可哀相に。 八乙女柑橘

 

 

 横たえていた体を起こし、窓の外を見る。僕はもうずっと長いこと、この景色を見ていたので、すっかり飽きてしまっていた。それでも、外は魅力的でずっと見ていられる。桜が散っている。春だ。僕はとうとう、卒業出来なかった。

 ベッドの脇で家族が泣いている。元気な体に産んであげられなくてごめんね。もっと稼ぎが良ければ国外に行けたのにすまない。

 友達が千羽鶴をくれた。卒業式には出られなかったけど、ずっと友達だよ。僕らだけ先に行ってしまってごめんね。

 彼らはどっちも、酷く罪悪感を抱いているような顔で、僕を見ている。

 理由は推察するに容易だ。実のところ、僕は明日、成功率が30%の手術を受けることになっていた。しかも、成功しても、延命できるだけで完治には至らない。

 感慨もなく無意識に、「元気な姿を見せてやれねば」と、半ば義務や反射のように、そう思った。僕は彼らの姿を、外の景色と同じくらい見飽きていた。本当はどうでもいい、なんて思い始めている。彼らは外よりも魅力的ではなかったから。

 弱り切った足を戯れにパンパンと叩き、点滴の刺さった手でぐっと握りこぶしを作る。笑顔を作ればまあ大丈夫だろう。

「平気平気! きっと成功するから」

 そうすると、みんなも笑ってくれた。引きつった笑い、悲しさを残した笑顔。

 ああ、なんて可哀相な人たちなんだ。

 僕は恐らく死ぬだろう。それに、もし手術が成功しても、そう長くない。

 そんな僕のために、こんな風に悲しんで、落ち込んで、ありもしない罪で自分を責めるなんて。

 

 ああ、可哀相に。

 

 

 

 屋上は涼しかった。夏の日差しが強く皮膚を焼くが、貯水塔の影が細く長く伸びていたおかげで、そこへ避難できたのだ。

 しかし、酷い強風で、ばさばさとブラウスが喚いている。鳥の羽ばたく音みたいだ。

 なんとなく、貯水塔の影にてっぺんを目指して、暗い現身を踏んで進んでいく。日差しが熱くて、日陰から出たくなかったから。

 途中にあった柵を跨ぐのには苦労した。タイトスカートだったので、上手く跨げなかったのだ。こういうところが、私はどんくさい。

 そうして、ようやく影のてっぺんにたどり着くと、いよいよ体は極寒の世界に放り込まれた。冷たくて寒くてたまらない。手が震えて、歯がガチガチと音を鳴らす。武者震いというやつか。そう焦るなよ。きっとすぐだよ。と自分を励ました。

――ほんとうはちょっとこわかった。

 すう、と息を吸ってから、後ろ手に鉄柵を掴んでいた手を放し、勢いよく空に身を投げる。そこで、靴を脱ぎ忘れていたことに気づいた。あ、自殺って、靴脱がないと駄目なのに……。私は本当に、どんくさいんだから……。

 恐ろしいほどの速さで落下していく。内臓の浮遊感に吐きそうになって細めた目が、私の勤めていたデスクの、同僚の目と刹那の時を見つめ合った。

 私はあまりの浮遊感と恐怖に、そこで失神してしまう。まだフロア六階分の自由落下が待っていたというのに。死ぬまでの時間が長すぎて、死というものが思ったよりも怖くて。こらえ性のない私は、そのまま『私』という意識を、永遠に終えたのだった。

 最期に思ったことは、「なんて可哀相なんだろう」だった。あの同僚は、これから死ぬ人間と目を合わせるなんて恐ろしい経験をして、更にこれから、ビルの入り口でトマトみたいになった私の死体を見つけることになるのだ。どんくさくてごめんなさい。もし私が、反対側の明るい陽射しの方から飛び降りていれば、落下地点は道路のど真ん中ではなかったかもしれない。

 こんな私の間抜けに、最後まで巻き込まれるなんて。

 

 ああ、可哀相に。

 

 

 

 もう限界だった。もう、もう無理だった。

 仕事だけなら、ここまでじゃなかった。だって、どんな量でも、どんな回りくどい内容でも、時間をかけて、休日にでもプログラムを組めば、すぐに終わるから。

 問題は、上司と同僚……そして自分のコミュニケーションスキル。もっとうまく話すことが出来れば、何か違ったのかもしれなかった。だけど、違う未来なんてもうない。現実はもうお終い。僕の心はもう折れてしまっていた。

 かつん、かつん。

 ごり、ごり。

 一歩一歩を進むたびに、摩耗した心が削れていく。これから家に帰って、持ち帰ったプログラムを完成させないと。それから、上司に提出するために、仕様をプリントアウトして……ああ、印鑑を職場に置いてきてしまったから、提出できない。氏名と印鑑がないと、あの人は受け取ってくれない。

 あとは単純作業と、それから、エクセルデータをpdfに書き換えてから先輩に送らないと。でも、ああ、添付の時間、相当かかるんだろうなあ。あの人、解凍の仕方が分からないって、前に言っていたから、圧縮しちゃダメだし……。頭の中に上司たちの怒声や、落胆の声、癇癪の叫びがリフレインする。

 かつん、かつ、かつ、かつん。

 ごり、ごり。

 頭の中はゆっくりと、攪拌されているように回り続けている。ずっとずっと、それは止まらない。食事をしていても、眠ろうとしても、ずっと、ずっと、ずっと。

 僕の足音に重なるように、誰かの足音が聞こえてくる。誰かが付いてきているみたいだ。会えり道が一緒なのか。それとも、駅に向かっているのだろうか。どうしてか、振り返って顔を見てみたい好奇心に駆られたが、失礼だからやめた。

 無駄に身長が高いから、僕の足はちょっと長い。歩幅の関係で、未練がましい好奇心の源である、後ろの人との距離は段々と離れていく。僕は俯きがちにかつん、かつんと歩く。後ろの人は速足で、僕の足音と被りながら、かつ、かつ、かつ、かつ、と歩く。

 パソコンの入った縦長のリュックがやけに重い。それはきっと、パソコンの重さなんかじゃなくて、無駄に印刷された書類たちの怨嗟のせいに決まっている、と思った。

かつん、かつ、かつ、かつん。

 ごり、ごり。

 蛍光灯が点滅している。切れかけているのだ。電柱を見上げて、点滅する視界の端っこに、満月を捉える。

「きれいだなあ……」

 優しい光が視界を溶かして、それをもっと見ていたくなった僕は立ち止まった。立ち止まった。立ち止まった。立ち止まった。立ち止まった。……立ち止まった。

 もう、あるけない。

 もう、すすめない。

 もう、うごきたくない。

 ねむりたい。つかれた。もうなんにもかんがえたくない。

 折れた心が優しい光に癒されて、凝り固まった疲れが溶けだし、脳が回転速度を落とし始めた。

 頭は至極緩慢に、惰性で回転を続ける。くそ、誰かこの回転を止めてくれ。もうずっと眠ることも出来ないんだ。だけど、月のお陰かもう怒声の幻聴は聞こえない……。

 ああ、そういえば、今日は中秋の名月。お月見日和だった。満月の日は、不思議なことがよく起こる。どこかの国では、牛の出産数が増加すると聞いたし、また別の国では、犯罪件数が二倍になるらしい。我が国でも、バイク事故件数が増加する。

 僕は今、それが何故だか分かった気がする。

 かつん……。

 止まった僕の足音。

 かつ、かつ、かつ、かつ。

 止まらない誰かの足音。

 すぐ後ろに、誰かの息遣いを感じる。僕はさっき収めた好奇心に動かされて振り返る。

「え……」

 とすん。ぐちゃ。

 僕の――僕の体に、刃物が刺さる音。

 僕の意識が痛みを訴える。それ以外のことが考えられない。痛くてたまらない。痛い。痛い。痛い!

 何度も衝撃と痛みが走る。恐怖も、逃げようという意思も、怒りも、何も考えられない。ただ、ただ、痛くて、痛くて……それから、ねむい。

 ああ、ねむい。ねむいな。こんなに睡魔が襲い掛かってくるのは、いつぶりだろう。最近ずっと眠気なんてなかったのに。

 ゆっくりと瞼が閉じていく。何も、考えられない。いや、考えなくていい。眠い。眠れる。ぼくはねてもいいのだ。もうなにもかんがえなくていい!

 体がクラゲみたいに、アスファルトに打ちのめされる。なんて心地よい無力感。

 唇が勝手に弧を描く。僕を何度も刺す誰かの背後に、美しい月が見えた。美しい光。綺麗な月。そして、僕を殺す知らないおじさん。

 僕はこんなにも眠れてうれしいのに、この人は今日から殺人犯になってしまうのだろう。ほら見て、彼は哀れなほどに青ざめて、ああ、なんて。

 

 可哀相に。

 

 

 

 人生を賭けたプレゼンに失敗した。正直、勝算があっただけにショックだ。必ず勝てると思っていた。

 こちら側から切ったカードは、「不労所得」、「三食おやつ付き」、「全自動式家政婦ロボット(私)」だった。普通これで負けるとは思うまい。だが、会社では営業成績ナンバーワンの私は、私生活において大敗を喫してしまった。

 ころころと雪玉を転がし、雪遊びに興じる。こんな姿を親に見られては、三度殺されても足りないだろう。無益な作業をしながら頭を回す。

 さて、どうしたものか。母親が決めた大手企業の幹部の旦那様を逃がしてしまった。いや、逃がしてしまった、どころか、浮気相手と駆け落ちされてしまった。この件についてどう報告すべきか。

 雪玉に水滴が落ちる。私の頬から伝ったものだ。所謂、涙というやつ。何が理由か分からないが、例のプレゼン事件から不定期に、感情が盛り上がると出てくる。女として、営業としてのプライドが傷ついているのか、それとも……曲がりなりにも、旦那を愛していたのか、自分でもどちらか分からない。

 雪玉はここまできてやっと、子供サイズだ。赤ちゃんサイズ。

 そう、赤ちゃん。プレゼンにおいて、旦那の切って来た強力なカードは、赤ちゃんだ。赤ちゃん、つまり、浮気相手との間に子供が出来たのだという。そんなことを言われてしまっては、私としては引き下がるしかあるまい。幸せにしてやりなさいよ、とは思う。同時に自身の抱え込んだリスクに冷や汗をかいた。母が、どんな瑕疵があろうと旦那を逃がすべきでなかった、と主張するだろうことを確信していた。

 それでも、近年まれにみる精悍な顔で、「子供が――いるんだ」と言われてしまっては仕方がないのだ。私としては。ただ、どうしようかな、と。どうすればいいのか分からないな、と、こうして途方に暮れている。

「はぁ……」

 白い息が頼りなく空に溶けていく。これまで、親の言いなり、旦那の言いなりで生きてきて、急に両方から自立しなければならなくなってしまった。落ち着いて考えよう。まず、すべきこととしては……。……。……なんだろう。

 いつの間にか、雪玉が随分と大きくなっていた。涙はすっかり止まり、久々の運動に、今度は汗が頬を伝う。熱いからマフラーを取って、雪玉に乗せる。はい、あとは頭を作るだけ。

 私が二つ目の雪玉を作ろうとすると、公園に居た子供たちが走ってきて、私の作った巨大な雪玉を囲んで何やら喚きだした。

「すげー! すっげ! すげ!!」

 二つ目を作り始めた私を見て、ちびっこは突如話しかけてくる。曰く、向こうに自分たちの造った玉があるから、ここで待っていろと。

 待っていろと言われたので、一旦立ち止まることとする。子供たちは大声で笑いながら去っていった。

 私は雪玉に腰かけ、冷たい雪に尻を冷やしてもらうことにした。降り積もる雪を無意味に蹴り遊びながら、スマートフォンで「浮気された」「どうする」と検索する。特に当てになりそうなことはなかった。

 しかも、検索の段階で、ニュースサイトに掲載された私と旦那の名前を見てしまった。浮気発覚、とか書かれていて笑ってしまう。何故だか知らないが、涙ながらに会見をしている旦那が、「彼女が浮気をしていたなんて、酷くショックで……」と被害者面をしていた。

 私は人生で初めて、自発的に行動しようという気になった。いや、必ずや行かねばならぬ、と思った。メロスのように激怒していた。多分ね。

 雪玉を持ってきたちびっこと協力して、雪だるまを完成させる。それをSNSにあげて、ちびっこと雪塗れになってピースした写真もあげた。

 そして、

――私を育ててくれてありがとう、お母さん。

 などと、これまで一度も思ったこともないことを、目を閉じて思う。本当にありがとう、私のことを、優秀で頭が良くて気が利いて細かいところに気づく、手抜かりのないしっかりした女に育ててくれて。

 一通り祈りをささげた後、雪だるまのホンワカした写真の横に、旦那が浮気相手とセックスしている動画をあげた。撮っておいてよかった。本当に、よかった。

 それにしても、旦那は不運な人だ。あるいは、私が幸運なのだろうか?

「ねえ、ユミコちゃん? やられたら、倍返しでやり返せば良い……のよね?」

 私が念押しして尋ねると、ユミコちゃんは力強く頷きを返してくれた。

「うん、そーだよ!! 私のお姉ちゃんも、お母さんもゆってた!!」

 雪だるまを囲んで謎の踊りを踊っていた子供たちが、次々とそれに賛同する。ふうん、なるほど。

「ありがとうね、私ひとりじゃ、どうすればいいか分からなかったの。お礼にその雪だるま、あげるわ。マフラーも」

 カシミアのマフラーを雪だるまにまき直し、着信がうるさい携帯電話の電源を落とす。やるべきことがたくさんある。

 私は二度も同じ相手に負けるつもりはなかった。必ず、完膚なきまでに、今度こそ勝つ。もう伏せ札は旦那には残っていない。幸運の女神はもう微笑まないし、私の良心はさっき怒りで蒸発した。

 私のプライドを賭けて、彼の得たまぐれの勝利を塗り替えるほどの、圧倒的な敗北をこそ、手切れ金にしてあげないと。

 ああ、こんなに優秀な私を相手に、二度も人生を賭けた勝負をすることになるなんて。

 

 可哀相に。