吉野

                         青井       

 

「落としましたよ」

背後から聞こえた清らかな低い声に、何か稽古事の帰りなのかその華奢な身体には多い荷物を持った少女がふ、と振り返る。

「ほら、これは貴女の物でしょう、お嬢さん」

其処には、確かに先程まで結い上げた髪に刺さっていた筈の簪を此方に差しだす微笑を湛えた青年が立っていた。

「まぁ、確かに私の物ですわ。気付きませんでした」

浅黄色の袂を靡かせて青年のもとに駆け寄った少女は簪を受け取るのも忘れて思わず彼を見惚けてしまった。濃紺の単衣を身に纏ったどこか清雅な美青年はまだ恋も知らない、やっと少女から抜け出したような乙女には余りにも眩しすぎたのだろう。紫陽花を模した細工の簪を受け取ろうとした時につ、と触れあった指先にさえ頬を染めてしまった。けれど、この娘の母親は普段からよく教育しているようで、我に返って礼を述べる事は忘れなかった。

「有難う御座います。このお礼は必ず」

「いえいえ。私は唯簪を拾っただけですから」

「そのような訳には参りません。お世話になったというのにお礼をしなかったとあれば帰宅してからお叱りを受けてしまいますわ」

「しかし」

「お礼はさせてください。どうか私の為と思って」

どうにも引く様子のない少女に困ったように首を傾げた青年は、それならば、と口を開いた。

「その簪を貴女の御髪に戻す手伝いを私にさせては貰えませんか」

「勿論、構いませんが、そのような事何のお礼にもならないばかりか貴男様のお手を煩わせてしまうばかりではありませんか」

「そのような事、だなんて。貴女の様に美しいお嬢さんの御髪に簪を差し込むなど、光栄なことですよ。是非その役目を私に戴けませんか」

その言葉にまたも頬を染めてしまった少女だったが、他の礼など受け取らないといった様子の青年を見て、良いのかしら、と思いつつも受け取ったばかりの簪を青年に渡し、真っ白な項を少し捻りながら振り返って、

「では、お願い致します」

と言った。

背中を向けてしまっているから、背後で青年がどのような顔をしているのか分からない。けれど、暖かい吐息が耳に触れたと思った次の瞬間には、

「できましたよ」

と声がして、頭に少しの、気にしなければ気付かない程度の重さが加わったのであった。

「重ね重ね、有難う御座います」

髪に戻ってきたばかりの簪を揺らしながら深々と腰を折り曲げた少女に青年は少し微笑んで、次は落とさないようにお気を付けなさい、とだけ言った。

 

雨の多くなってきた季節、束の間の晴れ間で見送ってくれていた青年を振り返ると、高い塀の屋敷から大きく広がった大樹の木陰には、もう誰もいなかった。

 

 

 

少女はそれからというもの稽古事がある日はいつもその屋敷の前を通ってはあの青年が佇んでいたら、と仄かな期待をしてその足の進みを遅くしていた。そしてあの日の様に自身の気付かぬ間に後ろに現れていてくれないかとゆっくりと後ろを振り向く所までが最早彼女の癖になってしまっていたのである。

そんなある日。何かを踏みつけてしまった気がして足元を見るが何もない。その細い首を傾げて顔をあげると心地の良い風が通り過ぎて少女の前髪を乱した。それを片手で直し荷物を抱えなおして前を見ると、たった今まで誰もいなかった筈の塀の前に、あの日の青年が佇んでいた。

「こんにちは、お嬢さん」

今日もいい天気ですね、と待ち望んだ声に逸る気持ちを抑え平静の振りをした儘にゆっくりと近寄ると、やはりあの時と同じに何処か良い香りと紗に変わった深緑を纏って微笑みを浮かべていたのである。

「こんにちは。本当に。御日様が照りすぎて嫌になってしまうくらいに良い天気ですわ」

「はは。お嬢さんは暑いのは好きじゃないみたいですね」

「そう、ですね。暖かいくらいならばいいのですけれど、こうも暑いと歩くのが億劫になりますもの」

思わずというように一笑なさったお顔もまた美妙で、幼い頃庭で弟と走り回った時の様に胸のあたりがばくばくと騒がしい。

「貴女は今日もお稽古のお帰りですか?」

「ええ。お茶の帰りです。貴男様は?お散歩ですか?」

「まあ、そのようなもの、ですね」

「お家はお近いのですか?」

「此処なのですよ。ですから実は、たった今出てきた所でして」

つい、と高い塀と大樹の屋敷を指した青年は少し恥ずかしそうにもう片方の手で少し赤く染まった頬をかいた。

「まあ、本当に?いつも通る際に立派な樹だなと思っておりましたの」

「有難う。私もこの樹は気に入っているんです。吉野、という桜でして、春になれば枝が撓る程に花をつけるので毎年とても楽しみにしているのですよ」

「まあ、それはとても綺麗なのでしょうね。是非見てみたいものです」

「それならば来年の春、花が咲いたら我が家にご招待致しますよ。もし良ければお友達とでもお出でなさって下さい」

「宜しいのですか?」

「ええ、是非」

少女自身、これが憧れなのか恋なのかまだはっきりと分かっていないながらも少しでも長くこの人と話したいと始めた話からまさかこのように嬉しい提案を頂けるなんて、と大きな目を真ん丸にして、微笑む青年を見つめる。

「どうかなさいましたか?そのように目を見開いていては落ちてきてしまいますよ」

「な、何でも有りません!」

そう早口で告げた少女は、桜桃のようにほの紅く染めた頬を隠すように青年に背中を向け、

「また、来ても宜しいですか?」

と小さな声で訊ねるのであった。

「ええ、是非。また来て下さい」

きっと先程よりも赤くなっている。熱くなった耳に、乾いた唇を自覚しながら、少女はその場から少し早くなった足で立ち去った。

 

姿の見えない夏蝉たちが生を主張し始める頃、初心な彼女は自分の気持ちに名前を付けざるを得なかった。

 

 

 

自分の胸のときめきが噂に聞く恋というものなのだと自覚したあの日から少女の日々と瞳は煌めき出した。それは誰の目から見ても明らかであり勿論青年にも分かっていたであろう。しかし、いや、だからこそなのか彼は彼女に名を明かさなかった。又、彼女自身にも決して訊ねなかった。そしていつの日か少女は青年の事を密かに『吉野の君』と呼ぶようになっていた。吉野の大樹からくるものでもあったが、何より青年が儚く寂しげな美しさであったからという事が一番の理由である。

 

「もしかすると貴男は桜の精であったりするのでしょうか」

 

「はい?」

「勿論!その様な事を只人に容易く言ったりするようなことではないのでしょうけれども!つい、気になってしまったもので」

言っている内に自分がおかしなことを言っているという事を段々と自覚してしまい声が徐々に細くなっていってしまった少女を前に、唐突に不可思議な質問をされた青年は普段優し気な微笑を浮かべる切れ長な目元を真ん丸に見開いた後、その薄い唇からぷはっと空気を吐き出した。

「わ、笑わないでください!」

普段口元に手を当ててクスクスと笑う吉野の君が大きな声を立てて笑っている。いつもと違う吉野の君が目の前にいるという少しの興奮はあったがそれ以上に羞恥が勝っていた。嗚呼、可笑しな娘だと嫌われたりしてしまったらどうしよう。

「貴女は随分と面白い事を言うのですねえ。私が桜の精だなんて!」

「だって、いつも少し目を離したら消えてしまいますでしょう?次にまたお会いする時まで季節が一巡りするような気持ちを味わっているんですから」

「それは、そうかもしれませんが」

やっと少し落ち着いたという様子の青年は特段いつもと違うというような風はなく、不安だった気持ちも少し落ち着いてくると、今度はまだクスクスと笑っている青年に少しの苛立ちも生まれてくる。枯葉色の羽織の上から彼の腕を軽く叩くとああ、痛い、と揶揄うように笑った。

「こんなに笑ったのなんていつ振りだろう。もしかすると初めてかもしれないです」

「本当に?でしたら、笑われた甲斐があったというものですわ。最近の貴男は随分とお元気がないようでしたから」

「……それほどに顔色が悪いでしょうか?」

「ええ、少し。夏場よりお顔色が悪い時があります。季節の変わり目ですから体調には充分お気を付けてくださいね」

「ええ、よく気を付けるようにします」

心配してくれて有難う、と青年に笑いかけられて相好を緩ませる少女は、彼が僅かに表情を硬くしていたことには気付いていなかった。玉蜀黍色の袖口を口元にあてて綻ぶ口角を隠している彼女には。

 

木枯らしで吹き飛ばす事が出来ないならせめてと、降り積もる落ち葉の下に何かを隠している青年がその黒い瞳の奥に何を思っているかなど、露と気付くことは出来なかった。

 

 

 

「最近、お帰りが遅いですね。どこかに寄り道でもしていらっしゃるの?」

母から針仕事を教わっていた、稽古のない日の昼下がり。いきなりに母から投げかけられた問いは、少女を動揺させるには充分なものであった。

思わず刺繍を刺していた手を止めた少女は、先程までと同じように針を動かし続ける母をじっと見つめた。一体お母様は何を思って言ってらっしゃるのかしら。お怒りになっていらっしゃるのかしら。母が何を考えているのかまるで見当もつかず、唯無言で見つめる事しか出来なかったのだ。

「良い人でも出来たのですか?」

フフ、と笑みを浮かべて手を止めた母は、好奇心に溢れた娘の目をしており、少なくとも何か叱責を受けるわけではないらしい。ならば後で父にだけは言わないように頼めばそれでいいだろう、と嘘を吐かず素直に答える。

「ええ、まぁ」

「本当に?もっと早く教えてくれたら良かったのに。どのようなお方?」

結婚するまで所謂箱入り娘であった少女の母親は、二十数年連れ添った夫でさえ驚く事がある程に今でも女学生のように可愛らしい心を持っている。今回も、帰宅時間が遅くなったと同時期に何かと虚空を見つめ頬を緩めるようになった娘から恋の気配を感じて話をしたくなっただけであろう。そう思った少女は、知らず張り詰めさせていた肩の力を抜いて恋しい吉野の君の話を始めたのであった。

「見目は?」

「お優しいの?」

「どのようなお話をしたの?」

「まぁ本当に?」

最初はぽつぽつと答えていた少女も、やはり恋する乙女。今まで他の人に漏らす事もしなかった恋心を根掘り葉掘りと訊ねられるうちに口も滑らかになっていく。

「お家は何方なの?」

「お稽古場からそう遠くはないんです。ほら、彼方の方に大きな桜の木のあるお屋敷がありますでしょう?彼方に住んでいらっしゃるんですって」

「まぁ!あのお屋敷?其方の御令息なら、お噂は良くお聞きしますよ。とても優秀な方だそうですね」

「そうなのですか?道理で、怜悧なお方だなあぁと思っておりましたの」

「お相手は貴女の事を好いていて下さるの?」

「分からないのです。けれど、あの方は私の気持ちを分かっているのではないか、と感じる時は良くあるのですよ。お名前をお訊ねしてもはぐらかされますし」

それまで楽し気に話を促していた母は、少しだけ目尻を下げて悲しそうな表情をした後に、眉をきりりと上げて、

「頑張りましょう。殿方の心は、耐えて耐えて手に入れるのですよ」

と言ったので、少女も芥子色の袂を捲り上げる真似をして精一杯勇ましい顔を作り上げた後に、

「はい!」

と答えたのであった。

 

 

 

庭の桜が散り切って、青々とした葉をつけた枝が塀の外に伸び始めたこの頃。私は一人の女性に恋をした。

 

鶯が庭で囀る気持ちのいい昼下がり、寝込んでしまっていたこの頃からすると体調の良い青年は、身体を起こし父が少し遠くの街で買って来てくれたという籐の揺り椅子に背を預けて最近読めていなかった分を取り返すかのように文字を追っていた。

家の外に出る事の出来ない彼を気遣って弟が持ってきてくれる小説や学術書は青年にとって無為に過ごす日々の中で数少ない刺激だった。病弱な息子が季節を感ぜられるようにと優しい両親が作ってくれた四季折々に美しい花をつける植物を所狭しと並べる美しい庭は、彼に月日の流れを知らせ無聊を慰めてはくれたが、新しい物事を知る喜びを教えてはくれなかった。本の中で走って、命を賭して、時に恋をして、初めて青年の世界は色付いたのである。

丁度読み終わった本を閉じて、暫く同じ姿勢で強張ってしまっていた身体を起こして伸ばす。糸繰草、黒種草、霞草、姫女苑。様々な花々が咲き乱れる庭と葉をつけた枝を大きく広げる大木。白と黒の色鮮やかな世界から少し目を逸らすと、目に飛び込んできたのは現実世界での色の氾濫だった。もうどこに何が咲いているのか、吉野の枝ぶりがどのような物か、目を閉じていても分かってしまう程に見てきた光景。変わったことなぞ何もない。いつも通りの庭。見慣れた美しさに目を細めていると青年は庭の向こう側、開け放たれた裏戸の外を一人の少女が通り過ぎていく姿を見た。

その裏戸は庭師が庭園の手入れをする為だけに着けられたものである。一応は部屋からその戸までの道はあるものの家人が使うものではなく、今日は庭師も来ていない。何故開け放たれているのか。誰かがしっかり閉めるのを忘れていたのか、はたまた風の悪戯か。原因は今となってはもう分からない。

唯その時私は、彼女の姿をほんの一瞬見た。

其れだけであった。

 

 

 

あの日から暫く戸は開いたままだった。庭師とてそういつも来るわけではないし、この庭を一日眺め暮らしている訳ではない人たちが庭の片隅にある裏戸の存在に気付く事もある訳はなかったから、青年が何も言わなければそこは開いたままだった。

人通りが多いわけではない。特に何か面白いものが見えるわけでもなかった。二、三日に一度あの少女が一瞬姿を見せる以外は。

初めの内は彼自身、何故そこを開けたままにしているのか分かっていなかっただろう。少女が嵩張った荷物を運んでいても、特段何を思うわけでもなかった。強いて言うならば、恐らく花嫁修業の一環として何かの稽古に通っているのだろうと思われる少女の姿に、普段胸の奥底に沈めてある懊悩が顔を出しかけたことくらいである。学校に通う事も出来ず暇を持て余して様々な本を読み漁っていた青年は成程、聡明と言われるような人物であったが、家族と医師と庭師と少しの使用人。それ以外の人間との関わりというものが極端に少なかったせいで、自身の感情というものについて殆ど無知であった。幾ら作り話の中に自己を投影して様々な疑似体験をしていると言ってもそれは本当の事ではないのだから、この時の彼が心の中でひっそりと生まれていたそれに気付く事が出来なかったのも仕方のない事である。然し、同時に、それはいつか気付かねばならぬものであったのであろう。

 

其の日、彼は少し体調を崩して馴染んだ布団の中でボウと自室の天井を眺めていた。身体の怠さに辟易としながらもなかなか寝付く事も出来ず、唯漫然としていた時。母屋に続く障子の向こうから一人の男の声がした。

「兄さん、失礼します」

そういって入ってきたのは青年と三歳違いの弟である。病弱な兄と違い安産で母の腹から出でたその時から風邪すらそう引いたことのない健康な男であった。大学を卒業した後父の期待を一身に受けて官庁への出仕が決まっている優秀な男である。心優しい青年で、病がちで迷惑しかかける事のない兄にも家族愛でもって接する弟で、今も水の入った桶と清潔な手拭い、そして暇を持て余す兄の為に新しく手に入れてくれた数冊の本をその腕に抱えていた。

「体調は如何ですか?」

「昨日までよりは少し良いよ。有難う」

「それならよかった。手拭い、換えておきますね」

額の上で温くなってしまっている布が取り去られ、頭のすぐ上で新しい布が絞られる水音が気持ち良い。

弟は物静かな兄とは反対に常に明るく周りを退屈させることのない男だ。けれど体調の悪い兄がそれに返答することすら辛さに繋がることが分かっているから、何か声が返ってくることを求めてはいないし、兄の方も弟がそう思っていてくれることを分かっているから無理に声を発そうとはせず、彼が持ってくる部屋の外の話を楽しんで聞き入るのであった。

「そういえば、昨日母上が新しく兄さんの背広を仕立てようか、と仰っていましたよ。外套まで揃えるつもりの様でした」

「……そんなものを揃えて頂いても着る機会なんてないのだが」

「そんな事仰らずに。父上もそれならば洋装の為の収納も必要だな、と張り切って居られましたから」

朗笑を響かせる弟に微苦笑を返しながらも心の中で小さく嘆息した。昔から父と母は私に何かと新しい着物を与えるのが好きで、外に着て行く機会なぞないというのに部屋の和箪笥の中には真新しいまま埃臭くなっている着物が詰まっている。両親は、医師が匙を投げて私自身諦めている私の未来をまだ諦めていないのだと思う。嬉しい事だとは思うものの偶にその思いに胸の辺りがぐっと押し潰されそうになってしまうのだ。

「それにしても今日は寒いですね。もう五月に入ったというのに」

檳榔子染の袂に手を突っ込んであぁ寒い寒いと呟いていた弟は、徐に庭へと続く襖の方へと近寄ると閉じましょうか、と此方へと目を向けた。

良い弟である。そしていい男であるとも思う。それなりの資産を持った家の跡取りとなる事は決まっているし、帝国大学卒業官庁勤めの肩書は伊達ではなく身内の贔屓目を抜きにしても英邁な人物であると言えるだろう。また、それを鼻にかける事のない謙虚さも持ち合わせている。きっと良い縁談話も多くあるだろうにどうも本人にはまだそのような気はないらしい。出来れば私が直接祝福を出来る内に彼の晴れ姿を見たいものだが。

「いや、そのままにしておいてくれ」

「そうですか?それなら今は開けたままにしておきますけれど、また寒くなってきたら閉めに来ますからね」

分かった、有難う、と弟の方を見遣る。

「曇っているからかな。花の色が少しくすんで見える」

外で様々な美しいものに触れて、此処よりも絢爛な庭園を沢山見てきているだろうに幼い頃から何かとこの庭に訪れる彼は、恐らくこの庭に愛念を持っているのだろう。

いつの日だったか、昔に一度だけ兄は弟に、このように詰まらない部屋に無理して来る事はないと言った事がある。もし両親に何か言いつけられているなら、兄さんから言っておくから。と。然し彼は少し寂寥とした顔をして、僕は兄さんに会いたくて来ているんです、とはっきりとした声で言った。そして如何にか聞き取れるか取れないかというような渺たる声で、それに、この庭だけは僕に何も望みませんから。と呟いたのであった。

これは兄である青年が知る筈もない事ではあるが、優秀で人の期待に生涯応え続けた弟が人前で弱音らしきものを吐き出したのは彼の生涯に於いて後にも先にもこの時が最後であった。

「あれ、裏戸が開けっ放しじゃないか」

縁側にて静かに花々を眺めていた弟が不意に大きな声を出したことでつらつらと何事無く考えていた思考がふつりと途切れた。

「全く。近所の子供たちが入り込んだら大事ですよ」

閉めてきます、と沓脱石に放置してあった草履に足を入れて、朝の微雨によって滑りやすくなってしまっている飛び石の上を跳ねるようにして裏戸迄駆けていく弟には、あ、と呟いた兄の声なぞ届きようもなかった。待ってくれと慌てて体を起こした時には既に、青年と外界を直接繋ぐ扉はぴたりと閉じられた後であった。

「どうかしましたか?」

季節外れの冷たい空気に奪われた体温を少しでも取り戻そうと手を擦り擦り部屋の中に戻ってきた弟は、肩肘を枕に突いて上体を起こしていた兄を見て怪訝そうに兄弟よく似ている目元を顰めた。

「……いや、何もない」

兄自身何故裏戸を閉めようとした弟を止めようとしたのか分からず思わず息が詰まってしまう。

「何もないならば寝ていて下さい。治るものも治らなくなってしまいますよ」

「ああ……有難う。何時も手間をかけてしまって、すまない」

「そんな事は全然構わないんです。兄さんは早く熱を下げて下さいね」

じゃあ、夕方にもう一度来ますから。彼はそう言って母屋への渡り廊下へと消えて行ったのであった。

よく気の回る弟である。きっとその優しさは彼自身を蝕む毒にもなるだろうが、彼が出世する事や世間と巧く遣っていく事を扶ける大きな力ともなるだろう。何時もならそんな風に考えて、少しの劣等感が混じるものの素晴らしい弟を持っている事の誇らしさに胸が一杯になる筈なのだが、今日はその気の回りが憎らしかった。

態々閉めずともよかったのだ、あの裏戸は。

あの裏戸は開けておかなければ。おかなければ?開けていても閉まっていても何も変わりはしないのではないか?私が床に伏しているのも、体調の良い時に本を読むのも、偶に庭へと目を遣るのも。何も変わらない筈なのに、何故弟がそこを閉じてしまった事がこれほどに心をざわつかせるのだろう。

その時、青年はふと思い出した。

そういえば、そろそろ彼女が通り過ぎる頃合いではなったか。

そして私は初めて気付いた。ああ、確かに変わってしまう事があった。

私は、彼女の訪れを待っていたのだ。庭の塀を長細く切り取って見える向こう側の景色をほんの数瞬で通り過ぎてしまう彼女の姿を。

私は、恋をしていたのだ。何か嫌な事があったのであろう日には桜色の唇を突き出して、何か良い事があったのだろう日には緩んだ口元を隠そうともせず明らかに足取りが軽くなっている彼女に。

 

私は初夏だというのに寒々としたとある五月の終わりに、名前も知らない女性に初めての恋をしたのだ。

 

 

 

青年も自身がこれほどに堪え性のない人間であったという事など知りもしなかったであろう。

初めの数日は、今日は通っているだろうか、どのような顔をしているだろうか、と考えては恨めしく閉じられてしまった裏戸を眺めるだけであった。然し、一週間も経ってしまえば、段々と彼女をもう一度見たい、あわよくば少しでもいいから話してみたい、と考えるようになっていた。彼女の声はどのような響きを持っているのか、笑い声は鈴のように軽やかなのか、将又場を和ませる大輪のような笑顔なのか。気になってしまえば押し込めたとてどうこうなるものではない。恋心というものは其れほどまでに単純ではないものである。その点で彼は初めての恋というものに振り回され、同時にそれを謳歌していたと言えるだろう。

兎も角、とある日の昼下がり、何時の間にか、新しく母が持ってきてくれるものを収納する時にしか開ける事のなかった箪笥の引き出しから、濃紺の単衣を引っ張り出していた。

何時もより殊更に丁寧に身に着けて、これまた仕舞い込んでいた下駄に片足を差し込んだ時、彼は漸く自身は一体何をしているのか、と思った。会ったとて、彼女からすれば見も知らぬ男であるし、話す事など出来ないかもしれない。抑々、もし話す事が出来て万が一にお近付きになれたとしても私はそう長く生きることは出来ないのだから意味のない事であるのに。そう頭に過ったが、それでも尚、彼女を一目見たいと思った。大丈夫、今日少し見て、それで満足しよう。話せなくともよい。少しだけ、と。

そして、裏戸に少しだけ隙間を開けて、凡そ一週間ぶりとなる外の様子を窺うと、扉の直ぐ目の前に一つ、簪が落ちていた。紫陽花を模した飾りのついた可愛らしい簪。もしや、と隙間を大きくすると、ほんの少し先にこの一週間焦がれに焦がれた背中が何にも気付く様子無く歩き去っていくところであった。久方ぶりの外の地面への感動なぞ感じる暇なぞなく、慌てて庭の外に出てそれを拾い上げた。

あぁ、本当に私には堪え性がなかったらしい。気付くと私は彼女に声を掛けていたのであった。

「落としましたよ――」

 

 

 

「お前の縁談が決まった」

年も明け、漸う正月の気色もなくなってきたこの頃。稽古事の先生への挨拶も回り終えて、外には真白の雪が降り積もっている。そんな睦月の終わり、いきなりに両親から呼び出された少女は突然の事に言葉を失ってしまった。

「向こう方のご両親も諸手を挙げて話を受けて下さった。相手方が仰られた都合上、これから結納迄普通よりも時間がない。それまで婿殿に会う事は難しいが、今までより一層花嫁修業に励むように」

この時代、父親のいう事は絶対である。例え好きあった人がいようとも、父親がこの家との縁談だと言えば拒む事など出来よう筈も無い。

「……はい」

厳かに話を受け止めている振りをして、溢れそうになる涙を隠すように俯きながら返事を返すと、机を挟んだ向こう側のお母様から驚くべき真実がほんの僅かに含まれた言葉が聞こえてきた。

「良かったですね。これから少しの間会えないことは我慢して、準備を進めてしまいましょうね」

「……お母様、少しの間会えない、というのは何のことでしょうか?」

「今までのように毎日のように会う、という訳には参りませんとも。ほんのひと月の事なのですから、我慢なさい」

「ですから、私は一体何方とお会いできなくなるのですか」

何時まで経っても要領を得られない母に少し語気を強めて訊ねると、両親が揃ってぽかんとした後に何を言っているのですか、と笑い始めた。

「貴女の愛しい人に決まっているではありませんか。好きになった人と生涯を共にできるのですからもう少し嬉しそうなお顔をなさい」

「……本当に?」

「当り前だろう。このような事で嘘を吐いても仕方ない。昨年末から話は決まっていたのだが愈々結納と輿入れの日にちが決まったからな。流石に隠したままでいる訳にはいかんだろう」

何故か照れたように顔を背ける父と、その隣で顔を綻ばせている母を見て、少女はそれが真実であることを悟った。最早彼女自身忘れかけていた事ではあるが、そういえば以前母と吉野の君の話をしていたではないか。

「夢のようです!まさか、まさか吉野の君と夫婦になることが出来るなんて……!」

「吉野の君とお呼びしているの?」

思わず心の中だけでの呼称を口に出してしまった娘に問いかけにその可愛らしい耳を真っ赤に染め上げた少女は、間違いなく彼女の人生の中で一番の幸福を感じていたであろう。

 

 

 

それから結納までの日々というもの、少女の自宅はそこはかとなく浮ついた空気と少女の振りまく輝きで満ち溢れていた。本当ならば幾月も掛けて用意する事をほんのひと月程で行って、同時に桜の季節に執り行う婚礼の準備までしようというのだから仕方のない事ではあるのだが、吉野の君にお会い出来ない忙しい日々で思わず物憂げな息をついてしまう事も偶にはあったが、両親が何時かの娘の晴れ衣装にと彼女が幼少の頃から用意してくれていた相良刺繍の反や、銀糸で桜文が描かれた真白の反を色打掛や白無垢へと仕上げていく様は、彼女にときめきを感ぜさせ、少しの憂いなぞ取り去ってしまうのであった。

「姉上、とてもお美しく、似合っておられます」

「有難う」

然し、そんな毎日も今日で一つ区切りがつく。結納の為に新しく仕立てた最後の振袖を身に着けた彼女はそう思った。新橋色の鮮やかな中に大輪の椿が深緋であしらわれているそれに心を躍らせて、ほぼひと月近く会う事の出来なかった吉野の君に思いを馳せて。

「幼い頃私と共に泥だらけになっていたとは思えませんね」

「まぁ!余計だわ」

頬をぷくりと膨らませて少し目を吊り上がらせた姉と、わざとらしく、おお怖い、と怯える振りをした弟は次の瞬間、ふはっと息を噴き出してよく似た口元からクスクスと同じ笑い声を一頻り吐き出したのであった。

「もう!余り笑わせないで」

「はは、申し訳ありません」

この二人は昔からこうであった。ほんの少しお転婆で何かを思いついたら直ぐに行動に移すせいで母にやきもきとばかりさせていた姉と、それに振り回されたり偶に揶揄い返して仕返しをする弟。横暴ではないかというようなことばかりする癖に夜闇が怖くて厠に行けない時はついてきてくれた頼もしい姉の背をいつの間にか弟が追い越しても、ずっとそうだった。いつまでもこのままでいるようなそんな気分でいたが、これから結納だと正装を整えて、あぁ、もう気安くこんなくだらない会話を楽しむこともなくなってしまうんだな、と改めて感じて些かの寂しさが二人の胸の内側を吹き抜ける。

「お嬢様方、そろそろお時間です」

姉弟が昔を懐古して沈黙が支配してしまった部屋の外から、長くこの家に仕えてくれている初老の男性の声がする。

「もうそんな時間だった?」

「はい」

「分かりました。今から向かうわね」

応えて、す、と立ち上がった期待と希望に満ちた姉のその顔を見て、そういえば、と弟は思い出し胡坐を掻いていた足を整え姿勢を正した。愈々今日、他家への輿入れを名実ともに決める姉に、未だ、伝えられていない事がある。

「姉上」

固い声で呼び止められ部屋から出ようとしていた姉は、なぁに?と華やかに袂を翻し振り返る。

「遅ればせながらですが、御婚約おめでとう御座います。義兄上とのお幸せ、お祈りしております」

今までこれという祝福の言葉を言ってこなかった弟の突然のそれに思わず目を真ん丸にして驚いた後、少女は一言、有難う、とだけ微笑んで目尻に浮かんだ涙を隠すように背中を向けた。

 

 

 

何故、こんなことになってしまっているのか。

母と弟に挟まれ、晴れ着に身を包んだ私の向かいには見ず知らずの顔が三つ、並んでいる。

そう。今までに話した事はおろか、顔を見たことすらないような人たちが三人。初老掛かった厳めしい顔の男性も、少しふくよかな白髪交じりの女性も、目元がどこかあの方に似ている年若い青年も、どの人も私は知りやしないのに、もうすぐ、結納が終わってしまう。

部屋に入り、覚えのない人しかいなかった時点で少女は、何か物申すべきであったのだろう。けれど、彼女がそうできなかった事も仕方のない事である。例え彼女でなくともこのような事態、混乱し思考が停止してしまうのも致し方ない事であるだろうから。まして、彼女は青年から兄弟がいるという事も一度足りとも聞いたことがないのだから、当人たち以外が勘違いを起こしている事も知りようがない。

行程が進んでいく間、呆然とした儘、何故、何故、と一つの言葉を脳内に循環させていた少女がやっと此方に戻ってくる事が出来たのは、向こう方に座る初老の紳士が最後のあいさつの中で申し訳なさそうに織り交ぜた一文であった。

「本当ならば花婿となる者の兄も此方に足を運ぶべきであったのですが、何分病弱で庭を歩くのもやっとというような者で……。申し訳ありません。新しい義妹の方には宜しくと言っておりましたし、此方に来て頂いてからにでも紹介致します故」

まぁまぁ、それは大変でしょう、と心配そうに返す自身の父といえいえそのような事は、と誰かが応える声が段々と遠退いて聞こえる。そこまで来て少女はやっと、吉野の君が何時も何処か儚げで、顔が青白かった理由を真に理解して、同時に、この状況になってしまった理由を知る事となった。

「あぁ……」

思わず絶望を体現するような、小さな声とも息ともつかぬものが口から零れ出る。

「姉上?」

次の瞬間ふ、と意識が何処かに飛んでしまった少女は、隣から様子のおかしい姉を覗き込んだ弟の方へ倒れ込んでしまったのであった。

 

それから結局、その日の夕刻まで私は意識を失った儘だった。目を覚ますと傍らには、あの見知らぬ青年が座っていた。

「お目覚めになられましたか」

「……ずっと、ついていて下さったのですか」

「はい」

「……有難う、御座います。もう大丈夫ですから、お帰りになって下さい」

早く一人になりたくて、私が生涯を共にしなければならないその男なぞ見たくはなくて、青年がいる方とは逆側に顔を向けたまま、冷たく言い放った。それでも立ち上がる素振りなくその場から動く気配一つしない事に苛立ち始めた時。ずっとだんまりとしていた青年が一言、言葉を落とした。

「破棄して頂いても、構いませんから」

「はい?」

「婚約の事です」

ずっと俯いた儘でいた彼が顔を上げた時、何か、全てを承知している、というようなそういう目をして此方を真っ直ぐに見つめてきたので少女はどこか居心地の悪さを感じて僅かに身じろいだ。

「恐らく、病弱な兄がまだ体調が良く出席出来るような時に婚儀を執り行う為、私の両親が確認を怠ったのだと思います。私自身、遅かれ早かれ結婚相手は決められるのだろうと思っていましたし、良い人がいる訳ではありませんでしたから、このお話を父から聞かされても、ああ遂に。と思うだけでしたが、貴女はそういう訳にはいかないでしょう。ですから、婚約を破棄して頂いても構いません。その時は、此方の非でもありますからこの話は元から無かったものとしましょう」

良く見知って恋焦がれていたのとよく似た目元を安心させるように緩ませたその顔は、確かに吉野の君と同じような暖かい優しさを感じられるものであったが、少女が恋をしていたのはこの男ではない事も彼女の中で明瞭な事であった。

青年の優しさへの感謝の念と申し訳無さで何も言えずにいると、様子から気色取ってくれたのか、彼は何も言わず立ち上がり夕陽色に染まった障子を開けると、お大事に、と部屋を出て行った。外では、まるで私の恋心を嘲笑うかのように鴉の声が響き渡っていた。

 

 

 

其の日は最近専ら締め切ってしまっている障子の向こうが雪に照り返った陽の光で少しばかり眩しく感じるような、そんな日だった。特にすることもないが体調が良いという程良い訳でもなかったので、気に入って何度も読み返している本を一冊手に取りぱらりぱらりと眺めていた。普段ならばそろそろ少女が訪れる頃合いであったが、此処ひと月程青年は彼女の姿を見る事が出来ていなかった。然し、年末最後に話した時、年初めは少し忙しくてお稽古も無く、最初のお稽古は二月の初めなのです。と聞いていたから特段慌てたり塀の向こうを気にして落ち着かずにいたりする事もなくゆったりと過ごしていたのである。

そうして、少し肌寒い日中を一人過ごしていると、母屋に続く廊下から何やら穏やかでない足音が近付いてきて、ぴたり、と襖の前で止まると荒々しく開かれた。そこには何やら何時もと様子が違う弟が立っていたので、何かがあったのだろうと見て取れた。

「兄さん今お時間宜しいでしょうか」

「構わないが、そのように眉間に皺を寄せてどうした」

質問に答えず挨拶もそこそこに部屋に入り、難しい顔をして座り込んだ弟は、目前に兄がその身を正して同じように座すと少し何かを戸惑うように視線を彷徨わせた後、重々しくその口を開き、こう言った。

「この度、結婚する事と相成りました」

と。

その瞬間、まるで何か良くない事が起こったのかと身体を強張らせていた青年は、一気に力が抜けていくのを感じた。何の事はない。弟は唯自身の婚約を報告に来ただけだったのだ。何を其処まで緊張していたのか、と脱力してしまった姿勢をもう一度正し、笑みを浮かべて弟に祝福の意を述べる。

「おめでとう。お相手はどのような方なんだ?」

「知りません」

「知らないという事はないだろう。写真なり見合いなりで、容姿だとか趣味だとか、そういう事も知らないというのか?」

何故か報告を済ませても硬い顔のままで可笑しなことを言う弟に対して青年は怪訝に思った。

「父上曰く、私とそのお相手の方は以前から知り合っていたのだから、態々そのような物を用意しなくとも良いだろうとの事だそうですが、私自身そのような女性に心当たりがないのです」

その言葉にいまいち話の要領が掴めず、更にその顔に困惑を浮かべる事となった。

「どうやら稽古事の帰りに大きな桜の木の下で何度も何度も会話を交わしていたそうですが、少なくとも其れは私ではないのですよ」

そしてその言葉でようやっと弟が言いたい事を理解して顔の表情を無くしてしまった。

「恐らく、両親たちはその話を聞いて、私だと勘違いしたのでしょうが……」

一体誰なのでしょうね、その男は。と訳知り顔で責めるように此方を見てくる弟から逃げるように、青年は目線を逸らした。

 

一週間後に婚礼を控えた今日。久し振りに彼女が現れた。春嵐に閉じ込められた離れの中。朝から痛む頭を宥めるように唯一人、ボウ、と布団に潜り込んでいた私は、縁側の向こう、閉め切っている筈の雨戸が強風と豪雨に激しく叩かれるそのまた向こう。良く聞こえない外の音の中に良く知った声が混じっているような気がして熱で霞む目を開け、雨の音に耳をすませた。

「――し、もし!居られませんか!」

ああ、貴女は今このような時に外に出て、まして私の所になど来てはいけないではありませんか。風邪などひいてしまっては大変だ――。朦朧とした意識の中、遂に幻聴が聞こえ始めてしまったのか、と思わず自嘲を禁じ得ずにいると、聞こえてくる声が段々と大きくなっているように感じた。

「どうか、どうか出ていらして!」

同時に木の板を力任せに人が叩いているような、そういう音も聞こえてきた。あぁ、私は随分自分に都合の良い幻を作り出しているのだなぁ、と目を閉じてまたも雨の音に暫く耳をすませていた。

五分か、十分か、もしかするとそれよりずっと短かったかもしれないしそれよりもっと長かったかもしれない。兎に角それだけの微睡みの後少し痛みの落ち着いた頭を起こし、傍らに置いてあった水で喉を潤していると、少し落ち着いてきた雨脚の中から、今度こそはっきりと、少女の声が聞こえた。

「最後に一度だけ!」

まさか、この雨の中、本当に?違ったならそれでいい、もし、本当にいるなら。気付くと青年は、泥濘んだ庭の小道で寝着の裾に泥を跳ね返させながら小走りで走り抜け、裏戸を開けてしまっていた。輿入れが終わるまで彼女に会わないと決意していたことも忘れて。

果たしてそこには、やはり彼女がいた。一体どれ程の間雨に打たれていたのか、水を吸ってすっかり重くなっているだろう今様色はすっかりくすんで見えて、少女の心を映し出したかのようであった。

今日のような日に外に出てお身体でも壊したらどうするのですか、と強い口調で言って、だから早くお帰りなさい。と続けようとしたその時。

「どうして、弟君の事仰って下さらなかったの」

小さな小さな、雨の中に紛れてしまいそうなその声は、泣き出しそうなのを堪えて、でも何かあればその我慢が決壊してしまうような、何時も明るく振る舞っていた彼女からは想像すらした事のなかった様子に青年は思わず息を呑んだ。

「ねぇ、どうしてですか?」

「……それは、私が弟に少なからず劣等感と羨望を抱いているからです。せめて貴女の前だけでは、完璧な人間でありたかった」

「私の好意に気付いていらした?」

「ええ。けれど自身が臆病な余りに知らぬ振りをしてきました」

「私の事、少しは好いていて下さった?」

「勿論、言うまでもなく私は貴女に恋をしています。きっとこんな思いはこれが最初で最後なんだろうと、思っています」

「それなら」

それなら何故、私と弟君との婚姻に否やを言って下さらないの。好きあっているのならば、何故。

其の時、それまで唯淡々と言葉を落としている、という風だった少女の目から一粒の涙が零れた。そしてそれをみた青年の心もまるで万力に締め付けられたかのような痛みで苦しくなった。

それでも。

それでも青年は、彼女には幸せになってほしかった。詰まらない自身の恋心などで、愛しい彼女に辛い思いをさせたくはなかった。

「私は、これからそう長く生きられる身体ではないのです。刻々と死が近付いてきている香りがするのです。そんな私と一緒になっても、貴女を幸せにして差し上げられることは出来ない。それに反して、私の弟ならば、必ずやあなたを幸せにしてくれるだろうと思うのです」

だからどうか、初めの内だけ少し我慢をして、幸せになって欲しいと真っ直ぐな瞳で言う青年に今までより一層哀しさを溢れさせた目をした少女は、唯一言、それなら、仕方ありませんね、と呟いた。

 

 

 

花婿の兄が体調不良により欠席していた以外、婚儀は滞りなく行われ、若干二十歳の少女は優秀な夫を持つ花嫁と成った。身内だけの少しばかりの酒盛りもお開きとなり、今日から自身が住まう事になった屋敷の廊下を湯殿から上がりすっきりとした姿で歩いている彼女は、今頃部屋で待っていてくれるだろう夫の事を思い出していた。思えば初めて会った時から彼はこの話が破談になるよう、動いてくれていた。優しい人だ。もし吉野の君よりも先に出会っていたらあの人に恋をしていたかもしれない。それくらい、良い人だ。

そんな事をつらつらと考えながら歩いていた彼女は、どうやら目的の場所に辿り着いたようで、その足を止めた。その目は何やら覚悟を決めているようで、ひっそりとその静かな部屋に入り込むとまた同じようにその障子をぴたりと閉めた。

「今晩は、吉野の君」

返す者のいないその言葉は、暗闇の中に吸い込まれていった。

 

翌朝、屋敷の離れでは、病弱な長男とその腕の中に入り込むように並んでいる少女、二人の遺体が見つかった。

眠っている間に刺されたのか、苦しんだ様子も抵抗した様子もなく、胸に女性の懐刀が刺さってさえいなければ未だ眠っているような兄と、幸せそうな微笑みを浮かべて毒を呷ったのであろう半日だけの妻を見た弟が何を思ったのかは分からない。

 

唯、開け放たれた縁側から吹き込む吉野桜の花弁が二人の上に降り積もる様は、とても、美しかった。