書評 『神様たちの遊ぶ庭』 宮下奈都著 七端

 「やっぱり、帯広はやめないか。」夫の希望で北海道に1年間移住することになった筆者宮下一家は、その希望者本人の発言で行先を変更することとなった。彼が行きたいと言い出したのは、トムラウシという北海道で2番目に高い山のふもとから少し行った場所にある集落である。そこは一番近いスーパーまで37キロ、携帯は圏外そしてテレビも難視聴地域に指定されているいわば僻地であった。この本は筆者一家たちがその場所で過ごすことによっておこる変化を描いたエッセイである。

 まずはっきり言ってしまうと私は筆者の宮下奈都氏そして彼女の家族と違い、自然にあまり価値を感じない人間であり、迷わず利便性をとる人間である。そのため彼女が鮮やかに描いている空気のおいしさや素晴らしい景色の数々そして今回テーマである「植物」が自生し生き生きとしている描写を単純にうらやましく見ていた。たとえ同じものを見ても彼女のように心から感動できる気がしないからだ。彼女がトムラウシに移住するとき「私は絶対無理」とわざわざ行ってきた知人がいたようである。エッセイ内でその人物が子供とともに宮下家を訪れるのだが、虫が本当にダメで一切近づけなかったという。そこで筆者は「本当に無理な人は無理なんだ」と感じたと記している。私も彼女が言う「本当に無理な人」なのである。
 小さな集落のため小学校と中学校合わせて15人という小規模なものである。学校の先生だけでなく村の大人たちで子供たちを見守り育てていくことが当たり前の世界である。普段大勢の中の一人として生きている私たちには考えられない世界かもしれない。前述したとおり、私はたぶん筆者である宮下奈都とは真逆と言っていいような考えを持っている。そのため私はこの分に違和感を持った。
「やさしくて、あたたかくて、いい。いいに決まってるよ。」
本当にいいのだろうか。優しさや温かさが煩わしいときだってあるだろう。このトムラウシの人々はみんながいい人だ。いや、エッセイとして世に出すのだからいいように書くのは当たり前なのだが、この村が好きではないという人がいない。それが引っかかってしまうのだ。自分に置き換えて考えてみても、自分のプライバシーが気づかぬうちに村中に広がってしまえるような世界だ。絶対耐えられない。都会の高校に行って体調を崩し、歩くことが難しくなった女の子が村に帰ってきた場面がある。なんでそんなことになってしまったのか、自分でもよくわからないかもしれないことを、大人たちが頭を悩ませている。本人たちは良かれと思っているだろうが、はっきり言っておせっかいであるし、村の住人達の勝手な憶測で自分の気持ちを分かった気になられるということだ、私はそう考えてしまう。
 ここまで長々と書いてきたが、私は単にまるでフィクションかのようにきれいすぎて本当に存在するところだと思えないのである。しかし、筆者が描く初めて見る自然に対するドキドキはとても新鮮で、その楽しさが伝わってくる自然のきれいさに感動したい方々はぜひ読んでみてほしい。