花散王 藤山三鶴

 

 

 <花明王なる名を冠された美しく聡明な王。傍には王が生まれた時から王を知る従者。国に愛され最上の治世を実現させた王は、しかし熱病によって豹変する。控える従者はその傍を離れないまま何を考えていたのか。語らない従者は最期の時、ようやくその思いを漏らす。>

 

 

 かの王は生まれながらに美しいかんばせと類稀なる明晰な頭脳を持っていた。そのまばゆい姿はいつでも花精を付き従えているかのように人々を錯覚させ、その怜悧な瞳は千里をも見通すと思われた。されども王は事実を冷徹に貫き通すだけではなくいつでも民を思いやる心をなくさなかった。王たる素質の全てを携えてこの世に生を受けた王の隣には、いつでも一人の従者が付き従っていた。従者は王が王子の頃、果ては赤子の頃から付き従っていた。従者は王よりも五歳程年上で、二人はいつでも同じものを見て同じ時を過ごした。

 王子が成年するのを待っていたかのように先王は身罷った。若くして即位した王の隣にはやはりあの従者がいた。従者は第一側近として王に仕え、王は周囲の支援を受けながら立派に国を治めた。王は幼い頃、お世辞ではなく神童と言われていた。その一時の治世は後の世でも語り継がれる善政であり、その治世は「鉄と花」と呼ばれた。王は堅実な防衛対策、属州管理を行いながら、財政管理は怠らず、なおかつ民衆への見世物や保障を怠ることもしなかった。王は国を走らせ、諫めつつ自身にも似た花で国民たちを楽しませることも忘れなかったのである。王自身も国を盛大に楽しみ、いつでも笑っていた。王は全ての国民の愛と尊敬に包まれながら、気高き生を生き抜いていた。

 しかし花は病にかかる。王は重い熱病にかかった。国中から最高の名医たちが集められ手を尽くしたが、王の熱が下がることはなかった。国民たちは王の回復を心から祈り、城門の前には王へ見舞の品を持った民たちで溢れた。しかし熱が王の身体を去ることはなく、ついに王が病に伏してから七日目の夜、医師団たちは言った。

「今夜が峠でしょう」

 傍に控えていた大臣、家臣、果ては奴隷までもがその場でめそめそと泣き出し、年老いた者は倒れ伏してしまった。国民たちも何かを悟ったかのように静寂を壊さないまま息をひそめて家に籠っていた。七日もの間、王は此岸と彼岸を行き来し、地獄すらも垣間見ただろう。おいたわしや、花明王よ。おいたわしや……。国の全てが王を悼んでいた。

 

 次の日の朝、王の第一側近である従者は誰よりもはやく目覚めた。寝室の床には泣き疲れた臣下たちが眠り転げていた。従者はそっと王の寝台を覗き込んだ。そこには昨日までと何ら変わらない姿の……いや熱病にかかる以前の美しさを纏った王が静かに眠っていた。それは花咲く前の、雫をまだ乗せたままの蕾を思わせた。王は永遠の眠りについたのだった。その長いまつ毛に縁どられた大きな瞳がきらめくのを見ることはない。二度とないと思われた。従者はじっと王の顔を凝視した。ぴくん、と長いまつ毛が震える。ふるふる……小刻みに揺れた瞼が重々しく開いた。そこには以前と変わらない宝石のように輝く瞳があった。それはゆっくりと従者を捉え、ふわりとほほ笑んだ。

 

 王は奇跡的に回復した。それは神の御業だったとしか思えない。国民はもちろん大臣側近も大喜びし、皆が神に感謝した。神は我らが王をお見放しになることはなかった……、彼の王はやはり神の子なのだ。国は王の聖なる帰還を身を震わせて受け入れたのだった。

 王は熱がひいてからも、しばらく民衆の前にその姿を見せることはしなかった。皆が王の麗しい姿を恋しがりだした時、王はようやく国民の前に姿を見せた。国民たちは久しぶりに見る王の姿に歓喜した。しかし側に仕える大臣たちの顔は優れなかった。そして徐々に王の変化に国民たちも気付きだした。

 最初は妾だった。王は一人の女を愛し、それを王妃とした。以降妾を作ることもなく、王妃だけを愛していた。しかし王は淫蕩に耽るようになる。妾どころか奴隷の女、果ては奴隷の男と関係を持ち、大勢の家臣たちの前で情事を見せびらかした。「我は神であるから、男すらも抱けるのだ」 王は腰を振りながら高らかに笑って言った。

 また、その残虐性も目立つようになった。国技であった剣技は奴隷同士の命をかけた殺し合いとなり、神聖なる剣技場は下賤な血で穢れていった。王の悪趣味は終わらない。王は自身を神とし、他国の人間を神に背くものとこじつけて処刑した。

「我に忠誠を誓うか?」

 王は捕えた異国人にそう尋ねる。しかし言葉が通じないので誓うことなどできない。すると王はこの者に油を沁み込ませた布を被せ、丸太にくくりつける。それを剣技場の天に掲げるのだ。

「神を信じられぬ者に祝福を! 光の祝福を! 我は彼の者を赦そう、光の祝福を!」

 そうしてその身体には松明で火がつけられる。国民たちはこの見世物に酔いしれ、熱狂した。そうしなければ自分たちが「祝福」されることが分かっていたからである。

 王は自身の欲望が赴くままに国を蹂躙し、それと同時に国庫も尽きていった。王はいつでも明るく笑いながら、国の愛を確かめずにはいられなかった。自分はこの国の神であり、国は自分を愛している、王はそんな妄想に取りつかれていた。

 

 国がみるみる衰えていくのを他国が放っておくはずはなかった。属国をいくつも持つ大国であったはずの王の国は隣国の攻撃にまともな抵抗をすることができなかった。防衛線は次々と破られ、敵軍は間近に迫っていた。王は指揮を取れない。とっくに王の目は濁り、その瑞々しい脳は錆びついてしまっていた。しかしその時、第一側近であった従者が軍の指揮を取って単身敵軍に立ち向かっていった。国民たちはその後ろ姿をどうでも良さそうに見送った。国民たちは最早何も期待していなかったのである。しかし、傷を負いつつも国に帰ってきた従者たちの姿を見た時、国民たちの瞳に少しの光が戻った。従者自身も傷を負いながら、敵軍に壊滅的ダメージを与えてきたのである。第一側近である従者は幼少より王と共に勉学に打ち込んだ。絶望に染まったこの国で、今動けるのはこの従者以外にはいなかったのである。従者の指揮の元、国軍は見事に敵軍を退けた。この知らせを聞いた国民たちは涙をこぼし、皆で抱き合って国の危機が去ったことを喜んだ。国民たちは国への愛を思い出したのである。国が危機にさらされ、自身の従者が応戦している間、王は部屋の片隅でぶるぶると震えていた。

 

 従者たちは戦を終え、国へと凱旋を行うことにした。議会の承認も受けており、後は王の許可を得るだけであった。しばらく後、従者の元に王からの書状と小包が届いた。兵士たちはようやく凱旋だと胸を躍らせた。しかし書状には凱旋については一言も書かれておらず、従者に自害を命じる短い文章のみが記されていた。従者は隣国に通じており、王を下すためにこのような戦争を起こした。これは国家反逆罪であるから自害せよ。王の署名と印もあった。これは正式な国命であった。小包には美しい装飾の施されたナイフが入っていた。

 書状を見た兵士たちは憤った。自分たちが国を守り、その自分たちを指揮したのは従者だった。従者が自害する必要などない。王は英雄となった従者を妬んでいるのだ。今こそあの愚鈍な王を打ち倒す時である。最早私たちが愛した王はいないのだと。従者は自害せず、武装も解かないまま国へ入った。

 もちろん国軍の兵士たちが従者たちを待ち構えていた。しかし誰一人剣を取ろうとはしない。黙って道を開けるばかりである。その様子を民衆たちはただ見つめていた。奇跡が……大きな代償によって成った奇跡が終わろうとしていることに皆が気付いていた。国は従者によって静かに占拠され、王だけが取り残された城も兵士たちによって取り囲まれた。従者は兵士たちを残し、一人で城の中へと入っていった。

 

 

 慣れ親しんだ城は重く湿った空気に充ちていた。まるで従者の足を止めようとするかのように静寂の闇が絡みつく。従者の手元のランプだけが頼りなく足元を照らしていた。ぼんやりとした灯りに王の寝室の扉が浮かび上がった。従者は部屋の扉をノックする。返事はない。従者はゆっくりと扉を開けた。王の寝室は月明りに満ちて青白く澄んでいた。従者は大きな窓の傍に佇む懐かしい人影を認めた。一礼して部屋に足を踏み入れた従者に王が気付いて振り向く。その瞳は以前のようにきらきらと輝き、国への絶えぬ愛情を湛えて潤んでいた。王はそっと微笑む。それは花が綻ぶような、愛らしく聡明な花明王として愛された笑顔だった。従者は王に近付いていった。それから二人で城下を眺めた。

「美しいな」

 王が呟く。従者は王の顔を見つめた。

「何もかも成ったか……」

「……えぇ。何もかも」

 王はほっとした様子で目を細めた。それから従者を見て少し眉を下げた。

「すまなかったな」

「謝るには早いですし、過去形はおかしいでしょう」

 従者が珍しく揶揄するような言葉を吐く。それは王と従者の間の確かな絆に裏付けられた冗談であった。王は申し訳なさそうに笑った。

「すまない」

 王が謝る。従者は何も言わずに腰にかけた剣を抜いた。それからひざまずいて王に剣を掲げた。王は剣に手をかざし、その忠誠を受け取る。王はまた笑った。従者の剣が王の心臓を貫いた。

 

 その後、第一側近であった従者は王となり、国に平穏をもたらした。その治世は病に侵される前の先王の治世によく似ていた。従者であった王は何十年もその治世を守り抜き、生きながら神格化されるという話すら持ち上がった。しかし王はこれを退け、堅実に国を運営し続け、自身を国にとって特別なものにすることはなかった。

 

 この王の死は少し特殊である。

 この王はほぼ天寿を全うしながら、最期には自死しているのである。もちろん公には寿命による大往生とされている。しかし、この王は後継者の育成と身辺の整理を完璧に終わらせたその日、自身で心臓を貫いたのだった。王妃が見つけた時、王は椅子にもたれかかり、美しいナイフをしっかりと握りしめて絶命していた。それはあの日、王によってもたらされたナイフだった。従者は最期まで従者であった。

 

「……貴方は何も悪くなかったのですよ」

 

 花は病にかかる。それは花の意思とは全く関係のないところで。そして神はそんな花を救わない。病すら美しいとただ愛で、そのおみ足ですり潰す。従者は神の残酷さをよく知っていた。何もかもを与え、何もかもを王から奪った神。従者は目に見えない何かを酷く恨みながら、強大な力を持つその存在に祈らざるをえなかった。どうか無力な人間から最低限のものだけを供物として取りますように。どうかあのような大きな対価をもう取りませんように。どうか王が全てを取り戻し、幸せに笑っていますように。