睨みの木

川瀬結弦

 

 

 

 小学校の頃の記憶を思い出してみると、幼い私の世界は不思議であふれていたように思う。とりわけその不思議が取り沙汰されるのは学校の怪談についてである。トイレの花子さん、真夜中の学校を徘徊する人体模型、こちらを見つめる音楽室の肖像画。そういったものはどんな学校にも存在するし、またいつの時代も小学生を恐怖させ、魅了し続けるものである。しかし、年を経る毎にそのような不思議は無知ゆえの幻想であったと悟り、我々はつまらない日常に埋没していくのである。

毎日同じような食事を摂り、同じような授業を受け、同じような友人と同じような話をする。分かりきったひどく明瞭な世界で生きている大学生の僕は次第に次のような欲求を抱く。またあの頃の幻想を取り戻したい。私は不思議に飢えていた。我々の生活には誰も知らない不思議がまだ残されているはずだ。そう思いたい。

 

8月の始まり、夏もいよいよ盛りといったところで、サウナのようにべたべたと粘着質な暑さがまとわりついてくる夏休みのある日、僕はなぜか一人で、ある仕事を押し付けられていた。僕は夏休みになっても実家に帰るという事はほとんどしない。なぜなら家に帰ったって特にすることは無いし、僕の住んでいる寮から駅まで行くには徒歩だと30分以上はかかってしまう。この暑さの中では実家に行くための、たった30分の努力だろうが、やってやろうという気にはなれなかったのだ。だから僕は今年の夏も寮の一室で使い放題のエアコンをガンガンに効かしながらだらだらと過ごしてやろうと決め込んでいた。

 しかし、そんな怠惰を誰に見られたわけでもないのに、僕は50年前の寮の卒業生をもてなすという仕事を押し付けられていたのだ。50年も離れているなんて、どんな人なのか正直年が離れすぎていてイメージしにくい。寮委員会に所属する人がこの手の仕事を引き受けるのが筋というものであるが、今年はみんなその仕事の内容を聞いた途端、実家へとんぼ返りしたという事らしい。そこで、寮の中で「暇そうにしている人物」筆頭である僕に白羽の矢が立ったというわけである。全く、労力を削るための努力、という矛盾したことに長けている連中がこの寮には多いらしい。

 

文句を垂れていてもしょうがないので玄関先で客人を待つ。体育会系の寮生が多く、部活から帰ってくる学生たちのせいで寮の玄関口はいつも砂埃っぽい。これでは50年前の寮生、つまりは老人であろう客人の肺の安全を保障できないため、箒で軽く砂を掃き出しておく。巻き上げられた砂が湖から吹き付ける風に勢いよく飛ばされていく。今日も天気が良くて参るな、と思っていると、砂が飛ばされた先で激しくせき込む乾いた声がした。これはもしかするとまずいことをしてしまったのでは、と思い声の主を見てみるとそれは確かに老人だった。

「ごほっ、こんな暑い日に掃除とは感心ですねえ」

目を真っ赤にしてこすりながらせき込むその老人の見た目は年相応に深いしわが刻まれていて、肌は麦色に焼き付いて、ベージュのスーツを着こなしてはいるが腰が曲がっているため見栄えは好くない。目深にかぶった帽子からは固そうな白髪が覗いていた。

「すみません。ここの玄関はいつも砂で汚れがちですから」

50年来の卒業生への歓迎はまず謝罪から始まった。

 

良治さんというその老人へのもてなしは寮の中を見て回りながら雑談する形で滞りなく進んでいった。

「うーん、やはり何も変わっていないようで安心したよ」

良治さんは赤くなった目で館内を見回すと呟いた。

「そうですかね、恐らく50年前には女子寮は無かったはずですし、お風呂場なんかも最近改築されてできたと聞いていますが」

50年もたっているのだ、いったい彼はなにを見てそう発言したのだろうか。

「うん、うん、確かに私の時代には無かった。でもね、岸田君。寮生たちが作り出すこの建物内の空気がね、そっくり当時のままだ」

良治さんはそう言って。寮生たちの喧騒に耳を貸して満足そうだ。

「昔からだれもかれも馬鹿やっててねえ」

良治さんはそう続けた。確かにこの大学の付近では学生が遊べる場所もないため、寮生たちは湖で泳いだり、寮の中で馬鹿騒ぎをするぐらいしか娯楽もない。

「変わってないと言えば、この寮の外観や部屋の間取りなんかはどうなんです?」

こんなことを聞いたのは勿論理由がある。僕の住んでいる寮である「偲聖寮」は直線的なコンクリートで作られたとにかく殺風景な造りをしている。人をどうにかして多く詰め込もうという事に焦点が当てられた設計で、友人たちからはこの寮は刑務所や監獄を改築したものに違いないと言い出す輩までいる。

「確かに、外観に関してはそこまで変わっていないですなあ」

「湖の傍にポツンと一棟、刑務所のように建っている様はなんだか温かみを与えるという雰囲気ではありませんねえ」

良治さんは寮のあたりを見回しながら言った。

「そうなんですよ、外から見てみると夜なんかちょっと怖いですよ」

僕は笑って答えた。

 

一通り館内の紹介を終え、昔話を聞いていたらもう夕方になっていたので、僕は良治さんの見送りに立っていた。

「今日はわざわざお越しいただいてありがとうございました。貴重なお話も聞けましたし」

「うん、うん、こちらこそ感謝しております。これからも偲聖寮を守り続けてくださいな」

満足げな顔で良治さんは寮を出た。寮に面した道路に出ると、強い風が吹いて良治さんの帽子が吹き飛ばされそうになった。僕も慌てて駆けだしたが、帽子を押さえつけて風から避けようと体の向きを変えると、ふと芹川の方を向いて立ち止まった。

「どうかされましたか」

良治さんは固く結んだ口を開いて

「いえね、まだあの木が立っているのかと思いまして」

「あの木?」

「ほら、あそこ。芹川の橋の近くに立っている木だよ」

良治さんはそう言って指をさした。その指の先を目で追うと確かにその木はあった。

護岸のために植えられた木なのだろうか、芹川の河口にぽつねんと立っている。琵琶湖の強い風に当てられたせいか、かしげているように大きく傾いており、幹の大半はえぐれており、なぜ生きていられるのか不思議なくらいだ。

「いつから植えられているんですか」

添えるように一言告げると。

「あれは彦根藩の頃から植えられた木らしくてね、とんだ老木ですよ」

江戸時代の頃から植えられていたとするなら樹齢は300年を優に越しているだろう。

「へえ、じゃあこれも変わらない物の一つってことですね」

「もちろんそうです。あの木は睨みの木と呼ばれていてね」

「睨みの木?」

「はい、呪われた木とか言われていて当時でも怪談話の種になったもんですよ」

この時僕は少しばかりの興奮を覚えていた。小学校の頃にあったような怪談話が、また大学で聞けるとは思いもしなかったからだ。

「木が睨んでくるんですね」

「うむ、これは噂にすぎないのだがね」

良治さんはこう前置きをおいて僕に話し始めた。

「当時、護岸の工事があってねえ、地質調査か何かで土手の土を掘り返してみるとあの木の周辺で人骨が出土したんですよ。それもたくさんですよ」

両腕を広げてこんなに、と良治さんはその多さを表現した。

「それから学生の間である噂が立ったんですよ。あの木の傍には処刑場があったと。そして罪人たちが怨念や悔恨の混じった瞳で最後に睨む木だから、睨みの木と呼ばれるようになったんだとね」

「あの木は良治さんの時代から既に睨みの木と呼ばれていたんですか」

僕はその時にはもうこの怪奇に心を奪われていた。

「そうですねえ。本当かどうかは分からないですが、その護岸工事でそんな噂が立ったんですよ」

「面白い話を聞かせていただいてありがとうございました」

「いえいえ、ただの噂話にすぎませんよ。では、私はこれで」

そして良治さんは大学と駅とをつなぐ通学バスに乗って帰ると言って、大学の方へ歩いて行った。

「まだこんな怪談話も残っているもんなんだな」

僕はもう一度睨みの木を見てみた。夕方近く、傾斜のついた太陽は真っ赤に濡れている。そしてただ一本ぽっかりと空いた空洞を風で震わせながら、睨みの木は長く陰鬱な影を僕に伸ばそうとしているように見えた。

 

 同じような日常に突如として現れた謎。これほど僕たちをわくわくさせるようなものはないだろう。僕は何よりも睨みの木の謎に迫りたいと考えていた。寮の程近くにある睨みの木、昔からそう呼ばれているようだがその噂に関する真偽は謎に包まれている。この手の話を食い物にして生活している輩を僕は二人知っている。一人は僕だ。そしてもう一人はこの寮に最近引っ越してきた仁村という男だ。この男は中肉中背で顔も二重ぐらいしか特徴がないくらいには平々凡々だが、ネットで過去にあった凄惨な事件の詳細を一生漁って生きていけるぐらいにはこの手の話に対する好奇心はひとしおだ。見方によっては他人の不幸を餌にして生の実感を得る嫌な奴だが、不幸の形がそれぞれであるように、しあわせの形もそれぞれであるし、誰にも迷惑をかけていないので僕はあまり気にしていない。

 仁村を早速呼びつけようと連絡したが、どうやら立て込んでいるらしい。数回かけても電話に出る気配がない。待ちぼうけもばからしいので、僕はいったん腹を満たすために大学の近くのスーパーのうどん屋に行くことにした。

 スーパーまでは徒歩10分もかからないのだが、相変わらずの炎天下で、どんな理由があったとしても外を出たことを後悔してしまう。アブラゼミの声が何重にもなって頭の中に響いてきて、より暑さの実感を反芻させてくる。遠くを見つめると、コンクリートを焼く太陽の熱で陽炎ができている。陽炎の揺らめきがこの土地から潤いを奪っているように見えて、体が枯れていくのを感じた。

 スーパーの冷気を体いっぱいに吸い込みながら一気にイートインコーナーの水をあおる。やっと火照った体を冷やしてひと段落着いたので、周りを見回してみるといつも通りの風景だった。忙しいのか暇なのか、それさえ分からない顔をして主婦や老人たちが青果物を眺めている。イートインコーナーでは子供連れの家族が僕の視線に気づかないまま、アイスクリームを舐めては喋り、舐めては喋りを繰り返している。

「家族連れを見て、幸せを願うような人間になったらお前もおしまいだぜ」

突然後ろから声がした。中肉中背の男だった。

「いいや、平凡な風景の中に一層平凡な奴の影を見るとかえって違和感を覚えるもんなんだと。そう思っていただけさ」

仁村はつまらないといった風で、二重の目をこちらに向けた。僕は構わず続けた。

「お前スマホ見たのかよ。結構電話かけたんだぞ」

「忙しくてね」

そう言って仁村はアイスを舐めた。

「忙しそうには見えんがな」

「実は張り込み捜査をしていたんだよ」

「ネットの住人が今度は刑事ごっこか。世界は今日も平和だな」

「実はそうでもないんだよ、ミスター岸田。この世にはびこる巨悪を滅ぼすことのできる人間は俺しかいないんだ」

仁村が大して面白くもない冗談を飛ばすのはいつものことだった。

「そんなことよりお前、睨みの木って知ってるか」

「睨みの木……ああ、寮の近くの木か。よく寮生の間で話題になってるぞ」

「嘘だろ。お前この前寮に来たばかりだろうが」

「いや、お前が部屋から出ないだけで、俺はちゃんとご近所付き合いを大事にするタイプなんだよ」

仁村はネットの住民だとばかり思っていたから、意外な一面だった。

「睨みの木に睨まれると体から蕁麻疹が出て、夜な夜な悪夢にうなされるんだってよ」

「なんだそれ、俺が聞いたのと違うな」

「まあ、ただのうわさ話にありがちなやつだな」

仁村は机にもたれかかってアイスをぱくついた。

「俺が聞いたのは、芹川の河口に処刑場があって、睨みの木には罪人たちの人骨がたくさん埋められていて、その怨念がこもっているっていう話だ」

「へえ、桜の木の下には死体が埋まっている、ってね」

にやっと笑った仁村の口からは八重歯が覗いていた。この顔は確実に興味を示している。仁村なら絶対乗ると思っていたのだ。

「お前好きだろ、こんな話」

「いや、うわさ自体には興味が無い。噂ってのは言わば神秘のヴェールに包まれた美女みたいなものさ。その下にどんな顔をのぞかせているのか、うわさの持つ真実にしか興味が無い」

それらしいことを言っているが、要は睨みの木に関する真偽を確かめたいのだろう。

「あの木が睨みの木と呼ばれるようになったのには理由があるはずだ。つまり睨みの木の付近には本当に処刑場があったのか。これを知ることができればこの噂は根拠のある真実へと昇華する」

「楽しくなってきたな。行こうぜ、ミスター。まずは彦根藩400年の歴史をじっくり丁寧に紐解いていこうじゃないか」

歩き出した仁村の手からはぽたぽたとアイスクリームが落ちていた。

「ミスター、俺はもうくたびれたよお」

セミの鳴き声しか聞こえない静謐な図書館で、二人の男が黙々と資料に目を通している。もちろんそんな暇人は仁村と僕しかいない。

だが一向にその甲斐なく、睨みの木に関する話は全く彦根市の伝承には出てこないし、人骨が発掘されたという新聞記事さえ見つけることが出来ない始末であった。

「とはいってもなあ。睨みの木が全くの噂話だと決めつけるのは僕たちの体面に関わるぜ」

「もちろん、時間を持て余していることだけが取り柄の俺らが調べ物程度で根を上げるのは情けないけどさあ」

仁村は50年も前の新聞紙をめくっては見、めくっては見を繰り返しているが、どうも退屈そうで目が滑っている。

「人伝いに聞いたって根拠のありそうな情報が得られなかったんだから、文献にエビデンスを求めるのは必然だろ」

「またまた真面目ぶっちゃってさ」

「お前はもっとまじめに働け」

「えー。だって人に聞きまわったのはほぼ俺だぞ?今度はミスターの番だって」

「大した情報も集められなかったくせに」

「いいや、有益だね。聞くところによると睨みの木は幾度の護岸工事にもかかわらず、ただ一本切り倒されずに生き残ったんだ。それもただの偶然じゃない。あの木を切り倒そうとした業者が突然死したって触れ込みらしい。それにあの木の下にたんまりの人骨があるってニュースときた。罪人の祟りを恐れた業者や役所があの木を避けるようになったというのが寮での通説だね。これが睨みの木の真実なんだよ」

仁村は新聞紙をめくる手を止めて扇風機とにらめっこしている。確かに仁村の噂が真実である可能性は否定できない。ただ。

「そもそもだ。そもそもあの場所に処刑場があったって事実がないじゃないか。ただの墓場だった可能性もあるぞ」

「うーん。墓場の可能性もあるけど、当時の処刑場って町のはずれに作られるのがセオリーらしいじゃん。そして、その処刑場のすぐ隣に罪人の埋葬用のお墓が建てられる。彦根市のホームページに書いてあったけど、芹川は彦根の城下町と郊外とを隔てる人工河川だったらしいよ。その証拠に彦根城川の土手だけが異常に強く作られているんだ。その河川事業の時にエノキとかケヤキが堤防強化のために植えられたらしい。そのケヤキのうちの一本が睨みの木ってわけさ」

「つまり、芹川という彦根城下町とそれ以外を隔てる境界線にたくさんの人骨があるという事や、川の近くでの処刑の利便性を考えると睨みの木があった場所が最適と言いたい訳か」

「そうゆうことー。さあ本業に戻って自宅でまとめサイトでも見ようぜ」

仁村の言っていることは確かに合理性がある。だが、それでも何かが引っかかる。

「そういえば、偲聖寮が昔刑務所か牢獄だったって話が出てたよな」

「あー、あったねそんな話」

「あの話って実際どうなんだ?」

「全く根拠のないデマだね。建物が殺風景であることと、刑務所が殺風景であることを短絡的に結びつけた妄想だね」

「そうか、ありがとう」

「どうも。まあ何でもいいけど、俺はもうお暇させてもらうよ、ミスター」

「ああ、付き合わせて悪かったな」

自動ドアが音もなく開くと、冷気が逃げていくように仁村もそそくさと帰っていった。代わりに入ってきた湿った暑さが図書館の中を彷徨った。

 

結局あの後図書館が終わる直前まで資料に当たっていた。眠たそうな眼をした図書館の司書にやたらと昔の新聞を引き出すよう頼んでいたら煙たがれられたので明日はもう行かないと思う。探していたのは睨みの木の周辺で人骨が見つかったという新聞記事だ。しかし、良治さんから詳しく話を聴けなかったのもあって、新聞記事の時期を特定するのに困難して結局見つけることができなかった。つまりは徒労という事だ。

新聞の代わりに眺めていた彦根市史には死刑は牢屋内で行われるものであり、場所も百姓が長曽根町、町方が四十九町と、身分によって拘留される牢屋が違うという事が書かれていた。重罪人に関しては沼波刑罰上で打首が行われていたそうだ。睨みの木があった場所は長曽根町である事に間違いはないが、処刑場という建築物はそこには存在しないのだ。さらに明治初期の地図を確認したところ、睨みの木の場所には当時墓場があったことが分かった。仁村の言っていたことは資料に根拠を求めると間違いだという事になる。あの場所には処刑場なんかは無かったし、何より墓場があったのだから、当時の遺骨が護岸工事の地質調査か何かで出土した。睨みの木の真実はただそれだけの事実だったのだろう。なんともつまらない話だ。こんな時は偲聖寮から見える琵琶湖に沈んでいく夕日さえ陳腐でありふれたものに感じる。真実は隠されて誰にも触れられないからこそ価値が生まれるらしい。それもとびきりにつまらないやつだと尚価値が上がるのだ。開けっ広げにされた真実など、もはやただの日常の一部になり下がってしまうだろう。

良治さんから話を聴いたときの興奮、道端に落ちているやたら丸っこい石を拾って、それがあたかも人類の大発見のようにはしゃぎまわっている子供のような興奮、そんな興奮はもう思い出すことが出来ないほどに萎えていた。ただ、当たり前のように毎日を消費するのが焦燥とも感じられないまま、二週間も経っていたことに驚いた。ベッドで死んだふりをしているのも飽きたから、シャワーでも浴びることにしようと部屋を出た。こんな時はとびきり熱いシャワーを浴びて、体の輪郭をはっきりさせる感覚に浸るのが一番気持ちが晴れる。しかし、そんな思惑とは裏腹に足は自然と寮の外へ向かっていた。見えない糸に繋がれて、誰かに引きずり込まれるように足を進めた。沈み切ったばかりの太陽の名残か、鉄色の街灯、クリーム色の外壁、汗を煮詰めたようなくたびれたアスファルトさえも赤紫色に照らされていた。湖風に吹かれた雑草が卑しくささやいているが、何を言っているのかよく分からない。なぜなら、僕の視線は目の前の睨みの木に釘付けになっていたからだ。

 深くえぐれた樹皮は大きな口を開けてより深く、濃い闇へと誘っている。僕はもうこの木に一切の恐怖も興奮も感じえないはずだったが、一握りの砂がさらさらと指の隙間から零れ落ちてゆくような哀愁を感じていた。木を囲うように設置されているベンチに腰掛けて芹川の流れを聞いた。なんの優しさや同情も誘わない無機質な音程が続いたが、かえってその無関心な趣に僕は安心した。その音程はまるで僕の生活にそっくり似ていたからだ。ずっと長くその音に心を預けていると、無機質な音程の中に、一つ、また一つと違う音が流れ出した。ゆったりとした拍動のように一定のリズムを刻んでいる。一つ、また一つと響いて、そして僕のすぐ近くでその音は止んで、すぐ隣に生暖かい空気を感じた。

「そして隣を見るとひとりの女が座っていた。って感じかい?ミスター」

「悪ふざけはよせ、膝の爆笑が止まらん」

膝だけではなく、肩まで震えて、冷や汗が出ている。仁村はつまらない冗談を吐く割に、悪ふざけは時々度が過ぎる。

「ごめんね。怖がらせるつもりは全くなかったんだけど」

「で、こんなところで何の用だ」

「うん。しばらく考えてたんだよ。睨みの木についてね」

仁村はそう言って夏の星空を指で繋げて線を描いていた。

「何かわかったのか」

「いやね、ミスターに教えてもらった情報を繋げてみたらふと疑問に思ってね」

「疑問なんて起きる余地がないだろ、睨みの木の周辺には処刑場なんてなかったんだ。睨みの木の祟りに関する話は、当時の『墓場に近い木』という事から派生した噂に過ぎないんだよ」

「そうだね。ただ、いったいこのあたりにあった墓は誰のために作られたお墓だったのかなって。それが気になったんだ」

「誰のためって、そりゃあ彦根の城下町の人のためのお墓だろう」

すっかり暗くなった夜空は視界の端から端までを黒い布で覆って、鉄で作られた蓋のように重くのしかかっている。

「もっと想像力を膨らましてよ。こう考えることはできない?俺が前に言ってたこと思い出してよ。処刑場の近くに埋葬用のお墓が建てられるってこと」

「言ってたな。でも、当時のお墓の近くに刑罰場は無かっただろ。処刑場は沼波刑罰場だけだ。それは今の彦根口駅の周辺だ。こことは地理的にも離れすぎているぞ」

処刑場というフレーズが口をついて出た途端、ある事実を反射的に思い出していた。

「いや、まてよ、確か彦根市史によると、特別なことがない限り処刑は牢屋の中で行われていた……」

仁村はにやりと笑って答えた。

「そう。つまり牢屋イコール処刑場の方程式がまんまと出来上がる。そして百姓牢はここ長曽根町にあるんだ」

「じゃあこの周辺にあったお墓は、長曽根町にあった百姓牢で執行された罪人たちの埋葬のために作られた……そう言えるのか」

涼しげな風と邯鄲の鳴き声が、はかない夢の食べ残しのように緩く響いている。

「でも推察はそれじゃ終われないんだ」

仁村は淡々と続けた。

「じゃあ処刑場、いや、長曾根の百姓牢は一体どこにあるのか。処刑場の近くにお墓がある。それはつまりお墓の近くに処刑場がある可能性を示唆しているとも言える」

「つまり睨みの木の近くに処刑場があるってことなのか」

「かもしれないね。そして僕は偲聖寮が当時の長曾根町の百姓牢があった場所だと睨んでる」

「おい待てよ。偲聖寮が刑務所や牢屋を改築した建物って噂はデマだったんじゃないのかよ」

「ミスター、落ち着きな。百姓牢は江戸時代の産物だよ。偲聖寮はどっからどう見ても現代建築じゃないか。つまり、改築されたって話は間違ってる。正しくは百姓牢の跡地に偲聖寮 が建てられと考えるのが自然だね」

「確かにそうだな。でもその根拠は?さすがに長曽根町に百姓牢があった事と、お墓がその隣にあった事だけでは論としては弱すぎないか」

「根拠といえるかは微妙だけど、偲聖寮は国立滋賀大学が運営する建物だよね。つまり、寮を建てるにあたっては国が適した土地を買い取って偲聖寮を建てたわけ。もし国が土地を買い取るのならどんな土地がいいと思う?」

「安くて、大学から近い土地なら文句なしだな」

「でしょ。安い土地、それは主にいわくつきの土地に見られる傾向だ。『琵琶湖沿いの強い風が吹きつけてきて、墓場があって、その隣に処刑も行われている牢屋があった土地』なんて安くて且つ買い手がつかないという事など素人でも分かることだよ。逆算するんだ。国がわざわざ買い取った土地というという事はそれだけの理由があると考えなきゃ。国が昔お墓の近くにあった土地を買い取った。なぜ?安いからだね。なぜ安いか?百姓牢がお墓の近くにあったからって考えられないかな。それに大学に近いと来たらこれ以上おあつらえ向きの土地はないよ

振り返ると偲聖寮の窓は明かりがつき始めている。ぎゅうぎゅうに押し詰められたあの窮屈な建物で今日も学生たちが何も知らずに語らいあっているのだろうか。

「まさか」

「まさかって思うよね。睨みの木の謎を追っていたらもっと身近にこんな疑惑が残されていた、なんてね」

なんだか自分が今ここにいることにひどく薄気味悪さを感じた。仁村は静かに立ち上がって、さあ帰ろう、ミスター、と呟いて寮へと歩き出した。しかし、本当に帰る場所として認めてしまっていいのだろうか。僕たちは幾度にも積み重ねられた罪の上で安住しているのかもしれないのに。やっとのことで腰を上げて歩き出した帰り道、睨みの木が大きな口を歪ませて僕たちの後姿を見つめているような気がした。

 

 

 しかし、こうしてまた別の謎が隆起してきたにも関わらず、僕たちはもうそれ以上何かを追い求めることは止めてしまった。すべては空想で、全ては仮初の推論にすぎないと決め付けた。深い根のように張り巡らされた鬱屈した物体を掘り下げることはよくないと思ったのだ。それに例えるならば、謎を解き明かすためのカギを見つけて、はしゃいでいた気になって、箱の中身を空けたらまた箱がある。そうしてまたその箱を開けてみたらまた小さな箱がある。そうして5つも6つも繰り返してどこまで僕たちを翻弄させるんだろうと一種わくわくしたような、あるいは次も箱が出てくるんだろうと、それが当たり前なんだと慣れてしまったような気持ちで手のひらほどの箱を開けてみると、そこには何もない。かっらぽで、空虚で、拍子抜けで、つまらない。それが真実の実態だ。僕はそう思う。それでも、もし、睨みの木や偲聖寮の謎について解き明かしたいという者がいるのならば僕は止めない。だが、その真実が陳腐で子供だましなものなのか、はたまた触れたものをたちまちに犯してしまう毒物なのか、保障することはできない。