夢半ば アクワイア

 

 

4月。高校2年生になったばかりにもかかわらず始業式に寝坊した僕は、鉛色の空に背中を押されるように、のろのろと学校へ向かっていた。仕事に行く前に起こしてくれた母の苦労も虚しく二度寝してしまった事を心の奥底で詫びつつ、それでもなお今から学校に行かねばならないという事実にうんざりしていた。

今頃体育館では生徒が綺麗に整列させられ、校長先生のありがたい話を聞かされていることだろう。校長先生の何故か誇らしげな顔を見せられながら、君たちは可能性にあふれているから将来を見据えた努力をすべき云々などというひどく漠然とした話を聞かされるよりは、こうやって人気の少ない通学路をのんびり歩くことのできる僕の方が有意義な時間を過ごしているような気さえしてしまう。このままゆっくり歩いて行けば、学校に着くころには校長先生のありがたいおはなしも終わって、教室で担任が事務的な説明をこなしているころだろう。

将来…自分自身の将来、もっと近くで言えば、目標。そんなものは、いつのまにか忘れてしまった。忘れたままでも何も支障ないのだから、今と変わらない人生をゆったり過ごしていければそれでいい。もっとも、節目ごとにある進路指導の時にはそんな事は言わない。当然、親にもだ。人生をこなす事を覚えてしまった僕には、結果の見えない努力なんて無意味な事をするための空元気を湧かせる事すら出来なかった。行けといわれた進路に行き、目指せといわれた大学を目指す。そして、7割くらいの努力で生きていけたら、それでいいんじゃないかと思う。

到着するころにいつも見えてくるのは、敷地の周りに巡らされた塀に貼られた、美術の授業での課題。僕の課題は、校門の隣に貼られている。2月からずっと貼られたままのはずの僕の絵は、かけられたビニールが随分と丈夫なのか、最終日にもかかわらず、まだ色あせずに佇んでいた。与えられた課題は、夢。

……夢とは無縁だった。夢なんて想像もつかないままに、自分の好きな色を使える風景を、好きなように描いただけだった。それが、どういうわけか展示作品の一つに僕の作品が選ばれてしまった。何の実感もないまま褒められるという居心地の悪さは、絵を描いた頃に戻ってやり直したいほどだった。

 

そんなことを考えながら、校門へ近づいたころ、突然声をかけられた。

「よお。久しぶり。」

声をかけてきたのは、僕の制服とは対照的に私服の若者だった。始めは訝しんだが、よくみると懐かしい顔だった。中学まで同級生だった勇気だ。

「なんだよ、勇気だよ。忘れたのか? 中学の頃、一緒によく絵を描いただろ? 」たった1年ほどしか経っていないのに、あまりにも懐かしく感じ、一瞬戸惑いを覚えるほどだった。

「別に忘れた訳じゃないよ。突然だったからビックリしただけさ。」

「そっか。お前、今どうしてんだ? 今日は学校か? 」

「今日は……今から学校だよ。始業式だから、始まるのが遅いんだ。」

正直に、遅刻した、と言うのも、なんだかバツが悪くて嘘をついてしまった。

「なんだ、そうか。じゃあ、邪魔しちゃ悪いな。また今度な。」

「またね。」

1年も音沙汰がなかったのに、急に出会ったのはなぜだろう?頭に浮かんだ疑問は他にもいくつもあったが、そのどれもを口に出さぬまま、僕らは別れた。中学卒業から1年少ししか経っていないのに、勇気は随分大人びて見えた。それが、僕らの思い出を随分と遠いものにしているように感じた。

 

 

中学の頃、僕は美術部によく出入りしていた。出入りしていた、というのは、正式な所属はしていなかったからだ。うちの中学は全生徒が何かしら1つの部活ないしは委員会に所属が定められていて、新年度の始まりには毎年所属を決められるが、基本的には皆前年の所属を持ち越していた。僕は1年生の時から美化委員会に所属していた。美化委員会はほとんどいわゆる"帰宅部"だった。というのは、月に一回の集会と清掃活動だけで、他の活動が課せられていなかったからだ。しかし、そういった委員会に所属すると必然、学校にいる間はどうしても暇を持て余してしまった。友人を作るのが上手とは言えなかった僕は、行くあてもなくフラフラと校舎をする日々を過ごしていた。そんな1年生の1学期の終わり、期末試験の終わった日の夕方、僕は美術室を通りかかり、そこで絵を描いていた少年を見かけた。絵を描いている姿は真剣そのもので、その姿は後ろの美しい夕焼けと相まって、まるで絵画のようだった。しばらく見ていると、手を止めた少年がこちらに気づいた。絵を描いている時の精悍な表情とはうってかわって、あどけない顔をしていた。用事があるわけでもないのに横にずっとで見ていたた負い目から、僕が話しはじめた。

「やあ。君、美術部? 」

「ああ。君は? 入部希望? 」

「いいや。ただ通りかかっただけだよ。」

「そうなんだ。」

そういうと、彼はまた絵に集中し始めた。僕も小さな頃から絵を描くことは好きだったが、目の前の彼のように絵と真剣に向かいあったことはなかった。だからこそ、彼のその様子を羨ましいと思った。しばらくして、彼の絵は一旦の区切りがついたようで、満足げに筆を置いた。それと同時に、こちらに気づき、驚いた様子だった。

「君、まだいたんだ。ごめんね、気づかなくって。」

「いいんだ。君の絵が出来ていくのを見たかったから。」

「君も、絵を描くの? 」

「昔から、よく描く方だし、上手い方だとは思ってたけど、君には負けたなぁ。」

「そうなんだ。君さ、美術部に入らない? 先輩はいるんだけど、1年生は俺1人でさ。なんとなく、居心地が悪いっていうか、誰もいない時だと、退屈なんだ。」

「そうしたいんだけど、美化委員の人数がギリギリでさ。流石に僕が辞めちゃうとマズいと思うんだよね。」

「でも、美化委員ってヒマなんだろ? 」

「見ての通りさ。」

「じゃあ、これからヒマな時は、ここに来てくれよ。俺の絵に意見して欲しいし、お前の絵も見たい。先輩もきっといいって言ってくれる。」

「いいよ。夏休みの間もヒマなんだよね。夏休みって、ここは空いてるの? 」

「ずっとは空いてない。顧問の先生がいる時だけで、先生はあんまり来てくれない。」

「そうなんだ。残念だな。久しぶりに描きたかったのに。次はしばらく先かな。」

「家で描いたりしないのか? 」

「親がね、あんまりよく思わないんだ。」

「なんだ、そりゃ。」

「小さいころから、よく絵を描いてて、小学校の頃には何度か大きな賞をとったりしたんだ。それで僕が、将来は画家になりたいって言ってたんだ。その頃は、親もそれに賛成してくれてて、僕もそれを目標にしてた。それを最近まで言ってたんだけど、いつのまにか親がそれに賛成してくれなくなってきたんだ。」

「なんでだよ。立派な夢だと思うけどなぁ。」

「多分、結局両親は普通の人生を歩んで欲しいんだと思う。画家になるのは大変だし、それだけを目標にしてたら他の道に変えるのも大変だから、今のうちから少しずつ、普通の目標にしてほしいってことだと思う。」

「はじめの目標のままがいいと思うなぁ。夢ってのは、親が応援してくれるからこそ、より目指そうと思うものな気がするな。」

「まあ、しょうがないよ。実際、画家になるのなんて大変だし、今のところ、僕は勉強が苦手でも嫌いでもないから、普通の道を行くのが一番いいって思う親の気持ちは当然かもね。」

「そんなもんかなぁ。それよりさ、絵を描くところ探してんなら、うちで描こうぜ。2人ならなんとか描けるぜ。」

「そっか。それじゃあ、おじゃましようかな。」

「じゃあ、明日だ。10時に学校前でな。」

「わかった。」

 

それから僕らは、ほとんど毎日絵を描いて過ごしていたように思う。勇気の家に行き、絵を何日もかけて描いては、互いに意見を出しあった。勇気は、かなり筆がはやかった。僕が1枚描く間に2枚描くのではと思うほどだった。だが、たまに筆が止まると、かなり長い間なにかを考えているようだった。そういったこともあって、2人で絵を描き始めると、お互いを全く気にせず自分のスタイルで考えて描いていた。なにより、以前勇気がしていたような、ひとつの絵に対して真剣に向き合う事を自分も出来ていることが、自分の中で喜びとなっているのを感じた。

 

そんな事が2年ほども続き、中3の夏休みの頃、勇気から転校の話をされた。

「父さんが転勤になるんだってさ。単身赴任は無理みたいだから、俺らも向こうに行かなきゃいけない。」

「そうなんだ……。正直言って、寂しいよ。もう勇気と絵を描けないし、勇気の絵も見れないなんて。」

「卒業まではいるから大丈夫だろ。そこから先どうするかは、お前次第だ。親にはなんか言ったのか? 」

「全然。夏休みの宿題を描いてるだけでもなんとなく嫌な雰囲気になってた。」

「そうか。まあ、絵を描くのが好きってことを忘れずにいるのが大事だろ。そこから先は、なるようになるさ。」

「うん。頑張ってみるよ。」

それからの半年は、毎日の絵を描く時間が少しずつ長くなっていった。一つの絵を長く描くようにしたり、勇気のようにはやく描くように意識して描いたりした。その間は、自分自身が描きたいものではなく、勇気が描きそうなものを考えながら描いた。

 

そして、中学の卒業式の日、僕らはお互いに一枚の絵を渡した。勇気が僕にくれた絵は、風景画だった。まるで実際にその場にいるかのような、そしてどこか懐かしい気持ちになる絵だった。描かれているきれいな夕焼けは、勇気が描いている様子すら思い出せるようだった。勇気に渡した絵に、僕は美術室を描いた。自分自身のことを悩んでいた僕に、可能性を見せてくれた場所として、描きたかった。絵のタッチは少し勇気を意識して描いた。

「ありがとうな。俺もあの美術室には思い出がいっぱいあるから、それを描いてくれたのが嬉しいよ。」

「喜んでくれたならよかったよ。この風景画も、すごく細かいところまで描かれてるね。これは、学校から見た街かな。」

「ただ学校から見ただけじゃないぜ。あの美術室から見た風景だ。それに、お前が初めて美術室に来た日は、すごくきれいな夕焼けだった。それをイメージして描いたんだ。」

「ほんとうにありがとう。大切にするよ。」

「ああ。でも、それより心配なのは、お前のことだ。これから先、絵を描けるのか?」

「親には、趣味としては続けるけど、将来の夢にはしないって言った。今までみたいに頻繁には描けないだろうけど、それでも描くのはやめないようにする。」

「はっきりしろよ。将来なりたいって思ったのに、それを親によく思われないからって諦めちまうのかよ。」

「諦めてるわけじゃないって。今親に話したって納得してもらえない。だからはっきり道筋を立てられるようになるまでは我慢するんだ。」

「我慢?俺には諦めてるようにしか見えない。それを認めたくなくて、今は親が分かってくれないからって言って、夢を諦めたわけじゃないって自分に言い聞かせてるだけだ。そんなんじゃ、絶対実現しないぞ。」

僕自身が不安に思っていたことをはっきり言われた。本当に画家になりたいなら、今からそのための勉強と練習をすべきなのは明白だった。それをしていない僕が、まだ画家としての夢を諦めていないのは、勇気から見たら遠まわしの諦めに見えたのだろう。

「でも僕は、やっぱり親にはまだ何も言わない。夢は諦めたくないけど、親の期待を裏切りたいとも思わない。本当に将来の進路を決めるとき、どうするか考えるよ。その時に、後悔しないようにはしておく。」

「……わかった。お前がどうするかはわからないけど、俺は絶対に画家になる。じゃあな。」

「……じゃあ、またね。」

ひどく突き放したような言葉に寂しさを覚えて、僕は再会を望まずにはいられなかった。

さっきまでの晴れ模様は、いつのまにか薄雲に覆われ、辺りは少しずつうす暗くなっていった。

 

それからの一年は、ひどくあわただしいものになっていた。高校では部活が自由であったが、美術部に入部しなかった。趣味として、という言い訳で家で絵を描いていると、当然親は始めは複雑そうな顔をしていたが、学校での成績をよくしていくことで徐々の趣味として認めてくれるようになっていった。勇気については、お互いの母親を通じてしか話を聞かなかった。最後に話したときに僕がはっきりと夢を決めなかったことが、自分自身の中で勇気に対する負い目だと感じて、自分から連絡を取る気にはならなかった。母は、勇気が絵の勉強を相当頑張っていることを聞くたびに「勇気君は絵が上手かったからねぇ。」と言っていた。そんな時に、「僕も将来画家になりたい。」と言ったら、親はどうするだろうかと考えながら、いつも話を聞いていた。趣味として絵を描いていると、以前ほどの情熱はなくなってしまっていることに気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。隣に描く人も見る人もいないのはひどく空しいと感じてしまってからは、絵を描くことも少しずつ減ってしまった。

年末のころ、とうとう進路を決める話が出てきた。担任は大学進学を勧め、親もそれがいいといった。担任の、「将来の夢がないなら、大学で決めればいい。」という言葉に、親もそれがいいといった。そうして、僕の将来の夢は、僕自身がいつの間にか忘れてしまった。それから、絵を描いたのは一度だけだった。学校の美術の授業で、自分自身の夢について、文字を入れずに描くという課題だった。絵を描くのも久しぶりだった僕は、その課題を出されて大いに悩んだ。無いものを描くのはひどく難しいと思った僕は、美術室から見えた風景をそのまま描くことにした。どうせ描くなら綺麗なときがいいと、夕焼け空の街並みを描いた。どう考えても課題の趣旨に沿っていないような気がしたが、先生は大いに褒めてくれて、春までの展示作品に選んでくれた。何の実感もないまま、その絵は2年になるまで学校に飾られることになってしまった。

 

 

2年生の始業式に遅刻した僕は、担任の話を聞きながら今朝のことを思い出していた。久々に会ったが、勇気はどうしていたんだろうか。最近は、母親から勇気の話も聞いていない。次に会う時のために、久々に絵を描こうと思い立った僕は、家に帰ると画材セットを取り出し、かつて勇気とお互いに送りあった絵のような力作を描こうとした。以前は僕が勇気に初めて出会った中学の美術室を描いたから、今回は高校の美術室を描こうと考えた。前回は、勇気と長い時間を過ごした美術室を描いたから、随分と細かいところまでイメージが浮かんだ。しかし、僕が高校に入ってからは美術室に行くのは美術の授業だけで、そのほかでは美術室に入ることはなかった。だから、描くためのイメージをしようにも、細かいところが思い出せず、そこが気になりだすと全体のイメージがなかなか浮かばない。勇気と過ごしたかつての美術室を描くようにすらすらと筆が動くことはなく、しばらくたっても遅々として絵は進まなかった。かなり時間が経った頃、ただイメージが浮かばないだけではなく、かつての絵の描き方の感覚を忘れてしまっていることに気づいた僕は、これ以上画材を出していても、まともな絵を描けることはないと、意気消沈して画材を片づけ始めた。画材を片付けた後の、部屋の真ん中にぽっかりと空いたスペースをみて、なぜだか少しホッとした気持ちになった。その日の夜、母に勇気の近況について聞いていないことを思い出した。まだ母はおそらく起きているだろうが、今さら急に勇気について僕から聞くのもおかしいかもしれないと思いなおし、明日にしようと、その日は眠った。雨の音が、酷く耳障りで、なかなか寝付けない夜だった。

 

そんな日が続き、勇気や絵のこともすっかり忘れてしまっていた夏休みの真っ最中、鬱陶しい曇り空が僕の心を重くしていた時、またしても勇気は急に現れた。

「よう。元気にしてたか? 」

塾に行く前だった僕は、急に現れた友人に驚きつつ、久々に会えたことに喜びを感じた。

「やあ。久しぶり。そっちこそ元気だった? 」

「ああ。お前は、色々と決まったか? 」

突然、勇気は尋ねてきた。あまりのことに、僕は何の話をされているのか分からず、聞き返した。「決まるって、何が? 」

「夢だよ。前の時は忙しそうだったから聞けなかったけどさ、引っ越すときに言ってた夢は、ちゃんと決められたのか? 」当然とばかりに、勇気は言った。

「夢……? 」

夢、という言葉を聞いて、僕の中で、今まで忘れていた、忘れたふりをすることで他の事が全て上手くいっている風に見せていた、何かが外れた。そこから僕は、堰を切ったように勇気に話し始めた。

「ああ……。結局、僕は画家になるのはやめておくことにしたんだよ。やっぱり画家になるのは難しいし、ちゃんとした進路を考えてもセンスみたいな部分はどうしようもないし、それに、実は、勇気が引っ越してからは、絵を描く機会が減っちゃって、そしたら、この間勇気に会った日に絵を描こうとしたら、全然描けなくなってて……。でも、画家を目指すのを辞めたのはもっと前のことで……。」

久々に勇気と話をして、自分がいつの間にか夢を諦めていたことに気づいた僕は、とめどなく話し続けた。勇気はそれを黙って聞いていてくれていて、僕はいつしか泣いていた。自分の夢に向かって歩いている友達を見て、今の自分を恥じた。都合のいい言い訳を並べても、夢に向かって努力をしなかった事実を自分自身から隠すことはできなかった。

「なんだかわかんねぇけどさ、お前が俺といた時に夢を目指してたのは分かってる。そこから後に、色々上手くいかなかったんだろ?じゃあ、今からやればいいんじゃんか。」

勇気は、何とも言えない、おおざっぱだが前向きな意見をくれた。

「それに、前に来た時、学校に貼ってあった絵、見たぜ。諦めるには、まだ早いと思うけどなぁ。」

おどけた口調だが、勇気は僕を励ましてくれていた。

「そうなのかなぁ。あの絵は、大して考えずに描いたんだけど。」

「じゃあ、ちゃんと描こうと思えば、もっと色々考えて描けるってわけだ。あれよりもっとよくなるのなら、なおさら諦める理由なんてないな。」

勇気の言葉の一つ一つが、僕の心の中を照らす光のようだった。

いつのまにか、なくしたと思っていた僕の夢は、目の前に形を持って現れていた。さっきまで辺りに掛かっていた雲は晴れ渡り、綺麗な夕焼け空になっていた。

夕陽に照らされて、僕らは互いにはにかんだ。

「いつの間にかもう夕方じゃねぇか。そろそろ俺は帰らないと。」

「そっか。次会うときは、勇気の話も聞かせてよ。」

「分かった。またな。」

そう言って勇気は走り去っていった。僕も家に帰って、母親と話さなきゃと思った。今日見たこの夕陽は、今まで見たどの夕陽よりも鮮やかに僕を照らしていた。いつかこの光景を絵に残せるような画家になろうと思った。

 

夏の終わりのころ、うちに一本の電話が来た。母親がとり、受け答えをする。いつも通りのことのはずだった。しかしその日は違った。

「えっ!? 勇気くんが!? 」

カランと乾いた音がした。それが僕の落とした筆の音だと気づくのには、長い時間がかかった。

 

病室の勇気は、案外元気そうだった。

「おお。来てくれたのか。」

「ずいぶんよくなったみたいでよかったよ。前来たときはちゃんと会えなかったから。」

「なんだ、前にも一回来てくれてたのか。来たのに挨拶なしで帰ったなんて、どういう了見だ。非常識だぞ。」

「1年も音沙汰なしだったのに始業式の朝に急に会いに来る勇気には負けるよ。」

軽口をたたきあいながら、この様子だと勇気の退院はそう遠くないなと思った。

「結局まだ話せてなかったんだが、お前に会いに行くときは絵が止まっちゃったときだったんだ。どうにも上手くいかなくて、気分転換してもダメっていう、完全に手詰まりの時に、お前に会いに行って、話をするんだ。そしたら、会話の中でヒントをもらったり、話した後にふとアイデアが浮かんだりするんだ。」

「僕の悩みが気分転換にされてるとは、思ってもみなかったよ。」

「話すだけでよかったんだよ。引っ越してから1年は、どう描けばいいのか悩んだりするまえに色々描きあげてたんだけど、色々こだわりだすと悩んで、何日も筆が進まなくなっちゃったりしたんだ。それで、お前に会いに来るようになったんだ。」

「なるほどね。じゃあ、僕も行き詰ったら気兼ねなくここに来よう。」

「ケガ人相手にずいぶんな言い様だな。早く退院しないといつまでも愚痴を聞かされかねないな。」

勇気との軽口はいつまでも続くかのようだった。勇気の右腕につけられたギプスに意識が向かないように、とりとめのないことをただ話していた。しかし、いつしか話題も尽きて、2人の間に静寂が訪れた。

「結局さぁ。」

意を決したように、勇気が右腕を前に出して、続ける。

「元通りに描けるかは五分五分らしい。大きな事故だったから、これだけで済んだのはいい方みたいだな。」

「……そっか。リハビリも、しばらくかかるみたいだね。」

「ああ。悪いが、ちょっと先に夢をかなえててくれよ。すぐに追いつく。」

そういう勇気は、本当に普段どうりに話しているようだった。

しかし、強く握りしめた勇気の左手を見て、僕の夢はもう、僕だけの夢ではなくなったんだと悟った。

 この、僕らの夢は、まだ始まったばかりだ。