落夏ワルツ 藤山三鶴

 

【あらすじ】大学三回生の夏休み、光は幼馴染の秀章の別荘に滞在していた。二人きりで過ごす恒例の夏休み。今年もいつもと変わらないはずだったのに、突然何もかもが狂ってしまった。何を選んで、何を捨てるのか。光は選択を迫られる。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしにとって秀章は夏そのものだった。あたしの夏は秀章に始まって秀章に終わる。

 

 第一幕

 

 あたしは視界が滲むような暑さから離れて、木陰が濡れるような涼しさの中にぼんやりと寝転がっていた。背中の畳がひんやりと冷たい。扇風機の風が前髪を吹き飛ばす。障子はめいっぱい開け放されていて、瑞々しい緑と純粋すぎる青が見える。日光は大きく取られた軒のせいで入ってこない。胸の上には読みかけの怪奇小説。いわくつきの家を調べるところから読んでいない。眠くなってしまったから。閉じようとする瞼をわざと開く。気持ち良い。身体に触れる感触の全てが気持ち良くなってしまう。このまま眠ったら、多分めちゃくちゃ気持ち良いんだけど、まだだめ。もっともっと眠くなってから眠りに落ちたい。

 でも、そうはならなかった。木製の廊下がきしきし言う。誰かが歩いてる。その音はこっちへ近づいてくる。あたしは起き上がりもしないで、目を閉じた。眠気があたしの中でゆらゆら揺れて、でもすーっと遠のいていくのが分かった。部屋の前で足音が止まる。こっちを見てる。はは。苦笑する声。眉頭を下げて、きっと、ちょっと顔を顰めるようにして笑ってる。少し屈んで鴨居の下をくぐる。ふわふわした少し長めの黒髪が揺れて、間抜けなかんじ。それからあたしの横に立って、やっぱり苦笑。あたしは目を開ける。

「おはよう」

 あたしを見下すその男はふざけた調子で言った。なまっちろい肌が影の中で青白く火照っている。いくらここが涼しくったって、温度が下がりきることはない。いつだってあたしたちは身体に熱を宿している。

「……おはよう」

 あたしはそれだけ言ってそいつに背を向ける形で寝がえりを打った。胸の上の本が音を立てて落ちた。んん。男が喉を鳴らすようにしてまた苦笑。それからそいつはあたしからちょっと離れたところに腰を下ろして、そのまま寝そべった。見えてはいないけれど、畳のこすれる音と気配で分かる。あたしたちは何も言わない。言うことがない。窓から蝉の鳴く声がいつまでも飛び込んできていた。

 

 三船秀章はあたしの幼馴染だった。保育園の時からの付き合い。私立の金持ちのご子息どもが通うところで、御多分に洩れず秀章も金持ちの息子。あたしも同じ。でもあたしはエスカレーター式に大学まで持ち上げてくれる学校のレールから高校三年の時に途中下車した。別に、親の金で学校通うのが嫌とか、成金が嫌とかそんなくだらない理由じゃない。芸術の道に行きたかった。それも立派にくだらない理由なのかしら。どうでも良い。あたしにとっては何よりも重要な理由だから。他人なんて知らない。

 そんな周りから見ればお馬鹿なあたしの途中下車について来てしまった哀れな男の子が秀章。保育園で会った時からあたしの傍にぴったりくっついてきたけど、まさかここまでとは。進学先の芸大の入学式でにへらと笑いながら手を振る秀章を見てあたしは変な感動を覚えた。というかドン引き。外部進学するって言った時、秀章は少し驚いた顔をしてたけど、別にそこまで動揺しているようには見えなかったのに。確かに保育園で初めて会った次の年から十三年間クラスが同じだったのはこいつの親の多額の寄付によるものだっただろうと思ってたけど、まさか大学までついてくるとは思わなかった。芸術が好きなんて聞いたことがなかった。あたしがダヴィンチの話したって少しも興味なさそうだったじゃない。そう問い詰めてもへらへら笑うだけの秀章にいい加減疲れてしまって、もう好きにさせておくことにした。来てしまったもんは仕方がないし、秀章に外部進学の話なんてしてしまったあたしも悪かった。どうせその内飽きるだろう。そう自分に言い聞かせ続けて、あたしは秀章と年齢の半分以上の時間を一緒に過ごしている。

「……甘いもん食べたい」

 振り返らないまま言った。別に秀章に言いたかったわけじゃない。ほとんど呟きに近かった。

「ケーキとか?」

 でも秀章はそこまで分かっていて返事をする。

「うん」

「一緒に買いに行こうか」

「……うん」

 いつもいつも、あんたは随分あたしのことを知ってるようで。

 

 確か最初は中三の時だったと思う。秀章が別荘に来ないかって誘ってきた。夏休みの間、暑い横浜から逃れて避暑地でのんびりするから一緒に来ないかと。もちろん秀章の親が持っているものだけど。住宅街から離れた自然の中にあるというその別荘にあたしは心を惹かれた。元々横浜のごみごみした感じは好きじゃなかったし、自分が持つ何もかもから物理的に離れられるのは魅力的だった。あたしは行くと返事をした。両親の承諾も貰った。元々あたしのやることには口を出さない性質だし、勉強にとても良い環境だと言えば特に何も言われなかった。そしてあたしを待っていた別荘は思っていた以上に素晴らしいものだった。

 その別荘は、静かな緑の中で樹木たちと同じように立ち尽くしていた。別荘と言うからてっきり洋装の屋敷を想像していたが、瓦屋根の日本家屋だった。あたしがそう言うと、「こっちの方が好みじゃないかなと」。あたしは黙った。それから夏休みの間中、勉強などせずにだらだらと二人で過ごしていた。本を読んで、森の中を散歩して、好きなだけ眠った。いつでも隣には秀章がいた。

 

「車出してくるから、玄関で待ってなよ」

 そう言って秀章は出て行った。それからもあたしは動かなかった。蝉の鳴く声が今更聞こえてくる。扇風機の風が心地良い。まだ。まだ。あともうちょっと。……。そうしてあたしは漸くその場所を手放す決心がついた。庭先から置いてあったビーチサンダルを履いて玄関に向かう。ざりざり、という重たく地面をこする音がして赤い軽自動車があたしにゆっくりと近付いてきた。車はあたしの前で止まる。助手席に乗り込む。車はゆるゆると動き出して自然の中を走り抜けていった。

 

 *

 

「ダンスパーティーしたくない?」

「は?」

 

 三十分程かかって繁華街に着いたあたしたちはいろんな店を回り、図書館にまで寄って、それから漸くケーキを買った。本来の目的を果たして帰路についた時には、激しい日差しもある程度落ち着いていて、優しい、少し寂し気な光になっていた。後部座席に積まれた買い物袋の山がまるでがらくたの寄せ集めのように見えた。何もかもにお別れを告げなければならないとして、その時にさよならするものたちはきっと全てがらくただ。無言の車内でくだらないことを考えていたあたしは、秀章の言葉に眉をひそめた。

「大学の友達でも呼ぶの」

「違うって。ここでじゃなくて、どっかで。ほら、いっつも踊ってるでしょ。光に綺麗なドレス着て貰ってね、一緒に踊りたいんだよ。それで皆に見て欲しい。俺の光はこんなに綺麗なんだぞーって」

「あんたのじゃないんだけど」

 秀章は前を向いたままからからを笑った。

 秀章はラジオなんかで気に入った曲を聞くとすぐにあたしの手を引いて踊り出す。あたしも秀章も昔からダンスを習っていたから、お互いが練習相手だった。今はもうやめたけどその感覚が今でも身体に沁みついている。まぁ音楽に合わせてステップを踏むのは楽しい。

「光には真っ青な色のドレスが似合うよ。アメージンググレースとか?」

「あんたそれ好きねぇ」

「光だってカルレクスばっか踊ってたじゃん」

「カローラ最高だから良いでしょ」

「ね。夏休み終わって大学戻ったらやろうよ」

「面倒……」

「楽しいって」

 

 秀章はあたしについてくるけど、あたしの手を引いて前を歩いていくことも多い。嫌だって言ってもうまい具合に付き合わされる。今回もどうせそう。さっき服屋でパーティー用のドレスをガン見していたのはこの伏線だったか……。これはやりそうな雰囲気。何かを言うのも面倒。早く戻ってケーキを食べよう。秀章の笑顔が深くなる。

 

 夕暮れ。あたしたち以外誰もいない家。それは奇妙に神聖な場所だった。生クリームを唇ではむ。秀章はモンブランを頬張っていた。黄色いマロンを取ろうとフォークを突き刺そうとするけど、中に沈んで行ってしまう。むむ、とか言いながら神妙な顔をして何度も挑戦してるけど、取れてない。掬えばいいじゃない。そう言ったあたしの顔を見て、秀章ははっと息を呑む。天才、という呟きと共にマロンがフォークの上に掬い上げられた。会話が馬鹿馬鹿しすぎて呆れた。

「はぁ。幸せって感じするなぁ」

 漸くありつけたマロンを呑み込んでから、へにゃりと笑って秀章が言った。

「モンブランがそんなに美味いか」

「美味いし甘い。けど、こうやって光と一緒にわちゃわちゃしてるの楽しいなぁっていう意味で言った」

「女子高生か。自撮りでもする?」

「いいねぇ! 撮ろう撮ろう!」

「皮肉なんだけど……」

「待ってて、カメラ取ってくる」

 あたしの呟きなんて気にしないで秀章は走って行ってしまった。そもそも自撮りならスマホで済むだろうに。まぁ、大仰な三脚とデジカメを持ってきた秀章を前に言うことなんて何もなかったけれど。

「うん、いい感じ! タイマーセットする。えーと、十秒設定で……三秒前から音変わるよ。よし、いくよー」

「はいはい、お好きにどうぞ」

「ふふふ、はい光、にっこりー」

「やめんか」

 小走りに近寄ってきた秀章があたしの頬をつねって持ち上げる。その手をぺしんと叩くとまた眉尻を下げて笑う。真面目になった秀章があたしの肩に手を回した。あたしは秀章の肩に少しだけ頭を傾ける。びーびーとカウントする音が騒々しくなって、ぱしゃりとシャッターが切られた。

「今更だけど、背景割とめちゃくちゃじゃない? 扇風機映ってたでしょ。あとこの本が散乱した床」

「いいんだよ。面白いし。光が好きなままで良いんだ」

 そう言って笑う秀章に、あたしは結局黙るしかなくなる。分かってて言ってんだろこいつ、と愚痴りたくなる。でもあんたが笑ってて楽しそうだからなんでも良くなんのよ。……そうして突然始まった奇妙な撮影会は終わった。

「じゃあダンスの練習」

「踊んないって言わなかったっけ……? てか今からやんのかい」

「やります」

 抵抗しないあたしの手を取って秀章はリビングに向かう。そっちの方が広いからだろう。こいつ自由かよ……なんでそれであたしについて来たんだか……不思議なヤツ。 引かれた手をぼんやり見つめながら思った。

 

 あたしたちはもう大学三回生だ。本当はインターンとか行ってなきゃいけないんだろうけど、必要がないからやらない。就職はしてもしなくても良かったし、したければ親が適当に見つけてくる。秀章も同じ。それにあたしたちにとって、この時間以上に優先しなきゃいけないものなんて一つも見当たらなかった。中三の時から始まった二人きりの夏休みは一年も欠かすことなく続いている。その期間の長さやスケジュールは毎年多少変わったけれど、無くなった年は一度もない。大抵は休みの限り……中高は一ヵ月、大学は二か月間、まるまる滞在していた。

 身の回りの世話は出来る限り自分たちでやった。坊とお嬢にしてはよくやってる方だろう。家を綺麗な状態で保ち、住み続けることができている。食事は作ったり、食べに行ったりした。その時の気分による。あたしたちは静かな箱庭の中でゆるゆると生きていた。

 今日は母親から連絡があった。さっきも言ったけど、あたしは3回生で、放任主義に近い親も今回ばかりは少々気になっているようだった。そろそろ家に帰ってきたらどうか、なんて言われたけど勿論断った。親には渋られたが、進路はきちんと考えておくと言って押し切った。

 進路……私はどこに行くのだろうか。私の数十年の旅路はどこへ続くのだろう。限りある命を燃やして、どこへ行けるのだろう。どこへも行けない気もするし、行く必要すらないような気がする。私は早々に母との約束をほっぽりだして、森へデッサンに行った。

 

 

 

 夏休みもあと半分で終わる。毎年感じる漠然とした寂しさをあたしは懲りずに噛みしめていた。九月になっても暑さは変わらない。今日は秀章が一人で出掛けている。行先は聞いていない。でもそのうち帰ってくる。

 そんな予想が外れたのは初めての経験で、珍しくあたしは焦った。秀章はなんと言って出て行ったのだったか……。確か図書館に本を返しに行くと言って、でも今日は図書館が開館していないから本を返してくるだけ、だから家で待っていれば良いと言われた。あたしは言われた通りに家で待っていた。秀章はたまに一人ででかける。今までに秀章が時間を守らなかったことはなかった。前にも秀章は同じことを言って出て行ったけど、やっぱりすぐに帰ってきた。それなのに、今日は夜九時を過ぎても帰ってこない。出て行ったのは夕方4時過ぎだったのに。遅くなるなら連絡ぐらい入れてくる。それなのに、何故? 事故? 事件? 嫌なことばかりが頭を過る。じゃああれが最後なの? すぐに帰ってくるって笑ったじゃない。そんなことないって思いたいのに、脳がこの状況を覚えておこうと必死に情報を取り込んでいる。冴え冴えとした空気。すぐに帰ってくる……、鴨居の下で跳ねる黒髪、ここで世界に取り残されたあたし。ひとりぼっち。あたしは覚えてなきゃいけない。このひとりぼっちの感覚を……。だってそこにしか秀章はいないんだから。

 そんなことを考えている間も時間は過ぎていく。それが一層あたしの絶望を濃くする。秀章。そう何度も心の中で呼んだ。今までこんなことなかった。だってそんなことしなくても秀章はいつでも傍にいたから。はやく、お願い、帰ってきて……。がらがら。玄関の引き戸を開ける音。

 

「ただいま」

 

 能天気な声。いつもの声。ふわふわして、捉えどころのない声。秀章の声。玄関から聞こえた秀章の声にあたしは酷く安心して、それからめちゃくちゃ疲れた。あほらし。廊下を歩いてくる音が聞こえる。いつも通りじゃない。心配してたなんて悟られたくなかったから、あたしは努めて普通の顔をしていた。秀章がリビングに入ってくる。

「何してたの。すぐ帰ってくるって言ってたのに」

 そんなに気にしていない風にさらっと言ってやる。秀章は申し訳なさそうな顔をしながらへらっと笑って言った。

「ごめんごめん、スマホ落としちゃって」

「はぁ? もう、気をつけて」

 そんな馬鹿らしいことで……あたし振り回されすぎだろ。思わずため息を吐いたあたしを見て、秀章がまた謝る。もういい。寝る。

「あ、心配してくれてた?」

「うっさい」

「ごめんて~、ほら、機嫌なおして~」

 秀章が後ろからあたしの肩を叩く。ひんやりとした手のひらの感触が伝わる。あたしは秀章を振り返らずに言った。

「もういいから、寝る」

「……怒ってない?」

 秀章がおそるおそる呟いた。そこまでキレてるように見えるかね。

「怒ってない」

「本当に?」

 念を押す秀章に、仕方なくあたしは振り返って言った。

「……スマホ落としたならしゃあないでしょ。それにあたし、そこまで身勝手にあんたを心配できない」

 そう言うと秀章は少しの間惚けた顔をした。それからいつものように困ったように笑った。

「……嬉しいような、嬉しくないような……」

「ともかくもう寝る。おやすみ」

「あ、じゃあ光、今日は一緒に寝ようか」

「殺すわよ」

「……おやすみ」

 

 妙に疲れた。もうなんでも良い。早く寝る。

 

 

 

 

 

 

 ひんやりした手のひら?

 

 

 

 

 

 第二幕

 

 秀章と一緒にいられない。

 

 あたしはなんでか一人だった。秀章の別荘に来ているのに、あたしがいつも一人で家にいる。秀章の帰りが遅かった夜の次の日、秀章は寝込んでいた。体調が悪いと言って。あたしは看病しようとしたけど、秀章は嫌がった。

「大丈夫だから。少しゆっくりしとく。静かにしておいてくれたらすぐ治るから」

 布団の中で弱々しく秀章は笑った。心配になったあたしは秀章に触れようとした。けれど、大袈裟に跳ねる秀章の肩の前で私の手は止まった。嫌? なの? 秀章が布団の中に潜り込む。行き場の無くなったあたしの手が空中を彷徨う。少しの間、あたしはその場に馬鹿みたいに突っ立ってたけどどうしようもなくなって部屋を出た。

 次の日も秀章は寝込んでいて、昨日のことを少しひきずっていたあたしは部屋に近付くこともしなかった。でもその次の日も、またその次の日も、秀章は部屋から出てこなかった。もうなりふり構っていられない程に心配になったあたしは秀章の部屋に入ろうとした。でも部屋には鍵がかかっていた。呼びかけにも応えない。意味なんてないのは分かっていたけど、ドアノブを何度も捻って叫んだ。ほとんど錯乱していたと思う。確か秀章の名前を呼んで、よく分からないことを口走っていたような気がする。もう覚えていない。あたしは扉を背に座り込んで泣いていた。

 

 気付いたらあたしは自室の布団の上で寝ていた。すぐには昨日のことを思い出せなかった。でもぼんやりしているうちに、秀章の部屋の前で泣き疲れて眠ってしまったことを思い出した。じゃあなんでここに……? あたしは気付いてすぐに走り出した。秀章だ! 会える! 朝の光が眩しくて、寝起きにいきなり身体を動かしたせいでふらふらした。でもなんでも良かった。期待をこめて、あたしは秀章の部屋の扉を開けた。秀章! でも先には誰もいなかった。あたしは家の中を走り回って、それから漸くリビングのテーブルの上に残されているメモに気付いた。

 

“ごめんね光。少し出掛けてくる。先に寝ててね。俺のことは気にしないでいいから”

 

 あたしはまた泣いた。それは秀章の何かを掴むことができた深い喜びと、あたしから離れて行ってしまう悲しみが綯交ぜになった涙だったと思う。秀章の優しさに溢れたメモが本当に愛おしくて、でも死にたくなるぐらいに苦しかった。メモはぐちゃぐちゃになって、文字も水に濡れたせいでふやけてしまった。ざまあみろって思った気がしたのに、一瞬後には悲しくて悲しくて仕方がなくなった。なんで、秀章。

 あたしはずっと秀章を待ってた。リビングの椅子に座って、ずっと。白い朝の光が夏の強い日差しの色になって、それから少しずつ温度をなくして行って、森が夜に沈んでも、ずっと、ずっと。それからまた朝陽が昇って、でも秀章は帰ってこなかった。あぁ、もう秀章は帰ってこないのかな。そう思うとまた苦しくなった。でも最初よりは酷くなかった。人ってこんな悲しいことにも適応するんだ。寝てない頭でぼんやり思った。だったらもう、あたしは人間じゃなくて良い。秀章の何もかもを失わなきゃいけなくなるぐらいなら人間なんてやめる。そのうちあたしはまた眠っていた。

 

 次に気付いた時は夕方だった。いつの間にか眠ってしまったあたしの肩には薄手の毛布がかけられていた。でも秀章はいない。テーブルの上を見ると、ぐちゃぐちゃになったメモの隣に新しいメモが置かれていた。

 

“光、ちゃんと布団で寝てね。ごめんね”

 

 秀章、あんた帰ってきてるのね。それだけでも嬉しい。あたしはメモに祈った。お願いだから、秀章がいなくなりませんようにと。メモだけでも良い。秀章が完全に消えてしまうよりずっとましなの。だからお願い。それからあたしはまた流れてくる涙を拭った。秀章はきっとまた帰ってくる。だから待ってる。あたしは自分の部屋に戻ってまた眠った。

 起きたのは早朝。でもよく眠った。すぐに秀章の部屋に走る。やっぱり秀章はいない。それからリビングへ向かう。テーブルの上には新しいメモが置かれていた。

 

“ちゃんと寝てくれてよかった。ご飯もちゃんと食べて。ごめんね、光”

 

 もう多分これしかないんだと思った。秀章はあたしの前に姿を見せない気なんだと。でも秀章はいる。帰ってきてる。まだあたしの傍にいる。そう思うと安心した。それから少しずつ冷静になった。しばらく取っていなかった食事も取った。秀章が人間なら、あたしも人間でいるから。

 

 また少し時間が経った。あたしは正常な感覚を取り戻してきていた。相変わらず秀章はメモだけを残して姿を見せない。でもメモがあるだけであたしは安心できた。

 

“おはよう、光。何か音楽を聴いて。悲しい歌と、楽しい歌を。光の好きな音楽は俺も全部好きだったよ。光、ごめん。”

“おはよう、今日も天気は良さそう。光の描く森が見たいな。俺にとっての光の絵は、多分光にとってのダヴィンチだよ。光、本当にごめん”

“光、今日は星が流れるんだって。光より輝く星なんてないけど。多分、俺は馬鹿だね。本当にごめん”

“お願い、光。ごめんね”

“光、ごめんね”

“光。光。お願い。光。本当にごめん”

“ごめん”

“光、こけたのをそのままにするのはだめ。沓石でどうしてつまづいちゃうかな。ちゃんと消毒して絆創膏を貼って。心配だよ。本当に。光は妙にぼけてるところあるよ。本当に光って。光、光、ごめん”

 

 秀章は必ず謝っていた。メモにぐしゃぐしゃの皺が寄っていることもあった。いつの間にかあたしは普通の生活に戻っていて、夏の熱が少しずつ冷めていくのを感じていた。あたしはいつでも秀章を近くに感じていた。朝起きればリビングのテーブルの上にメモが置かれている。もう秀章の姿を随分と見ていないのに、なんだかずっと傍にいたような気がする。あたしは不思議な心地に包まれて生きていた。もう何も考えたくなかった。だってこうしていれば秀章の傍にずっといられる。これ以上何も失わないで済む。だからもう答えなんていらなかった。この日々以上に欲しいものなんて一つもないのに、時間は残酷に全てを奪っていく。

 もうあと二週間もすればこの時間は終わる。そうしたら秀章はどうするの? 秀章。ねぇ。

 

 当たり前の疑問の答えをあたしは探さなきゃいけない。

 

 *

 

 “おはよう、光。光はいつでも本当に綺麗だな。多分。ずっとずっと綺麗だよ。光。ごめん”

 

 今日の秀章の言葉はそうだった。馬鹿。本当に馬鹿。いつ見てんのよ。適当なことばっか言って。あたしは思わず笑ってしまった。ねぇ、秀章。やっぱりあたし、あんたと一緒にいられたらなんでもいいのよ。だからね、いい加減向き合うよ。だって必死に考えたら、あんたと一緒にいられる道を見つけられるかもしれない。このままでもいいのに、絶対にこのままではいられないの。だから、進むね。

 

 あたしは今まで置かれたメモを全て持ってリビングの椅子に腰かけた。いつもメモが置かれている場所の前。昼の光が沈み出して、少しずつ世界が夜になろうとしていた。メモを少しずつ見ながら考えた。もちろん、秀章がおかしくなった日は分かっている。帰りが極端に遅くなったあの日……。あの日に何かがあった。そしてそれをあたしに知られたくないからこうやって姿を現さない。それだけじゃ分からない。でも考えなきゃならないことはまだある。

 

“ちゃんと寝てくれて良かった。ご飯もちゃんと食べて”

“こけたのをそのままにするのはだめ。沓石でどうしてつまづいちゃうかな”

 

 寝たっていうのは帰ってきてあたしの部屋を見ればわかる。それにショックでそれまでご飯を食べてなかったことも予想すればわかることかもしれない。でも沓石で転んだことは? あたしが寝ている間に身体を見れば……すごく殴りたいけど。まぁどこかで怪我をしたことは分かるかもしれない。でもなんで沓石ってことまで分かったの? まるで傍で見ていたみたいに……。

「分かんないわよ。あんたのことなんて」

 あたしはため息を吐いた。実はずっと考えていたことがある。多分秀章はそれを避けて消えたのだろうと思う。あたしがその手を使う前に。……手って程のものでもないんだけど。でも、今ならできないこともない。というかこうするしかないし。

 あたしは部屋からメモを取ってきた。それから黒いボールペンで秀章へメッセージを書く。

 

“ねぇ秀章。あたしやっぱりあんたと一緒にいたい”

 

 あたしだって知ってることもあんのよ。

 あんたがあたしのお願いに弱いってことぐらいは。

 

 秀章へのメッセージを書いた後、あたしはメモをテーブルに残して自分の部屋に戻った。それから眠った。何もしていないのに疲れていた。秀章は絶対に来る。そう分かっていたからあたしは安心して眠ることができた。家に一人でいることにも慣れた。そんなのは嫌。なんであんたがいないのか分かんない。

 なんであたしが一人で生きてるのかも分かんない。

 

 目が覚めたらもう夜だった。なんだかそんな気がしてた。あたしはそっとベッドから抜け出す。窓の外には月が出ていた。少しでも息をしたら見つかってしまうんじゃないかって思った。忍び足で部屋から出る。あたしは落ち着いてた。だって知ってる。この先には秀章がいることを。あと十歩。……あと五歩。あと……。

 

「……会えると思ってた」

「……うん」

 

 あたしはリビングの入口で止まった。月明りだけが静かに部屋を照らしていた。いつもメモが置かれていたテーブルのところに懐かしすぎる人影がある。でも月は秀章を照らさない。いや、秀章が光を避けているのかもしれない。あぁ、本当に何も変わらないなって、そう思って、でも本当は何もかもが変わってしまっているんだってあたしも秀章も気付いてて、それで……、それでここに立ってる。

 

「ごめんね」

「……」

 

 秀章が謝る。何度も聞いた言葉。いや、見た言葉。暗闇のせいでどんな顔をしているのかは分からない。でも知ってる。謝る時のあんたはいつでも眉尻を少し下げて、でも口元はちょっと笑ってる。でもその中途半端な笑顔が悲痛で切ない。だからあたしは黙る。

 

「あのね、光。ごめん。俺、でも光に会いたくて。ずっと光の傍に」

「傍にいたの?」

 秀章は溜まったものを吐き出すように言葉を紡いだ。まるで泣き出す前の子供のように。きっとそれを止めたのは多分あたしも子供だったから。

「……うん」

 秀章が一瞬呆けるように黙って、それからぽろっと呟いた。まるで迷子になってしまったよう。あたしがいるのに秀章は一人で迷っていた。

「秀章はあたしと一緒にいたの」

「うん」

「でもあたしはずっと一人だったよ」

「……うん」

「……酷い」

 そんなのって不公平。あたしの呟きに秀章が息を詰まらせた。言わなきゃいけないことも、言いたいこともあったはずなのに何も分からなかった。今更秀章がいるってことにすごく喜んでいる自分に気付いていて、本当は近寄って抱きしめたいって思ってることも分かってた。それでもその一歩を踏み出さないのはまだ少しだけ残ってる理性のせい。噛み付いてやりたかった。あんたがあたしの傍を離れるなら、その喉笛に噛み付いて殺してやりたい。そうすればもういなくならない。狂暴な夢は何故か酷く悲しい顔をしていて、雨が降る暗い森の中に佇んでいた。

 

「一緒にいて」

 

 あたしは言った。それしか言葉が出なかった。静寂。あたしたちなんていなかったかのように世界は静かだ。蝉の声もいつの間にか聞こえなくなっていた。でも秀章がいない世界に気にしなきゃいけないものなんてなかったから今まで気付かなかった。

 秀章は何も言わない。あたしは待つ。秀章があたしのお願いを断ったことはない。

 

「……ごめんね」

 

 秀章が小さく謝った。多分、もう笑ってない。

 

「……どうして」

「……ごめんね。もう一緒にはいられない」

「でも秀章はあたしと一緒にいたんでしょう」

「光」

「なんでだめなの」

「……光、考えて。もう分かってるでしょう」

「やだ」

「だめだよ、光。ちゃんと考えて。俺の言葉。もうほとんど分かってるでしょう」

「嫌!」

 

 やだ。何も聞きたくない。その言葉の矛盾をあたしはよく知っていた。あたしは何もかもを聞きたかったはずだった。秀章に何があったのか、なんで秀章があたしと会ってくれなかったのか。でも嫌。聞きたくない。何も聞きたくない。考えたくない。

 

「光、ごめん。本当にごめん」

「嫌!」

「多分、やっぱこんなことしなきゃ良かったと思う。俺が、結局俺が弱かったからこうなっちゃったんだと思う。俺が光から離れたくなかったから」

「やだ。お願いだからもう何も言わないで……。お願い」

 あたしは耳をふさいで地面にうずくまった。気持ちが悪かった。あぁ、何もかもを失うんだって。それがこんなに怖い事だなんて知らなかった。いや、きっと誰も知らない。秀章を失うあたししか知らない。気配が近付く。影からそっと月明りの下に。……あたしの傍に。

 

「……光」

 そっと肩に手がかかる。塞ぎきれない声があたしの耳に入ってくる。だってこうやって手の感触だって分かるのに。あたしは顔を上げる。

 

「俺、死んでる」

 

 白くて、何もかもを浄化してしまうような月の光。その光を浴びながら秀章は悲しそうな顔をして、でもやっぱり少し笑っていた。……だって何も変わってない。

 

「もう分かってるでしょ。知ってるよね? だって連絡が来たもんね? トラックにぶつかって即死したって」

「……嫌」

「お願い。光。もうやめよう。光は生きてるから。でもあんまり光が泣いて、事故のことまで忘れちゃうから心配で、こんなことになっちゃったけど」

「そうよ。だってここにいるじゃない。ここに。触れる。メモだって」

 あたしは喚く。可能性がないことなんてはっきり分かってた。

「俺もそれはよく分からない。でも俺は死んでる。事故の記憶もはっきりある。病院も。意識が消えてく感覚も。それから気付いたらこの別荘の前に居たんだ。俺は中に入っていった。光はずっと泣いてた。俺には気付かなかった。しばらくしたら光は泣き止んで、眠ってた。起きた光はぼんやりしてて、様子がおかしかった。それからずっとそわそわしていて、でも泣いたりはしてなかった。まるでまだ俺を待っているようだと思って……。それで俺は分かった。光は忘れちゃったんだって。光はずっと俺を待ってた」

「……待つに決まってる」

「でも光には俺が見えない。俺は傍にいた。どうしようもないって思ってたら、何でか光は俺を見つけた。少しの間だったけど。俺は光の夢をなんとか引き延ばせないかって思って。……ごめん、結局俺が光に会いたかっただけなんだけど。俺は光の生活に少しだけ紛れ込んだ。光に俺の姿が見えたのは最初の二日だけだった。なんでだろうね? 別にものに触れないなんてことはないんだ。だからメモが残せた。光がちょっと元気になるまでって思って」

「それでまた消えるの」

 秀章は悲しそうな顔をして口を噤んだ。

 

「……やだ」

「光」

「あたしも行く」

「……だめだよ」

「嫌。あたしも行く。秀章がいないならこんなところにいる意味なんてない」

「だめだよ。光は生きて幸せにならなきゃいけない」

「そんなこと少しも思ってないくせに!」

 あたしは叫ぶ。秀章だって同じだってあたしは知ってる。

「……違うよ。俺は本当に光に幸せになってほしいって思ってる」

「じゃああたしがあんたを忘れてもいいの!? あんた以外の奴と笑っててもいいの!? そんなこと我慢できないくせに!」

 秀章が黙って目を伏せる。

「だからこうしてまだあたしの傍にいて、あたしの前に居るんでしょ! 諦めきれないから! あたしのことを!」

 月明りが照らし出した顔の見えない秀章は酷く項垂れているように見えた。あたしは秀章の手をそっと取った。秀章があたしの気持ちを分かってくれるように。

「なんで置いてくの? あたしは一緒に行きたいのに」

「そんなことできるわけないだろ!」

 秀章があたしの手を振り払って言った。漸く上げたその顔の上には怒りと悲しみが綯交ぜになったような表情がはりついていた。あぁ、こんな顔もできたんだな、なんてあたしは能天気に考えていた。

「光は生きてるんだよ! もう光は俺の傍にいてくれない。俺達はもう違う場所にいる。ずっと一緒にいたかった。でもできない。俺はもう太陽の下を歩ける存在じゃないんだよ。でも俺は、光には輝く世界の中で幸せになってほしい。悪霊と黄泉路を歩いてなんて欲しくない」

「そんなの身勝手」

「そうだよ。俺は身勝手だよ。光みたいに自分の身勝手を認めて、押し付けないなんてことはできないんだ。だって俺は光が好きだから。ねぇ光。お願いだから幸せになって。大好きだよ」

 秀章の目は潤んでいて、涙が溜まっている。それを必死に流すまいと秀章は顔を上げていた。

「それだけは一度も書かなかった」

「できないよ。でもどうしたってそれしかなくて、何度も何度も書きそうになった」

「あたしも好きよ」

 秀章の瞳に溜まっていた涙がぼろりと零れた。

「好き。大好き。秀章。あんたが好き」

「……やだ」

「駄目。やめてあげない。好き。好きよ。大好き。ずっとずっと好きだった。小さい時からずっと」

「やだよ……やめて。お願いだから。今そんなこと言わないで」

 秀章は頭を抱えて俯く。あたしは駄目押しのように秀章に告白を続けた。いや、告白なんかじゃなかった。あたしたちは二人とも互いの気持ちを分かっていたから。でも今まで一度も言わずに取っておいた何もかもを全て流し込んでやりたいと思った。あたしは頭を抱える秀章をそっと抱きしめた。

 

「好きよ。何よりも好き。ずっと好き。あんただけが好き。

 

 だから、あたしを連れて行って」

 抱きしめた秀章の身体がびくんと震える。うううと唸り声が喉から漏れて、それはだんだんと小さくなって最後には消えた。それから身体がきしむほど強く抱きすくめられる。ねぇ。やっぱり秀章はここにいる。だってあたしの身体はあんたのせいでぐねぐね曲がって悲鳴を上げてる。それなのに、あんたがいないなんて信じられる? 身体の力が抜けるのを堪えて、必死に秀章の身体にしがみつく。もう骨が折れるんじゃないかという程抱き締められた後、秀章の身体からふっと力が抜けた。秀章の腕があたしの腕を掴んで引き剥がす。それから秀章は潤んだ目で、でも力強く意思の籠った目であたしを見た。

 

「一緒に来て。俺と生きて」

 

 それは自分の望みが達成される手前で一番上乾いている瞬間。そして、自分の望みに他者を引きずり込む罪悪感と背徳感、悦楽に塗れた瞳。それで良いの。秀章。あたしも全てを捨てる気でいたから。何もかもに気付かないふりをし続けながら、あんたをどうしようもなく欲していた。そんな夢を見て秀章を欲するあたしは狂っているのか。

 いいえ。獣のように一番欲しいものに全てをかけるのは本来一番獣らしい人間の性で、それができない人間なんて葦と変わらない。考えることしかできない無能。あたしは人間。

 

 

 

 ねぇ、秀章。あんたが死んでようがなんだろうが構わなかったの。

 あたしと一緒にいてくれるなら。それ以外は全てがらくたよ。

 

「行こうか。光」

 目の前に差し出される手のひら。あたしは微笑んでその手を取る。もう夏は終わりかけていた。熱はきっと全て目の前の暗い森に吸い取られた。森に夏が落ちる。あたしたちは夏を道連れに旅をする。二人でずっと一緒にいるために。

 

「そういえば、光。これ」

 秀章がそっとあたしの手を取る。

「……何よ。……」

「これ、現像できたから」

「……あっそ」

 手のひらの上に乗せられたのは写真だった。満面の笑みの秀章と、仕方なさそうに笑ってるあたし。ごちゃごちゃした背景。……いい写真じゃん。秀章は嬉しそうに笑った。本当に馬鹿なやつだと思った。

 

 あたしは無造作に写真をポケットにつっこんだ。これはあたしたちが人間だった証。何もかもを捨てると言ったけど、これは例外にしてしまって持って行こう。

 

 

 急にぐっと手を引かれた。何かを思う間にホールドを組まれる。

「何よ」

「黄泉への旅路の前に、一曲」

 睨むあたしに、にっこりと笑って秀章は言った。はぁ? と言うあたしの声も聞かずにステップを踏み出す。狭い道から少し開けた場所に誘導される。暗い森の中で月の光が差し込んでいた。

「アーメイ、ジーングレイス ハウスイート、ザ サーンド」

 虫の声もしない中、秀章の暢気な歌声だけが聞こえる。……素晴らしき恩寵。私のような者までお救いくださる神様。楽しくなったあたしも秀章の声にのせて歌い、ステップを踏んだ。世界の何もかもに取り残され、何もかもを捨てていくあたしたち。でも、きっとあんたとなら行けると思うの。あんたとあたしなら、どこへだって。

 

 ねぇ。秀章。あたしたちは一緒に一万年の旅ができるかしら。