剃刀と金木犀 鯵野開

 

金木犀のあざとい甘い匂いが好きではなかった。

隣家の金木犀が塀を越えて、寂れたアパートのトタンの階段をすり抜けて、舞い上がってくる。大家や他の住人は美しいね、甘くていい匂いだ、なんて言うが、同意できないまま会釈して部屋に入る。そのあとの私の部屋のドアに、煙たい視線が浴びせられるのにはじゅうぶん気付いている。雨が降ると、その匂いは土の香りに混じってさらに強くなる。雨戸を開ける季節ではないが、換気をするとしつこく侵入してくるようなその匂いに辟易している。受けた雨粒を滴らせて大人しくしているように見えて、匂いを高ぶらせる様子はどこかの女のように感じられる。

女の飼い主は誰か、私は知らない。

 

 

 

 

 

教授、髭は剃らないんですか。

「君が嫌なら剃ろうか。不潔だと思う女性もいるだろうし」

優しい。私はどっちでもいいです、教授なら。

もうこの季節になると5限が終わると日はとっぷり暮れている。雨粒が流れてゆく窓を通して暗くなった外を眺める。教授は講義で使った黒板を、丁寧に消している。黒板消しを掴むその手は長い指をもち、めくったら痛そうなささくれを爪の縁に携えている。節が太くて、触ると乾いていて硬いのだ。暗い空は日の終わりを感じさせて、人々はまた明日が始まると嘆くが、私はそうは思わない。

教授、今日はどこかふたりで行けませんか。

「明日は何もない。研究だけだからね、僕も羽を休めたい。どこに行こうか」

嬉しい。ふたつ西の駅に美味しそうなレストランを見つけたんです。私、そこに行きたいです。

「ふたつ西。結構遠出だね」

そんなの、もちろんわざとですよ。

 

 

 

曇りの、気持ちのよいとは言えない朝が来ていた。弾力のあるベッドは私の体をよく受け止めてくれていて、安眠へとやさしいゴンドラのように運んでくれたようだった。隣はもぬけの殻だったが、洗面所から水が流れる音がする。私はきちんと服を着て、彼を待つと、彼は髭を剃った状態で出てきた。いくぶんか若く見える。やっぱり、昔のハンサムさは健在なんだな、と思いつつそう思うのは私の盲目さがそうさせているのか、と照れ笑いをしてしまった。

「変かな」

「いえ、どちらも似合います」

「ありがとう」

でも、剃刀負けしちゃったな。と頬の下あたり、赤くなった部分をその私の好きな手で彼は撫でた。その部分を見ると、私の中の獰猛な面が出てきそうで苦しくなる。彼は純粋な人だ。純粋で、子どものような残酷さも仰せもつ。彼の左手薬指にある、その枷を引きちぎってしまいたい。彼に張り付くその花をむしってばらばらにしてやりたい。

 

彼を奪えないのは、たぶん私に足りないなにかが、その女にはあるのだ。

 

 

 

 

 

金木犀の甘い匂いがする。彼を思い出す。かんかんとトタンの階段を登る。下の住人のドアの音がする。金木犀の匂いが舞い上がる。ドアの鍵が閉まる。ドアの鍵が開く。ドアが開く。内鍵を閉める。

雨戸はしたまま、カラカラと窓を開ける。金木犀の匂いが立ち込めるが、どうでもよかった。