クラスメイトたちの、屋上に行ったという興奮は休み時間のときも続いていた。僕は六時間目の準備をしながら、もう一度あの屋上に行けないだろうか、とあれこれ考えていた。しかし、

そんな簡単にあの場所に行けるはずもなく、誰にも気付かれないようにそっとため息を付いた。

 放課後、いつものように図書館に行こうと思ったが、今日はそんな気分ではなかった。どうもさっき行った屋上のことが頭から離れない。せめて五時間目の感想を伝えに行こう、そう思った僕は物理科室にいるであろう先生のもとに向かった。予想通り、先生は物理科室にいた。ちょうど他の物理の先生は部活の指導だったり会議に出ていたりしているという。

 僕は授業の感想と屋上で感じたことを途切れ途切れになりながら伝えた。自分の思ったことを相手に伝えることがこんなにも難しいなんて、想像もつかなかった。先生は少し驚いた顔をしながら

 「そうか、屋上っていいところだよな。自由に行き来できるなら、先生だって疲れたら屋上に行って思い切り叫びたいね」

 ふふっ、と笑いながら手元にあったコーヒーをすすった。

 僕は本心を言っていいものなのか、かなり迷っていた。しかし、僕の口はその心の中の葛藤に反して動き始めた。

「もう一回屋上に行くことはできませんか?」

 思わず発した言葉に自分自身が驚いてしまった。先生は手に持ったマグカップを置いて答えた。

 「結論から言うと、できなくはない。さっきの授業で屋上に行けたのも、太陽光パネルを含めた発電システムの学校側の管理者が今年から先生になったからでもあるんだ。実は、毎月屋上に行って点検をしているんだ。とはいえ簡単な目視だけだし、先月は点検日にちょうど雨が降っていて、行こうにも行けなかったし」

 「それは知りませんでした」

 「そうだろうな。発電システムがあることを知っている生徒自体少ないし、わざわざ生徒に自分が担当だと伝える必要もない」

 先生は椅子の背もたれに深く体重をかけて、腕を組んだ。

 「本当だったら駄目だ、と言うべきなんだろうけれど、今回は事情が違う」

 そこまで言って、先生は僕の目を視た。僕の心の中を探ろうとしているような強い視線だった。僕は負けじと先生の目を見返す。先生は科室の壁に掛けられた時計を見て、

 「本当ならもう少し話を詰めたいところだけど、もうすぐテストもあるから、こちらとしても生徒を遅くまで拘束できない。だから、一週間だけ考える時間を欲しい」

 と言った。

 「分かりました。一週間ですね」

 僕は手短に答えた。少しだけ心の空模様が晴れた気がした。

 「ここまでの話で結城が屋上に行きたい気持ちはわかった。だけど条件がある。」

 「条件、ですか」

 一瞬時が止まったように感じた。

 「ああ、条件は一つ。結城自身のいいところを自分で考えてみろ、これだけだ」

 「分かりました、考えてみます」

 自分のいいところ、か。簡単なようで難しい課題だ。他の人から褒められればそこが長所だとわかる。しかし、自分自身が「ここが私のいいところです」と言っていいものだろうか。心の天気は再び曇りだした。

 「一週間後、同じ時間に科室に来てほしい。その時までにこちらも結論を出しておく」

 「分かりました。よろしくお願いします」

 僕は立ち上がり、軽く会釈をして科室から出た。途端に、科室のドアが果てしなく大きな壁に見えた。

 

          *

 

 三日後。僕ら二年生は体育館に集められた。

 クラスごとに整列して、立っていた人がだんだんと座っていき、ざわざわとした空気が徐々に収まっていた。

 僕らの学校は一クラス四十人、それが十クラスあるので学年全体でおよそ四百人もいることになる。制服の白いシャツと髪の黒が絶妙なバランスで調和し、一つの絵のようになっている。この集団の中にいるとまるで自分自身が絵の具の粒子の一粒であるかのような錯覚を引き起こす。

 学年主任の室内先生がマイクを片手に集団の前に立つ。室内先生はこの学校で教え続けて二十年というベテランの数学の先生だ。授業がわかりやすい上、生徒との接し方がうまく、皆から慕われているらしい。

 「さて、皆に集まってもらったのは修学旅行についての話をするためです」

 先生の言葉に生徒がざわつく。

 「はいはい、落ち着いてね。先日、皆にはコースの希望を取って、全員が第一希望のコースに行けるようになった、っていうのは担任の先生から聞いていると思います」

 この学校の修学旅行は二年生の十二月に行われる。生徒数が多いので四つのコースに分かれて三泊四日の日程で組まれている。確かコース決めのときは体調を崩して学校を休んでいたはずだ。堀内先生が気を利かせてくれて、その日の午後に家に電話をかけてくれて、自分のコース希望を取ってくれた。

 「ということで、これからコースごとに場所を分けて、それぞれのコースで班を決めてほしいと思います」

 生徒たちの顔が明るくなるのが場の空気だけでもよく分かる。先生がコースごとの場所の振り分けを言っていく。先生の言葉が終わり、皆がばらばらになっていく。自分のコースはちょうど体育館だったので周りがだんだんと立ち上がっては同じコースの友達と楽しそうに話しながら移動しているのを見ていた。ふと、自分の心の中に「友だちがいるなんて羨ましい」という思いが生まれていることに気づいた。高校に入ってから

こんなことは思わなかった、たとえ思ったとしてもほんの一瞬だけだ。しかし、今は違う。この思いをゴミ箱に捨てようと思っても捨てられない。今この気持ちを捨ててはいけない、そんな風に思うのだ。自分の小さな異常にどうも釈然としない。

 「さて、他のコースの人たちが移動したみたいだし、ここも班決めをしよう」

 室内先生の言葉を聞いて我に返った。気づけばあれだけ人がいた体育館には百人ほどの人しか残っていなかった。

 「一つのグループにつき四人から六人まで。違うクラスの人と組んでもオッケーです。とりあえず、班が決まったらその場に座って待っていてください」

 先生の言葉で皆が一斉に立ち上がる。僕もそっと立ち上がる。周りを見渡しても一緒に組めそうな人はいない。この時、僕は自分自身を恨んだ。今まで誰とも関わってこようとしなかったし、こうしている今でさえ、自分から声をかけることもできない。高校に入った時、少なくてもいいから話せる人を作っておくべきだった。

 その時、図書室で矢本くんに言われた言葉が強く反響した。たしかに彼の言うとおりだった。部活に入っておけばきっと友達ができたはずだ。そして何かに熱中することもできたかもしれない。でももう遅すぎる。彼は正しかった。彼を心から否定した自分が恥ずかしい。途端に、自分の周りから人の姿が消え、何もない空間に一人放り出された感覚に陥った。四方を見渡しても誰もいない。それどころか、あたり一面真っ黒でどこが出口かもわからない。突然、雨が降ってきた。しかし、どこを見ても傘はない。もしかしたら傘があるかもしれないが、光がないので見つけることができない。雨が次第に激しくなり、僕自身を強く叩きつける。だんだんずぶ濡れになり、体が寒さで震える。もうダメだ。

 「結城くん」

 どこかから声がする。ふと振り返ると、いつの間にか真っ黒な世界は消えていて、体育館に戻ってきていた。

 声の主は矢本くんだった。

 「まだどこのグループに入ってない?それなら一緒に班を組まない?あと一人入ってくれるとちょうど四人になるからさ」

 「じ、自分で良ければ」

 僕は少しおどおどしなから答えた

 「ありがとう、助かったよ」

 彼がにこやかに笑った。その笑顔は、真夏の空に燦然と輝く太陽そのものだった。

 その後、班決めは順調に進んだ。僕らの班のメンバーはみな同じクラスだった。他の二人は顔見知り程度で話したことがなく、余った時間で自己紹介をし合った。僕の心の中で何かが確実に変わっていた。だけど、それが何なのか、自分では説明しづらかった。

 

          *

 

授業で屋上に行ったあの日から一週間が経った。僕は放課後に堀内先生を訪ねるため、科室に向かった。科室のドアはあの時と同じように高い壁に見えた。しかし、その壁を壊さなければ先生のもとに行くことはできない。僕は強い意志を持ち、ドアノブを回し、科室へと入っていった。

 「失礼します」

 部屋の中にはあの時と同じように堀内先生が椅子に座ってアイスコーヒーを飲んでいた。

 「来たか、待っていたよ」

 先生が椅子を持ってきて座るように勧めた。僕は軽く会釈をして椅子に座った。

 「修学旅行の班決め、リストを見せてもらったけれど、順調に決まったみたいだね」

 「そうなりますね」

 はい、とは強く言えなかった僕は少し曖昧な答え方をした。

 「行動力が高いのはいいところなんだけどな」

 遠い目をしながら先生はつぶやき、コーヒーをそっと啜った。一体誰のことを言っているのだろう。確かなのは自分のことを言ってはいないということだ。

 「さて、宿題の答えを聞こうかな」

 コップを机に置いて、先生が言った。

 「はっきり言うと、自分自身でいいところを指摘するのは難しいです。ただ、一つだけ言うなら」

 ここで一旦区切り、手を固く握り直して言葉を続けた。

 「自分の弱点が分かることです」

 先生と目を合わせる。先生がそっとコップを持って、口元に近づける。コーヒーを少し口に含み、飲み込んだ。そして口を開いた。

 「それはとてもいいことだよ。人によっては自分の弱点に気づけないこともあるから」

 「そうですか」

 「うん、ただ、弱点がわかっていてもうまく動けない、っていうことが多いんだよね。そこをどう対策できるかが大事なんだ」

 確かにそうだ。自分だって、「友だちを作りたい」という本心に気づきながら何もできないでいる。

 「難しいことは先生だって難しい。一見何も抱えていないように見える人でさえ、実際はそうじゃない、

なんてこともあり得るぐらいだからね」 

 そう言って先生はコップを片手に立ち上がり、部屋の奥に行った。壁にかけてあった鍵を取り、再び椅子に座り直した。

 「ちょうど仕事も一区切りついたし、今日は会議もないから、結城の都合さえ良ければ今から一緒に屋上に行こうと思うけれど、どう?」

 はい、大丈夫です、と僕は答えて立ち上がった。またあの屋上に行ける。そう思っただけでも心が踊る。先生も準備を終えたようで、部屋の電気を順番に消していく。

 先生とともに部屋を出る。そしてあの授業と同じように階段を上っていく。

 「班のメンバー表を見たけど、もしかして矢本に誘われた?」

 階段を上りながら、先生が話しかける。 

 「そうです、彼に言われました」

 「なるほどね」

 先生がつぶやく。先生の答え方にどうも違和感を覚えた。それがなぜなのかは分からない。

 階段を上りきり、屋上へ続くドアの前にたどり着いた。先生が鍵を入れてドアを開ける。眼の前にあの時と同じ屋上が広がっていた。心地よいそよ風が僕の肌をそっとなででいく。

 「この時間はちょうど日の入りの時間なんだよね」

 先生の言葉通り、この時間帯は太陽が地平線の向こうへ消えていこうとしているところだった。

 「もう少しフェンスに近づいていいですか」

 僕は先生に聞いた。

 「もちろん」

 先生が答える。

 その言葉を聞いて、僕はゆっくりとフェンスに近づいた。

 授業で来た時と同じ場所に立つ。見える景色は同じだが、かなり違うもののように感じた。夕暮れが作り出すオレンジ色のグラデーションが美しい。思わずため息が出てしまう。

 「あ、忘れ物をした。少しだけこの場を離れるけど、いいか?すぐに戻るから」

 先生が何かを思い出したように言う。

 「分かりました」

 僕がそう答えると、先生は、よろしく、と言って屋上から姿を消した。

 屋上には自分ひとりだけになった。一瞬、この屋上という空間を自分一人が支配しているのではないかと思うとなんだか複雑な気持ちになる。

 すると、後ろから足音がする。先生だろうか。しかし、科室から戻ってくるには早すぎるし、そもそもこの足音は堀内先生のものではない。誰だろうか、そう思って後ろを振り向くと、矢本くんがこちらに向かって歩いていた。

 

          *

 

 「きれいだよね、ここからの眺め」

 矢本くんが話しかけてくる。そして僕の隣に立ち、遠くを見つめる。

 「授業で見たときとは違うね」

 僕も彼と同じように遠くの方を見る。ちょうど電車が駅から出ていくところだった。

 「修学旅行の班、誘ってくれてありがとう」

 僕は視線を変えずにつぶやいた。彼はどんな顔をしているだろう。

 「うん、こちらこそ。ちょうどいい機会だったよ」

 「いい機会?」

 彼の言葉に僕は思わず聞き返した。そして彼の方に顔を向けた。

 「気にしていたんだよね、ずっと。結城くんがいつも一人でいるから、寂しくないのかな、って」

 彼は複雑な顔をしていた。嬉しいような、どこか後悔しているような、いくつもの感情が彼の心を飛び出しているみたいだ。

 「俺も昔から友達をつくるのが苦手で、何かあるたびに色んな人に話しかけるようにしていたけれど、悪い癖でつい思ったことを口にしてしまって、多くの人を傷つけているんじゃないか、って心配で仕方がなくて」

 彼の言葉に僕は驚いた。まさかそんな悩みを抱えていたなんて。

「図書室で話しかけた時、思わずきついことを言ってしまって、ごめん」

 絞り出すように彼がつぶやく。僕は再び視線を雄大な景色に向け答える。

 「あのときは自分も矢本くんの言葉の意味がわからなかった。だけど、気づいた。自分に足りないことが何なのか、って」

 そして、もう一度彼の方を向いて言った。

 「ありがとう」

 僕はぎこちなく微笑んだ。彼も思わず笑った。

 「あー、なんかすっきりした」

 矢本くんが思い切り伸びをしながら言った。その表情は先程とは違い、晴れ渡ったような笑顔になっていた。

 彼はなにか思い出したように僕の方を見て言った。

 「堀内先生、すごいよね」

 「え?」

 僕は思わず聞き返した。

 「いや、なんでもない、気にしないで」

 「うん」

 すると再び階段の方から足音がする今度こそ堀内先生だった。堀内先生が僕らの方へ近づいて、僕の隣に立つ。矢本くんがいることに何も疑いを持っていないようだった。

 「もうすぐ日の入りの時間だな」

 先生が僕らに話しかける。先生の言葉通り、夕日がはるか遠い地平線の向こうへ、今日の役割を終えてしばしの休息へと入っていく。

 街全体がオレンジ色の光に包まれて、建物や木々の緑が優しく輝き出す。僕らもそのぬくもりに包まれて、この景色の一部に同化していく。

 

 僕はそっと空を見上げた。夕暮れ色に染まった空は、心模様を映す鏡のように、今の僕にとっては澄み渡った青に見える。

 

 七月のある一日が暮れようとしていた。