桜恋 安穏剣呑

 春休みに入り、時間を持て余していたほど。先輩から引っ越しの手伝いをして欲しいと呼び出された。
             仕方ないな、という割に足取りは軽く。
 ゆったりとした風に揺れる桜をみて、先輩はもう卒業なんだと当たり前のことを繰り返す。
 この気持ちは何だろう。
 誰に問うのか、誰に拾われるのかさえわからない疑問を抱えながら、私は先輩の家に向かった。


――――


「桜って、花の代表って感じだよね?なのにどうして引き立て役みたいな意味でつかわれるんだろ」
 なんて、突拍子もない疑問をぶつけてきたのは先輩。
「知らないですよ」
 なんて、素っ気なく答えるのが私。
 この人はいつもそうだ。
 テキトーというか、楽観的というか。
 時に、訳のわからないことも言い出すけれど、まぁ一緒にいて飽きないかなとは思う。
 先輩とは入部した部活で知り合った。いや入部させられた、か。
 四月の初め。同級生は、知り合いと何の部活に入るかなどと談笑し、そうでなければ、お互いに素性を探りあっているかだ。
 幸い、私は前者だが、部活だとかの話はあまり得意ではない。これといった趣味のようなものを持ち合わせていないのだ。
 というわけで、授業がない私が向かう場所は決まっている。
 この時間をどうしようかと思案しながら、あと一歩で学外というところで。
「あなた、部活は?」
 そう、これが最初。
「別に。興味ないんで」
「まぁ、そういわずに。見学だけでも」
「どうせ、暇でしょ?」
 さて、困った。
 部活なんて興味ないが、仰る通り、断る理由もまたない。
 このまま無理に帰ろうとするのも、なんだか、ばつが悪い。
「わかりました。少しだけですよ」
「やった」
 無邪気に笑うその人を見て、子供っぽいなと思った。
 その人に連れられて歩くこと約五分。どこかの建物らしいが、学校についてはまだ明るくない。ただ、ここまでくると外の喧騒とは無縁のようだ。
「ここは...?」
「あぁ、ここは普段使われないんだ。俗にいう旧校舎ってやつ」
 へー、ほんとにあるんだ。漫画やアニメでしか見たことなかったな。案外汚くないんだな。などと感心していると、部室と思わしき場所に到着した。
 先輩は深々と頭を下げ、おどけた調子で言った。
「ようこそ、我が、漫画研究会へ」
「私は会長の深美 怜。よろしくね」
「はあ」
「はあ、じゃなくて、こういう時はあなたも名乗るものでしょ」
 そういうものだろうか。まぁ、一応先輩の言う通りにしておこう。
「一葉 有希です」
 あの時、知り合いともう少し話し込んでいれば、違う部活に入れば、先輩についていかなければ、今、こんな気持ちを背負うこともなかったのだろうか。


「調子はどう?」
「順調ですよ」
 今日の私の仕事は段ボールにひたすら本棚の本を詰めること。
 ただそれだけのために呼び出すのもどうかと思うが、先輩ならまぁ仕方ないか、って私も随分甘くなった気がする。
 様々な姿勢で本棚に並んでいるのは見たことのない教科書だったり、参考書だったり。
 その堅苦しい雰囲気の中に見慣れた漫画たちがちょこんと。
 数は少ないが、先輩がこんなにも漫画を読んだと思うと感慨深いものがある。
 ここまで言えばわかるだろうか。この人は全くと言っていいほど、漫画を読まないのだ。
 それこそ、私が薦めるまで1冊も。つまるところ、ここにある漫画たちはほとんど私が先輩に薦めたものなのだ。
 律儀に読んだ順に並べているようで、左端に最初に薦めたものを見つけた。
 これを薦めたのは断る理由がないという理由で私が半ば強引に入部させられた後、ひと月程たった頃だ。
 ひと月といっても私が部室と呼ばれる場所に行くのは本当にやることがない時だけで、月に二、三回くらいのものなのだが。
 それでも、いつでも先輩はそこにいて、来てくれたんだって微笑んでくる。
 この人はいっつもここにいるのだろうか、ずっと暇なんだろうか、とか考えつつも、笑いかけてくれるのは悪い気はしない。
 暇だったので。と、相変わらずの返事をしたところで、ふとした疑問が思い浮かぶ。
 先輩に暇な印象を持っているのはなぜだろう。
 暇というのは何もやることがない状態のことで、部室というのは部活動を行う場所のことだ。
 そして、この部活は先輩が言うには漫画研究会である。と、ここまで思考してあることに気が付く。
 今まで、ここで、漫画を見かけたことがないのだ。
 部室を見渡してみても、漫画と思われるもの、どころか本の類は見当たらず、先輩は優雅なティータイムを満喫中だ。
 こんなことに気が付かなかったのはこの部活に興味がなかったからかもしれない。
「ここ、漫画研究会ですよね」
「ん?そうだよ」
「漫画は?」
「無いよ」
 ほら、滅茶苦茶だ。
「じゃあ、何をしてるんですか」
「んー、休憩?」
 なんで疑問形......
「というか」
「なに?」
「他の部員はどうしたんですか」
「あぁ、居ないよ」
「いつ来るんですか」
「だから、居ないの。部員は、あなた以外」
 驚きの新事実。こんな人と二人きりらしい。驚きついでにもう一つ付け足しておこう。後から知った話だが、この漫画研究会は正式な部活ではない。
 当然の話ではあるが。
 曰く、漫画研究会が一番活動しなくても部活っぽいらしい。
 全国の漫画研究会に謝ってほしい。
「先輩は漫画、読まないんですか」
「うん、読んだことないね」
 漫研のくせに......と心の中でツッコミを入れるがわざわざ口に出すことはせず、話を続ける。
「なんで読まないんですか」
「あんまり興味ないから」
 私も漫画が特別好きというわけじゃないが、人並みには読んでいるつもりだ。面白いとも思う。
 こういうのとか、ああいうのとか、自分の好きな漫画を並べてみるがやはり先輩は知らなかったようだ。
 へー、と一定の高さでカップを揺らしている。
 無理強いする気もないので、その会話はすぐに終わった。
 それなのに。
 二週間ぶりに部室の扉を開けると、先輩が飛びついてくる。
 例えるなら、飼い主の帰りを待っていた犬。どちらかというと大型犬。
 とりあえず先輩を落ち着かせるために、頭をナデナデ、はせずに突き放す。
「なんですか」
「あぁ、ごめんごめん」
 暑苦しい先輩を遠ざけながら、いつにも増しておかしい理由を尋ねると目をキラキラ輝かせて、あの漫画、面白かったって笑っている。
 一瞬何を言っているのかわからなかったが、どうやら私が勧めたうちの一つの事を言っているようだ。
 興味ないって言ったくせに。無意識にそんな気持ちが零れて。
「だって、あなたが面白いって言ったから」
 真っ直ぐにこちらを見据えて言い放つ。
 ぽうっと自分の中に熱を帯びた何かが生まれた気がした。多分、先輩の暑さがうつったに違いない。参ったな。
「まぁ、面白かった、なら。よかった、です」
 無邪気に笑う先輩は、少し、可愛いと思った。
「じゃあ、他にも、紹介、しましょうか」


 左端から十センチを段ボールに詰める。
 十センチ分の空洞ができる。
 最初に薦めたのが、短編で正解だったのかもしれない。
 あんまり長いものを薦めても、途中で飽きちゃっただろう、先輩は。
 先輩は好奇心旺盛で、それでいて、飽き性。先輩については、あの部室で全部知った。
 あれから数カ月、変わったことが幾つか。
 部室に行く頻度は増えていた。
 部室にいなくても、先輩の事を考えた。
 どうせ、いつもみたいに、紅茶を飲みながら暇してるんだろうな。明日から夏休みだというのにそんな考えを疑いもしなかった。
 自然と部室へと足は動いていた。
 ドアを開けると仄かに柑橘系が香る風を受ける。
 アールグレイ――フレーバーティーの一種でベルガモットの風味をつけた紅茶。独特の香りをもつ。
 そういえば、先輩のおかげで紅茶にもちょっと詳しくなったかな。
「こんにちは」
「こんにちは。私も紅茶もらっていいですか」
 旧校舎の木の匂いと先輩の紅茶の香り。落ち着く。
 慣れた手つきで紅茶を入れ、私の前に運ぶ。
「人間のお肉っておいしいのかな?」
 いい雰囲気が台無しだ。
 そんなことを言うから目の前に出された鮮やかな色もそれっぽく見える。
「知らないですよ」
 呆れながら一口。爽やかな風味が美味しい。
 どうしてこんなことを言い出したのかは大体わかる。最近紹介したSFホラー。
 人を捕食するモンスターから逃げ延びる話。
 夏らしいと思ってホラーを選んだけど、まさかそんなところに食いつくとは思わなかった。さすが先輩。誉め言葉のつもり。
 だけど、人肉か、確かにどんな味なんだろう。食べたことある人はいるのだろうか。
 ヒトって結構脂肪ついていたりするから案外美味しいのかもしれない。
「先輩はどう思うんですか」
「ねー見て、小鳥ちゃん」
 この人は。
 小鳥を近くで見ようと窓をそうっと開ける。
 流れ込んできた風に先輩の髪が靡く。
 先輩の匂いをのせた風が私の頬を撫でる。少し、くすぐったい。
 先輩は風みたいな人だと思った。風みたいに自由で。優しい。
「それが先輩なんですね」
「?」
 なんの話か分からないといった顔で小首をかしげている。それが、あまりに小鳥に似てるものだから笑ってしまった。
「もうっ、なに?」
 ガタッ
 油断して半開きの窓に腕をぶつけてしまい、驚いた小鳥が逃げていく。
「あーあ、行っちゃった。あ、あの雲、面白い形」
 ......この人は。
「はいはい、どれですか?」
 こうして、先輩に吹かれる時間は楽しくて。
 気付けば、すでに地平線に陽が沈もうとしている。
「先輩、帰りましょう」
「うん、そうだね」
 夕焼けに染まる空にポツンと黄色い点滅信号。
「あれってどういうこと?」
「さあ。免許を取るときに勉強するんじゃないですか」
「ふーん、そっか」
 入学してからずっと通っていた道だが考えたこともなかった。
 何にでも興味を持つ先輩の頭の中を見てみたいなどと考えて、人肉の話を思い出す。真っ赤な太陽が切り取られた頭みたいでなんだか怖い。やめておこう。
 先輩の生活は毎日が新鮮なんだろうか、それなら、すこし羨ましい。
 数メートル先の曲がり角で二人そろって足を止める。その足を伝わる小刻みな振動。金属を打ち付けたような甲高い音。黄色いヘルメットをかぶったイラストが頭を下げていた。
「どうします?」
「私は、あっちから帰れるから」
「じゃあ、ここで」
 自分で言っておいて少しモヤが残る。
「またね」
 小さく手を振る先輩につられて手を振り返す。
 やっぱり私もそっちから、人知れず生まれた火花は握り下ろした手に酸素を奪われ消滅。
 またねって言葉を何回も頭で繰り返すうちに、先輩の姿は遠く、小さくなっていく。振り返ることはなかった。
 先輩の姿が見えなくなる。ずっと聞こえていたはずの騒音が急にうるさく思えて、早歩きでその場を離れた。
 回り道をするのは初めて。慣れていたはずの街の知らない道。帰り道はわかるはずなのに迷子になったみたいだ。
 恐る恐る足をすすめていると、書店があるのを見つけた。吸い込まれるように自然と店に入っていた。若しくは、助けを求めていたのかもしれない。
 店の案内を見て、漫画のコーナーへ向かう。多種多様な漫画たちが手書きのポップを飾り付け、我こそはとひしめき合っている。
 先輩はどんなジャンルが好きなんだろう。私が勧めたものは全部面白いと言ってくれるけど。そもそも、先輩は漫画を全然読まない人だから読んでみたら全部面白いなんてこともあるかもしれない。
 頭を悩ませていると、とある漫画を見つけた。
 今一番読みたい!なんて大層な看板を背負わされたその漫画は、表紙で女の子同士が見つめあって手を取り合っていた。
「んん~っ!」
 だからってなんで私は先輩の顔を思い浮かべてるんだ。
 別に私はそんなんじゃ......
 だけど、これを先輩が見たらどうなるんだろう。どんな感想を抱くんだろうか。気にならない訳じゃない。
 そんな好奇心で、その本を手に取った。


 夏休み。
 学校に行かなくてよい、自由な時間。
 それは、裏を返せば退屈な時間が増えるということでもある。
 ベッドに寝転んでダラダラと。毎日同じ繰り返しで、休みにも飽き飽きしてきていた。
 ピロン
 不意に通知音が鳴る。何週間ぶりだろう。
うーん、と寝転んだまま手を伸ばす。あと数センチがもどかしい。指先でひっかくようにスマホを取る。
 メッセージがあります。
 誰からだろう、私なんかに。
 トットットッ
 スマホを操作してメッセージを表示する。
「うわぁ」
 その思いがけない送り主に飛び起きてしまった。


「ごめーん、まったー!?」
「ううん、別に」
「久しぶりだね、ユッキー」
「うん、久しぶり」
 本当はそこまで久しぶりでもないなと思う。最後に会ったのは中学の卒業式だから、四、五ヵ月前くらい。
 でもまぁ、それまでは毎日会ってたんだからそれに比べたら久しぶりと言えるのかもしれない。
「じゃあ、レッツゴー!」
 中学卒業以来、連絡を取っていなかったからこうやってまた遊ぶことができるとは思っていなかった。
「ゴーって、どこに」
「じゃーん!今日の予定!」
 誇らしげにメモを掲げている。
 メモを受け取り、目を通してびっくり。
 映画見る、とか、服買う、とか予定とは言えないようなものがビッシリ。なんというか本当にメモだった。
「大丈夫なの、これ」
「大丈夫、大丈夫」
 この実季ちゃんに任せなさいと胸を張っていた。
 そのおかげで今、無事に二人そろってランニング。
「やばいおくれるー!」
「だから言ったのに」
 上映開始まであと二分。まだチケットも買ってない。
 実季が欲しい物があるって言うから雑貨屋さんに寄った。そこまではよかったんだけど、豊富な種類に惑わされてこの有様。
 あとで奢りね、などとなじりながら映画館に急いだ。
 大慌てでチケットを買って、中に入ると丁度映画が始まった頃だった。普段は邪魔なあの長ったらしいコマーシャルに助けられた。
 ふうっと息をついて、ポップコーンも飲み物もないことに気付く。残念だけど仕方がない。
 映画には集中できなかった。
「もうむりー」
 喫茶店に入って休憩。アイスティーが沁みわたる。
「計画性なさ過ぎ」
「あはは、ごめんって」
 真夏に全力疾走する羽目になるとは思っても居なかった。二人とも、もうヘトヘトだ
 予定のメモを見るとまだ幾つか終わってないものがある。今日中にはもう無理だろう。
「残りはまた今度だねー」
「...そうだね」
 次もこんなに疲れるのは勘弁だけど。
 ズズッズズッ
「すみませーん」
 タピオカの抹茶一つ。
 かしこまりました。以上でよろしかったですか。
 こちらに確認してくるので軽く会釈する。
 私のアイスティーはまだ半分も減っていない。
「最近どう?」
「どうって」
 質問するにしても大雑把過ぎはしないだろうか。
「高校だよ、いろいろあるじゃん」
 あるだろうか。
「そういう反応薄いとこ、昔から変わんないね」
「そんなんじゃ彼氏できないよー?」
「いらないよ」
「そう言う実季だって、全然成長なし」
 ストローで控え目な起伏を指す。少しカチンときたので反撃してやった。
「そ、そんなすぐには成長しないのよ!」
「ていうか、有希も同じようなもんでしょうが!」
「私はいらないから」
 ニィっと悪びれもせず笑ってやった
「ったく、もう」
「それで、部活とかは?」
 部活......あれは部活なのかな?
 先輩はいつもお茶飲んでいるし、活動なんて何もないし。というか、遊んでいるだけ。
「分かんない」
「なんじゃそりゃ」
 まぁ、とタピオカをストローでいじりながら付け足す。
「有希らしいけどね」
「ふーん」
 私らしい、か。私にはよく分からない。
「で、実季の方はどうなの、吹奏楽」
「そりゃもうバリバリよ」
「てかさ、ちょーかっこいい先輩いてさー」
「はいはい」
 やっぱり友達と話すのは楽しい。つい話し込んでしまうくらい。
 気付けばもう、帰る時間だ。
「いやぁ、今日は大変だったー」
「誰のせいだか」
「えへへ」
 ぴろっと舌を出して笑っている。
「でもさ」
 すっと表情が変わる。
「有希、ちょっと変わったね」
「前よりよく笑ってる」
「それって」
「うわ、バスの時間忘れてた!じゃね!」
 最後までドタバタしている実季を見送って自分も家路に就く。
 家に着くまで実季の最後の言葉が頭から離れなかった。
 寝る準備をして、ベッドに倒れこむ。普段外に出ていないからもう、眠気に対抗できそうにない。
 変わった。その言葉は、まだ私の中で反響していた。
 長い付き合いだ。実季が言うのだとしたら本当にそうなんだろう。
 でも、私が変わったんだとしたら、それは。
「先輩......」
 この前買った漫画を手に取る。
 瞼が重くなって、視界が暗くなる。自分の見ている世界が変わっていくようでちょっと怖かったけど、それを感じる暇はなかった。
 先輩に、会いたいな。
 真っ暗になった頭でぼんやりと、そんなことを考えた。


 雲。
 黒くて。分厚い。
 漫画や小説なら、これは私の心情を表しているのかもしれない。
 こんなことを考えてしまうほど、私は迷っている。
 鞄にはその原因。もう三カ月はそこにいる。
 ここ最近、さらに部室に行く頻度は増えていた。それこそ、行かない日の方が少ないくらい。
 でも、それに伴って、ドアに手を掛けるのに必要な力も増えていた。
 先輩は喜んでくれた。毎日が楽しくなるって。
 そんな笑顔を見る度に、嬉しくなる。
 それと同時に、心に影が落ちる。
 まるで私が二人いるみたいだ。
 だから、今日こそは。
「先輩!」
 自分で思っていた以上の声が出てしまった。酷く手を握りこんでいることに気付いて狼狽える。
「あ、す、すみません」
「う、うん、なに?」
 ジッパーで閉じた心からそれを出す。随分と重く感じた。
「あの、これ」
 小さい紙袋に包んだそれを先輩に渡す。手が震えているように思えて、必死に隠しながら。
「んー、あ、新しい漫画」
「ありがとう、読んでみるね」
「はい......」
 重かった鞄は軽くなった。その分だけ感じることもある。
「ん?どうしたの」
 先輩がこちらをのぞき込む。その仕草が愛しい。
「なんでもないです」
 取り繕った態度を先輩にばれないように目をそらした。
 先輩、どうか、それを読まないでほしい。
 そんな自分勝手な思いから、目をそらした。


 ドアの前に立つ。自分が緊張しているのは分かっていた。
 部室のドアを開ける。先輩が駆け寄ってくる。変わらない光景。
 薄いピンクを頬に浮かべながらこちらを見つめる。
 先輩の顔が近い。いつもよりも、かなり。身体の中心から振動が伝わる。
 先輩も同じなのだろうか。
「ね、ねぇ」
 先輩が私の手をつかむ。その手は少し熱を帯びている。
「どうしたんですか」
 ちゃんと話せているだろうか。少し自信がない。
「キスって、どんなの、かな」
 会話が途切れる。
 呼吸をするのさえ躊躇ってしまうほど静まり返って、世界からこの場所だけ切り取られたように時間が止まる。
 そんな中、胸の奥でチリチリと焦げるような音を聞いた。
 無意識に先輩の唇を見てしまう。
 さすがの先輩も緊張しているみたいで、手に力がこもっている。
「......したいん、ですか」
 やっとのことで空気が漏れるかのようにかすれた声をひねり出す。
「いい、の?」
 自分から言ってきた癖に。
 いいかどうかなんて分かるわけがない。
 そもそも、ただの先輩と後輩でキスなんておかしいと、思う。
 自分でも、どうしていつもみたいに、知らないですよって、言わなかったのか分からないない。
 身体が熱い。自分が解らない。ふわふわと、どこかへ消えてしまいそうだ。あの日見た一コマが自分と重なっているような現実感の無さ。
 それなのに、胸の痛みは実感できるほどに強くなっていた。
 先輩の瞳に映る自分を直視できない。
 触れる手の熱さに耐えきれない。
 
 けど。
 先輩となら、私は......
 
「な、なに馬鹿なこと言ってるんですか。ダメに決まってるじゃないですか」
 先輩の手を解き、引き離す。
「そもそも私たちまだ子供じゃないですか。いくら何でも漫画に影響されすぎです」
「だ、だよね。あはは、ごめんね、変なこと言っちゃって......」
「............すみません、今日はもう、帰ります」
「もう?」
「......うん、またね」
 寂し気な目をこちらに向けているが、そんなことを考えている余裕はなかった。
 逃げるように部室から出ていく。
 来るときは短かった廊下が、何倍にも感じて少しでも早くここから離れたくて走り出した。
 身体の火照りは収まりそうにもない。走っているせいかもしれないが、とにかくそうしたかった。
 十一月の空気が早く頭を冷やしてくれることを願って。
 曲がり角の赤信号で足を止める。
 息が切れて、胸が苦しい。吸おうとするばかりで吐き出せない。それでも、幾分か口から漏れる白々しい本音が空気の冷たさに凍えて散っていくのが見えた。
 まだ、先輩の顔が脳裏に焼き付いている。
 覚束ない手で、自分に絡みつく手を振り払おうとする。先輩にそうしたように。
 あれでよかったんだ。
 ちょっと漫画に感情移入し過ぎただけだ。先輩も、私も。
 自分で自分を肯定することを何度繰り返したところで、物惜しげに唇に触れているその指には気付かない。
 この絡みつく手は誰のものなのだろう。
 馬鹿なことを、あれは誰に向かって放った言葉だったのだろう。
 そういえば、あの大きな工事音はいつの間にかしなくなっていた。
 工事はとっくの昔に終わっているが、すでにこっちの道で帰ることに慣れてしまっている。
 もう、元の道で帰ることの方が難しいかもしれない。
 そんな、気がした。


 こんなこともあったな、って本棚に並ぶ思い出を段ボールに詰めていると一際存在感を放つ一冊に出会う。
 どっしりとしていかにもな革を身にまとった言葉の倉庫。
 授業で使うからって買わされたけど使った記憶はまだ一度もない。先輩のこれも、私のと見間違うくらいだ。
 そういえば、さっき先輩が何か言っていたっけ。ちょっと気になってきた。
 パラパラとページをめくり、探し物をみつける。
 さくら――公演主催者や販売店に雇われて客の中に紛れ込み、特定の場面や公演全体を盛り上げたり、商品の売れ行きが良い雰囲気を作り出したりする者を指す隠語 〔江戸時代に芝居小屋で歌舞伎を無料で見させてもらうかわりに、芝居の見せ場で役者に掛声を掛けたりしてその場を盛り上げること、またはそれを行う者のことを『サクラ』といった。桜の花見はそもそもタダ見であること、そしてその場限りの盛り上がりを『桜がパッと咲いてサッと散ること』にかけたもの〕
 なるほど、パッと咲いてサッと散る、か。昔の人はよく言ったものだ。
「なに遊んでんの。さっさと詰めちゃって」
「はーい」
 先輩の国語辞典は、ほとんど新品で全然使ってなさそうに見えたけど、少し考えて、段ボールにしまった。


「散歩?」
「うん、思ったより早く終わりそうだから。もうおしまい」
「まぁ、そういうことなら」
 先輩と共に外に出る。四月も近く、少しはマシになったがそれでも少し寒い。
「う~、寒いね」
「ですね」
「はあ、息が白い」
「はい」
「もう、三月も終わりかあ」
「そうですよ」
「そうだ」
 先輩が何か思いついたように声をあげる。
「桜が咲いていたんだけど、見に行かない?」
 そういえば、先輩の家に来る途中にも咲いているのをチラホラ見かけた気がする。
「いいですよ」
 先輩によると、近くの公園にちょっとした花見ができる場所があるらしい。先輩が一歩先を歩いてそれについていく。
「ん~寒いよ~」
「少しくらいじっとしてくださいよ」
「動いてないと死んじゃうよ」
 公園に向かう道。赤信号で止まっている最中に先輩が駄々をこねる。
「大袈裟です」
「本当だよ~」
 泣きそうな顔でこっちを見つめてくる。こういう時の私は本当にダメになってしまった。
 ああ、もう、しょうがないなあ、この人は。
「じゃあ、あっちから行きますか」
「うん、うん」
 ものすごい勢いで頷いている。
「ちゃんと道案内してくださいよ?」
「分かってるよ!」
 先輩が私の手を取って歩き出す。
「べ、別に手を繋がなくても大丈夫です」
 急なことに少し動揺してしまった。
「こっちの方があったかいでしょ」
 屈託のない笑顔で笑うもんだから、もう何も言い返せなかった。
 寒いなんて言っているのに、繋がれた手は温かくて。
 だから、私の手は酷く冷たく思えた。


 公園について、二人並んでベンチに腰を下ろす。
「桜、綺麗だね」
「そうですね」
 視界には咲き誇る桜と遊ぶことに夢中になっている子供たち。
 私はといえば、桜は温かい時期のイメージがあったから、もうこんなに咲いているものなのかと感心していた。
「今日はありがとね、わざわざ」
「別に」
 先輩のためなら気にしないですよ。
 言葉には出さなかった。
「......」
「......」
 二人の間に会話が無くなって寒さが身に染みてくる。
 じっとしていると死んじゃうのもあながち間違いじゃないのかもしれない。
 でも、繋がれた手は確かに二人分の鼓動を確かめさせてくれる。
「先輩は」
「うん?」
「先輩は、どうしてあの時私に声をかけたんですか。」
 少しだけ躊躇ってから聞く。
「んー」
 指を立てて考え込む。そんなにされると身構えてしまう。
「顔かな?」
「面食いかよ!」
 身構えていた自分が馬鹿みたいだ。あまりに先輩らしい答えで拍子抜けしてしまった。
 可笑しくて吹き出した私を見て先輩も笑いだす。
 こんなリズムは最初から変わらないのに。
 こんなリズムに随分と変えられた私がいる。
 一頻り笑ってまた静寂が戻ってくる。
 いつもなら平気なはずなのに、気になって仕方がない。
 きっと繋がれた手のせいだ。
「もうそんなに経つんだね」
 先輩が桜を見ながら言う。
「......はい」
 三月の風が私達の間を吹き抜け風景がそよぐ。
 桜の花びらが舞い、視界に散らばる。
 先輩にとって、私は人生を盛り上げるその場限りのサクラのようなものだ。
 風にさらわれ地面に落ちて、道路の側溝に吹き溜まる。そんな淡い花びらを眺めているとこんな考えが沸き上がって止まらない。
 まるで、雨が降っているように冷たいその音を静かに聞いていた。雨曝しの炎はただ小さくなって。
「くしゅん」
 小さな音で静寂が切り裂かれ終わりを告げる。
「ああ、ごめんね。ちょっと冷えたかな」
「もう帰ろうか」
「......そうですね」
 先輩が立ち上がる。
 繋がれた手が持ち上がる。
「......先輩」
「ん?」
 自分でもやっと分かったんだよ。
 先輩と別れるのは寂しい。本当だよ。
 この手を離したくないってちゃんと感じるから。
 昔の私だったらこんな気持ちになれたのかな。
 もっと時間があったら早く気づけたのかな。
 風になびく柔らかな髪が好き。
 無邪気な笑顔が好き。
 時々、自業自得で照れてはにかむ姿が好き。
 真正面から私を見てくれる透き通った瞳が好き。
 風みたいに自由で自分勝手なところが好き。
 先輩が好き。
 暗い奥底に積もった気持ちは言葉になりきらなくて。
 だからせめて名前をつけてしまいこむ。
 この気持ちは何だろう。
 名づけるとするなら、

 『桜恋』

「............頑張ってくださいね」
「あぁ、うん。そっちも」
 またね。

 いつも通りの軽さで別れを告げた先輩の姿を見送る。
 先輩の後ろ髪にいつの間にか張り付いていた花びらに、手を伸ばそうとして、やめた。