初恋の傷 月野明良

 

 

<あらすじ>小学五年生の夏、三崎和久は城井優花を最低な言葉で振った。そして互いに口を利かないまま二人は中学三年生の夏を迎える。優花が海外に引っ越すことになり、ずっと後悔していた和久は仲直りしようと立ち上がる。最初は会うことすら拒否していた優花だったが、誘われた花火大会の日、あっさりと和久を許してしまう。無邪気に振る舞う彼女の目的は…?

 

 

 七月の一番暑い日の帰り道。

「わたしね、かずくんのことが好き」

 ゆうかは今にもぶっ倒れそうなほど顔を赤くして言った。彼女はランドセルの持ち手をきつく握りつぶし、丸いおでこに汗を光らせていた。

「おまえ、大丈夫か?昨日テレビで熱中症になると変なこと話しだすって言ってたぞ」

「違うもん!」

「お、怒んなよ…」

 俺は蹴り進めていた小石を田んぼに落とし、立ち止まる。ゆうかがおかしくなったのは今に始まったことではなかった。クラスの女子から少女漫画を借りるようになってから、こいつは恋の話ばっかりするようになった。それから探検にこなくなり、秘密基地にも顔をださなくなった。つまらないやつになった。

「こないだは足のはやい鈴木がかっこいいって話してただろ」

「あれは、みんながそう言うから合わせてただけ」

「あっそ。どうでもいいけど、おまえの恋ごっこに俺を巻き込むなよ。メーワク」

「かずくん、ひどい」

 ゆうかをおいて、一人先に歩き出す。後ろから足音がついてきた。

「わたし、本当にかずくんのことが好きだよ。いじわるだけど、困ってたらいつも助けてくれるし。泣いちゃったときも、みんなには内緒にしてくれるもん」

 そう言った声は震えていた。泣きそうになっているのを我慢している声だった。

「しつこい。それはおまえがへなちょこで泣き虫だから、しょうがなくに決まってんじゃん」

 うんざりする。いつもこうだ。俺の好きなやつは誰だとか、あの子は誰が好きだとか、誰がもてるだとか、そんな話ばかりする。俺が聞いてなかろうが、お構いなしに延々と熱に浮かされたようにしゃべり続けるのだ。それに俺まで絡めようなんて、まっぴらだ。

「それでも、かずくんは優しいよ」

「うるさい」

「わたしを絶対おいていかないし」

「おまえが勝手についてきてるんだよ。さっきから何なんだよ!いい加減にしろよ!」

 振り返り、噛みつくように怒鳴りつける。ゆうかは一瞬驚いたかと思えば、今度はきっとした顔をして噛みつき返した。

「かずくんこそ、なんではっきり答えてくれないの?わたしは真剣に告白してるのに!」

「はあ?答えるって何をだよ」

「わたしのことどう思ってるかとか、付き合うとか、断るとか。なんでそんなこともわかんないの?」

 その言葉に、かっと頭に血が上った。〝なんでそんなこともわかんないの?〟ずっと恋の話ばかり聞かされてきたんだ。告白の返事がどんなものかなんて嫌でも知ってる。でも、どうしてそんなおとぎ話みたいなことをこいつに言わなければならないんだ。

「答えてよ。わたしのこと、どう思ってるの?」

 ゆうかの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。俺はこいつが泣くのが嫌いだ。頭の中までめちゃくちゃにひっかき回して、冷静ではなくなってしまう。そして、そのせいで余計にいらいらして、もっとひどいことを言って泣かせてしまうのだ。

 言ってはだめだと分かっていた。

 取り返しのつかないことになるって。ちゃんと分かっていた。

 なのに、その日も舌は勝手にしゃべってしまったのだ。

「きもちわるい。おまえの頭の中、恋愛しかないのかよ」

 

 

 

ぽこん、軽いものが頭を叩く。

「三崎、起きなさい」

頭上から、呆れたような声が降ってきた。慌てて起きると、これまた呆れ顔の教師が立っていた。手には筒状になった紙の束が握られていた。

「話は聞いとったか?」

「…すみません」

「夏休みの過ごし方についての連絡だ。まったく、高校受験は夏休みの過ごし方にかかってるんだぞ」

 ぶつぶつと文句を言いながら教師は教卓のほうへ戻っていく。

「進路希望の用紙、回収するぞ。後ろから送れー」

 一番後ろの席に座る俺は、最初に用紙を渡さなければならない。俺は自分の進路希望を前の席の彼女の顔の横に差し出す。しかし、何か書き物をする彼女はそれに気づかない。

「城井」

 だいぶ慣れてきた呼び方で呼んだ。驚いたのか、小さく肩がはねた。

「進路希望」

 振り向いた彼女は無言のまま用紙を受け取り、自分の分を重ねて前に送る。ちらりと見えた彼女の進路希望は白紙だった。

「よし、みんな出したな。これで一学期最後のホームルームを終わる。勉強も大事だが、体はもっと大事だ。体調に気を付けながら夏休みを過ごすように!」

 教師はそれだけ言うと、さっさと教室を出て行った。教室中から、夏休みを歓迎する声が湧きあがる。けれど、それとは対照的に城井は静かだった。どこか遠くを見つめているように見えた。

「あ、そうだ。みんな始めるよー」

 一人の女子がそう言うと、教室中の視線がその生徒に集まった。

「優花ちゃんのお別れ会!」

 城井は我に返って、ぱっとその女子のほうを向いた。一気にクラスの話題は夏休みから、城井のお別れ会に移る。普段は城井と話さないような奴が、親しげに彼女に接する。

「お別れ会なんて、そんな、別にいいのに」

「大事なことだよ!えっと、外国に引っ越しちゃうんだよね。どこだっけ、アメリカ?」

「カナダだよ」

「カナダかー。寂しくなるけど、ちょっと羨ましいかも。すごく自然の綺麗なところだよね」

 同級生に囲まれて、城井は戸惑っているような、でも嬉しいような顔をした。他の奴らは、机を寄せたり、菓子の準備をしたりとせわしなく動いている。その中の一人と目が合った。そいつは、つかつかと俺の方へと向かってきた。

「おい和久、ぼーっとしてないで手伝えよ」

 うん、と返事をしようとした。のに、のどの奥に引っ掛かってでてこなかった。嫌な汗が背をつたう。視界の端に入った城井の姿に、胸の奥がずしりと重くなった。

 城井とは、もうずっと口を利いていない。いや、利いて貰えない、の方が正しいだろう。最初は、あの告白に気まずくなった俺が彼女を避けた。それが逆転したのはいつからだろうか。城井は俺を避け、冷めた眼差しを俺に向けるようになった。話しかけて返事がきたことは、もう随分無い。

「どした?」

 怪訝そうに、そいつは俺の顔をのぞきこんだ。

「…悪い、俺、帰るわ」

「あ、おい」

 突き動かされるように、鞄を背負って早足で教室を抜け出す。誰も追ってこないことは分かっているのに、必死に逃げているような感覚がした。どくどくと、心臓の音がいやに全身に響いていた。

 学校を脱出し、少し歩いたところでようやく気分がましになる。湿り気を含んだ草の匂い、厚い雲に閉ざされた空、中学に入ってから変わった帰り道。歩いていくうちに、それらが心のざわつきを鎮めてくれた。今日は、あの日とは何もかもが違うのだ。あの何もかも焼き尽くしてしまいそうな殺人太陽は、どこかへ行ってしまったんだ。

「あれ、和久?」

 懐かしい声に、思わず立ち止まる。振り向くと、背の高い、若い男が驚いたような表情をしていた。手には重そうな買い物袋が下げられている。

「涼ちゃん」

 城井の兄だった。

「久しぶり。こんなところで何してんだ?今日は放課後にお別れ会がある、って優花が言ってたけど」

「…えっと、その、腹が痛くなっちゃって」

 苦しい言い訳。ひきつった笑顔で痛くもない腹をわざとらしく撫でてみせる。それを一瞥した涼ちゃんの目がすっと細められた、ような気がした。

「ふーん、そりゃ大変だ。うちで休んでいけよ。引っ越し準備で散らかってるけど、お茶ぐらいだすよ」

 その言葉に内心ぎょっとする。城井と気まずいから出てきてしまったのに、わざわざ彼女の家に行くなんてとんでもない!

「いや、悪いよ。忙しいんだろ?おばさんだっているのにお邪魔するのは…」

「母さん、今日は病院なんだ。遠慮するなよ。せっかく運命の再会を果たしたんだ、ゆっくり話そうじゃないか」

 な?と昔と変わらない強気の笑顔で涼ちゃんは返事を促す。こうなったら、涼ちゃんの中で俺が城井の家に行くのは決定事項だ。幼いころから、この彼の決定事項に抗って覆すことができた試しがない。一旦逆らっても、結局はそうなってしまうような魔力があった。

「わ、かった」

「それじゃ、行こう」

 指名手配犯が警察に連行されていくような気分で、前を歩く涼ちゃんについて城井の家に向かう。その途中、涼ちゃんはずっと下手な口笛を吹いていた。

 一軒の家の前で足を止める。記憶の中にある城井家の庭は鉢植えの花がいくつも置かれていたが、今は一つしかなかった。磨り硝子の引き戸の向こうは、うっすらと暗い。

 涼ちゃんが鍵を開け、俺を招きいれる。俺を居間に通すと、涼ちゃんは台所へと消えていった。座布団にあぐらをかき、部屋をぐるりと見渡す。引っ越し準備と言う割には、置かれている段ボールの数は少ない気がした。大きな家具はそのままで、小物も棚に飾られたままだ。

「お待たせ。アイスコーヒーでいいよな?」

 暖簾をくぐって、二つのグラスを乗せた盆を持った涼ちゃんが戻ってきた。牛乳が多めに入っているほうのグラスを、俺の前に置いた。

「ありがとう」

「部屋、見てたのか?」

 机の向かいに彼は座ると、そう問いかけた。

「うん。俺、引っ越しってしたことないから分かんないけど、荷物少ないんだな」

「俺はこの家に残るから。母さんと優花だけが、父さんの家に引っ越すんだ。二人の物だけを送るから、そんなに多くない」

「え、涼ちゃんは行かないの?」

「俺はもう大人だし、仕事もあるから」

 そう言うと、涼ちゃんはコーヒー飲んだ。つられて、俺もコーヒーを飲む。シロップと牛乳のせいで、コーヒー牛乳のようだった。

 改めて涼ちゃんを見る。以前よりも少しがっしりとした印象を受ける。雰囲気も落ち着いて、大人びている気がした。

「それで?どうしてお別れ会、抜けてきたんだ?」

 触れてほしくないところに、涼ちゃんは容赦なく突っ込んでくる。

「いやだから、腹が痛くて…」

「ごまかさなくていいよ。お前は嫌なことから逃げるとき、決まって腹痛のふりするよな。本当に痛いときは黙ってるくせに」

「…ばれてたかぁ」

「お前が分かりやすいだけだ」

 はは、と小さく彼は笑った。俺は笑えなかった。

 沈黙。彼は俺が話し出すのをじっと待っている。俺はどうごまかすかで頭がいっぱいになる。さすがに、城井の兄を相手に馬鹿正直には話せない。

「その、何年か前に喧嘩してから、城井とは口きいてなくて。それで、今日も気まずくてさ…」

 言葉につかえながら、ぽつりぽつりと説明する。涼ちゃんは、それを頷きながら聞いていた。

「まだ仲直りしてなかったのか」

 説明し終えると、もうずっと前から知っていたふうに涼ちゃんは言った。

「え…知ってたの?」

「なんとなく、だけど。いつか、優花がすげー泣いて帰ってきた日があってさ。あいつ、何でもかんでも俺に話してたくせに、その日何があったかだけは言わないんだ。泣きながら顔真っ赤にして怒ってたっけな」

 そう言って涼ちゃんは、どこか遠くを見るような目をした。

「それからかな、あいつの口からお前の名前が出てこなくなったのは。気になって、お前のこと聞いても受け流して答えないし。お前、よっぽど怒らしたんだな」

 涼ちゃんの言葉を聞いて、背中に氷水を浴びせられたような感覚がする。しかし、それと同時に妙に安心した。彼女はあのことを誰にも言わなかったのだ。

「ごめん…俺も何回か話そうとしたんだけど、避けられちゃって」

「謝るってことは、反省してるんだろ。それに歩み寄ろうとした。なのに、それを避けたのは優花だ。お前だけが悪いわけじゃないと思う」

「いいんだ。怒らせたのは俺なんだし、当然の反応」

 そう、当然の反応だ。小学生だったとはいえ、恐らく人生初であろう告白をあんなズタボロにされたのだ。避けられるどころか、軽蔑されても文句は言えない。

「でも、仲直りしたいだろ?」

 至極当然のように彼は言う。即座には返事が思い浮かばず、言葉に詰まる。

 正直、わからない。蓋をしたあの悪夢のような思い出をもう一度蒸し返すのは、果たして正しいのだろうか。そんなことをしなくても、城井は去ってしまう。彼女も、カナダで俺のことなんか忘れて幸せに暮らすだろう。それでいいじゃないか。その前に日本で過ごす残り少ない日々をわざわざ台無しにしてまで仲直りする意味なんてあるのか。俺の罪悪感は薄れるだろうが、彼女からしてみれば憎たらしい幼馴染に貴重な時間を奪われるだけでしかない。これは、俺のエゴだ。

「お前はさ、変なところで考えすぎだよ。離れ離れになる前に、仲直りする。いたってシンプルなことさ。喧嘩別れは古今東西、悲劇だ。心配するなって、優花はちゃんと謝ったら許してくれる子だよ」

 見透かしたように、あっけらかんと彼は言い放つ。彼は机の向こうから腕を伸ばすと、厚みのある手で俺の頭を軽く叩いた。ひどく情けない気分になった。

「そうだ、今度ある花火大会にでも誘ってみたらどうだ?一緒に夜店まわって、うまいもの食べて、綺麗な花火見たらきっと昔のことなんて許してくれるさ」

 そんな俺の様子もお構いなしに、名案が思いついたとばかりに彼はどこか楽しそうに笑う。城井と花火大会に行くなんて、俺には想像もつかない。

 少し、油断が生じたときだった。突然、玄関のほうからガラガラと戸を開ける音がした。その音に心臓が大きく跳ね上がる。とんとんとん、と軽い足音がこちらに迫ってきた。

 大丈夫だ。あれは病院から帰ったおばさんだ。お別れ会がこんなに早く終わるわけがない。そう自分に言い聞かせながら、必死に願う。

「お兄ちゃん、誰かお客さん来てるの?」

 しかし、居間を覗いた城井と目があった瞬間、その願いは見事に砕けちった。数年ぶりに合った彼女の目は、未確認生命体に遭遇でもしたかのように大きく見開かれていた。あ、と小さく声を上げて、彼女は後ずさりする。

「おかえり、早かったな」

 涼ちゃんがのんきにそう出迎えた。しかし、城井は返事もせず弾かれたように逃げ出す。

「城井!」

 不意にどうしても彼女を引き止めたくなって、反射的に彼女の名前を呼んだ。追いかけようとしたが、廊下には既に姿はなかった。だだだだと階段を上る音がした後、二階からばたんと少し乱暴に扉が閉まる音がした。

「…悪い、優花にはあとで叱っておくから。いくら気まずくても、あんな態度は良くないよな」

 涼ちゃんが申し訳なさそうに謝る。けど、俺は廊下の先を見つめて別のことを考えていた。

 一瞬きちんと俺の方を見た城井の顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。余計な考えは全部吹き飛んで、ただもう一度ちゃんと彼女の顔が見たいと思った。無性に、彼女と言葉を交わしたかった。謝りたくて、胸が苦しくてしょうがなかった。

「俺、ちゃんと城井と話してみる。ありがとう、涼ちゃん」

 それだけ言って、涼ちゃんを置いて二階へと向かう。記憶の中と変わらない、薄暗い二階を迷いなく進む。そして、突き当りの城井の部屋の前で立ち止まる。小さく二回ノックをした。返事はなかった。

「城井。俺、和久だけど」

 心臓が飛び出しそうになりながら、かすかに物音のする扉の向こうへと話しかける。わずかの間の後、扉一枚を挟んで彼女の気配がすぐそこにした。

「…何しに来たの」

 扉は閉じられたまま、冷めきった声がする。

「謝りに来たんだ。俺が昔、お前を傷つけたこと」

 緊張で、声が震える。腕も小さく震えて、すごく格好悪い。

 俺は、城井を俺のエゴに巻き込もうとしている。それでも、謝罪できないまま見送ることになるのは嫌だと思った。女の子を傷つけて、謝ることもできないなんて最低だ。ついさっきまで何もないまま別れてしまえばいい、だなんて考えた自分の意気地なさに情けなくなる。

「あの時は…ごめん。俺、恋愛とか全然わかってなくて、すげぇガキだった。城井がどんどん大人びていって、俺の知らない奴みたいになるのが怖かった。…だからって、あんな最低なこと言っていい理由にはならないけどさ。本当に、悪かったよ」

 向こうで、ひゅ、と小さく息を呑む音がした。城井は、今、どんな顔をしているだろうか。怒って顔をしかめているのだろうか。それとも、不愉快そうに眉をくもらせているだろうか。

「なんで、そんな今さら」

「…本当は、そのまま見送るつもりだった。それが、一番穏やかな別れだと思ったから。でも、さっき城井と目があって、そんな別れは絶対に嫌だって強く思った」

 そっと、ドアノブに触れる。それを回す勇気はない。

「城井、開けてくれないか。ちゃんと顔を見て謝りたいんだ」

「…できないよ。私、三崎くんのことは全部忘れるって決めてたのに。無かったことにするつもりなのに。開けたら、私、何するか分かんないよ」

「俺は、殴られても、罵られても構わない。でも、城井と何も無かったことになるのは嫌だ」

「放っておいてよ!…無理だよ、私、すぐに許せるほどお人好じゃない。お願いだから、今日はもう帰って」

 悲痛な声で叫んだ後、弱々しくそう言った。ドアノブにかけた手を虚しく外す。

 彼女は明らかに、俺を拒絶した。なのに、諦められなかった。許されなくても構わないと思った。ただただ彼女と話がしたかった。我儘は膨らみ続けて、終わりが見えない。往生際悪く、俺は彼女の言葉につけ込む。

「今日は、ってことは、別の日ならいいんだよな?」

「え?」

「花火、見に行かないか」

「…花火?」

 借り物の提案。何年も話をしていない俺たちにとっては奇妙な提案かもしれない。それでも、それに縋らなければ彼女との接点を保てそうになかった。

「明後日の夜、なぎさ公園の時計の前で待ってる。…俺、待ってるから」

 それだけ言って、彼女の返事も聞かずに俺は城井の家を後にした。

 

 

 

 日が暮れる。空の紫色が濃くなるにつれて、通りを歩く人の数が増えていく。公園へと向かう道中には、人混みの中に見知った顔もあった。けれど、彼女の姿は見つけられなかった。

 時計を見上げる。かなり時間が経ったと思ったのに、長針はわずかしか進んでいない。それが嫌になって、視線を足下に落とす。さっきからこの繰り返しだ。そして、思考もぐるぐると同じことを繰り返す。

 彼女は来ないかもしれないという不安で押しつぶされそうになる。俺が一方的に押し付けた約束だ、仕方のないことだ。そんな自分を納得させる言葉がループ再生のように頭の中でリフレインする。

「…来てくれよ、城井」

 所在なく軽く地面を蹴る。焦りばかりが募っていった。

「三崎くん」

 名前を呼ばれ、勢いよく顔をあげる。こちらに駆け寄ってくる彼女の姿が見えた。思わず、俺も駆け寄った。

「城井、来てくれたのか」

「…うん。逃げてちゃだめだ、って思って」

 そう言って城井は、困ったように笑った。その笑顔に、一瞬胸が高鳴る。あの頃に比べて伸びた髪を後ろでまとめ上げ、黒地に水芭蕉の描かれた浴衣を身にまとった彼女は随分と大人びて見えた。

「あの時は、本当にごめん。何度謝ったって足りないって、自分でも最低だって分かってる。でも、どうしてもあのまま別れるのは嫌だった。…本当に、身勝手でごめん」

 深々と頭を下げる。どんなに責められようとも、受け止める覚悟はできていた。

 なのに、現実は違った。

 突然、とすっと頭に軽い衝撃が走る。驚いて、少し顔を上げる。

「もういいよ、これでおあいこ。あれから避けて長引かせたのは私だし、大人気なかったよね」

「…へ?」

 あまりにもあっけない幕引きに、素っ頓狂な声が出る。本当に、これで終わりなのか?こんなに簡単に終わってしまうことだったのか?

「ほ、本当にいいのか?」

「いいの。最後くらい、昔みたいに戻って遊ぼうよ。ほら、もうお祭り始まってるよ。行こう」

 城井は俺の腕をとり、祭りの会場へと引っ張っていく。予想と現実の差に、これは夢なのではないかと疑いたくなる。でも、かろうじて彼女の〝最後〟という言葉に現実だと思い知らされた。

 祭り会場には、いくつもの煌びやかな夜店が軒を連ね、辺りからは夏の熱気と共に香ばしい匂いが漂っていた。家族や友人と楽しそうに話す声がひしめき合っている。

 彼女は、いくつもの店の前で足をとめ、その度にどちらかが料理を買って分け合った。どれもから揚げやポテトといった細々としたものだ。おいしいね、と笑いかけてくれる彼女はなんだか現実感がなかった。

「あ、綿飴。今度はあれ食べない?」

 カラフルな電飾が目を引く夜店の一つを、彼女は指さした。綿飴をつくる機械の横には、いくつもの袋入り綿飴がつりさげられている。

「ん、ああ。俺、買ってくるよ」

 彼女から離れ、店に向かい淡いピンク色をした綿飴を受け取る。飴が人にぶつからないように気を付けながら元の場所に戻ると、彼女はいなかった。人混みに流されたのかと慌てて見回すも、姿が見えない。

「城井?どこだ!」

 探しに行こうと場を離れようとしたとき、誰かに肩に手を掛けられる。驚き振り返ると、頬を指がつついた。

「あはは、引っ掛かった」

 悪戯っぽく城井が笑い、その声に思わず力が抜ける。

「おどかすなよ…心配しただろ」

「ふふ、ごめんごめん。綿飴、ありがとね」

 彼女は俺から飴を受け取ると、嬉しそうに頬張った。俺も一口飴をかじる。ふわふわとした外見とは裏腹にべとりとまとわりつくような甘さがした。

「なんだか、懐かしいね」

「…そうだな。昔は、涼ちゃんや友達と一緒に来てたよな。その悪戯も小学生のときに流行ったし」

「そうそう、私もよく三崎くんにやられた。あの頃は、みんなで金魚すくいしたり、射的したよね」

「城井は全部下手だったよな。それでいつも涼ちゃんの取ったやつ貰ってた」

「あ、ひどい。じゃあ、勝負しない?あそこのヨーヨー釣りでたくさん取ったほうがかき氷おごりね」

  早くも食べ終わった城井は一つの夜店を指さすと、また俺の腕を引っ張って行く。店員から紙縒りを受け取ると、俺にも手渡す。水風船が涼しげに浮かぶたらいの前にしゃがむと、隣に城井がしゃがんだ。肩をぶつけてしまいそうな距離に、少し体がこわばる。

 触れそうで触れない近さ。夏の暑さとは違う、柔らかな体温がそこにあった。それに自分だけが緊張している気がして、そんなことはないと思いたくて、彼女の顔をそっと見る。

  ちらと見た彼女の横顔は、想像とは違っていた。伏し目がちにぼんやりと流れる水風船を見つめ、唇はきつく結んでいた。俺は急に不安になって、彼女を呼ぶ。

「城井?」

「ん、なに?」

 すぐに先ほどと変わらない笑みを浮かべ、彼女は上目遣いで俺を見つめた。暗い瞳に自分が映り込み、目をそらす。さっきの表情が胸の奥に引っ掛かった。何か、見落としている気がした。

「…いや、なんでもない」

「変なの」

 彼女はそう言うと、紙縒りを水面に垂らす。俺も青色の水風船に狙いを定める。和紙が水に触れないように、針金をそっとゴムに引っ掛けて釣り上げる。昔からこの手のゲームは得意だ。

「あっ。切れちゃった」

 ぽちゃん、とピンク色の水風船が落ち、水しぶきが飛ぶ。彼女の手には千切れた紙縒りが残っていた。

「やっぱり、下手だな」

「まだもう一本残ってるよ。これからこれから」

 新しい紙縒りを再び水面に垂らし、同じ水風船を狙う。しかし、針金をゴムに引っ掛けるのが下手なせいで、また和紙が濡れてしまう。彼女はそれに気づかず、紙縒りは水風船を釣り上げる前に千切れた。

「あーあ、やっぱり難しいな。三崎くんには敵わないね」

 悔しそうに彼女はむくれて、恨めしそうに水風船を見つめた。俺はそんな彼女がいじらしく思えて、慣れた手つきでその水風船を釣り上げる。

「ほら、やるよ。これだろ?」

「…ずるいなぁ、三崎くんは」

「ずるはしてないだろ」

「ふふ、そういう意味じゃないんだけどな。かっこいいね、てこと」

 臆面もなくそう言うと、彼女は口元を緩めた。俺は気恥ずかしくなって、立ち上がる。なぜか、そんな彼女を見てられなかった。

「かき氷、買ってくる!」

「え、私が負けたのに」

「いいんだよ、今日は俺が誘ったんだから。イチゴ味でよかったよな?」

「う、うん」

 走ってかき氷屋まで行き、イチゴ味とレモン味を買う。戻ると、水風船で遊んでいた彼女は嬉しそうに礼を言って受け取った。その様子にほっとすると一方で、不気味な感覚に襲われる。この状況は正しくない、と繰り返し否定されるような、奇妙な感覚だった。頭の中にずっと原因がわからないエラーが発生していた。

 そんなことはない、と思考を振り払おうとする。目を通りに向けると、人の流れが変わっていた。時計を確認すると、もうすぐ花火が始まる時間になっていた。

「そろそろ花火が始まるみたいだ」

「じゃあ、かき氷食べながら見よっか。行こ」

 そう言うと、彼女は人の流れとは反対方向へと進んでいく。

「おい、どこに行くんだよ?」

「こっち、いい場所知ってるの」

 するりするりと人を避けながら行ってしまう彼女を見逃してしまわないように、必死に追いかける。進むにつれて人は減っていき、祭りの喧騒からも遠ざかっていく。たどり着いた先は、会場からは離れた静かな湖岸公園だった。

「ほら、ここ」

 彼女がベンチに座ると、隣に座るように促される。古い木製のベンチは座るとぎぃと小さく鳴いた。溶けかかったかき氷を食べようとしたとき、最初の花火がどんと打ち上がる。きらきらと紫色の炎が舞い落ちた。

「わ、綺麗」

 彼女は最初に一言そうつぶやくと、後は静かに打ちあがる花火を見つめた。俺は何となく話しかけづらくて、同じくじっと花火を見つめていた。花火の打ちあがる数は増していき、夜空は目がちかちかするほどの鮮やかな色を放っていく。小さな花火がいくつも打ち上げられ、ぱちぱちとラムネのような丸い光の粒が浮かぶ。一際大きな柳型の花火が打ち上がると、惜しげもなく金色の雨を降らせる。しかし、その眩しさは徐々に白い煙に包まれてしまった。今夜は風が吹いていなかった。

「…さびしくなるね」

 花火の音に霞んでしまいそうな小さな声で彼女はそう言うと、俺の指先を、壊れ物を扱うように触れた。氷に触れていた、冷たい手だった。また脳内にエラーが起こる。

「私、今日のこと忘れないよ。久々に三崎くんと昔みたいに遊べて、すごく楽しかった。きちんと三崎くんと仲直りできて、本当によかった」

「…そうだな」

 仲直り、という言葉に頭の中の警報が一層強く反応する。そして、ようやく分かった。俺が欲しかったのは、彼女の本心からの言葉だった。こんな、嫌な思い出や感情に蓋をして、形だけの仲直りで塗り固めた空っぽの時間ではなかった。考えれば分かるはずだった。重苦しくのしかかっていた空白の時間が、こんなにも呆気なく取り戻せるはずがない。俺たちはそれができるほど、もう子供ではないのに。

「城井」

 焦燥にかられ、彼女の名前を呼ぶ。花火の音にかき消されないように、聞き逃されないように、強く呼ぶ。

「なに?」

 俺の気も知らないで、彼女は甘えた声で返事をする。涼しそうに笑う彼女に、ますます何を考えているのか分からなくなった。

「俺さ、まだちゃんとお前の…」

 言いかけたとき、頬に冷たい水が流れた。

「え、雨?」

 驚いて彼女が空を見上げる。雨はぽつぽつと降り出した。しかしそれは、あっという間に勢いを増していった。

「わ、どうしよう。降ってきちゃった」

「こっちだ」

 彼女の手を引いて、ベンチから一番近い木の下へと逃げ込む。髪が濡れて皮膚に張り付く。水が染み込んだ服が体にまとわりついた。水滴を払おうと頭を振ると、花火を打ち上げる音がさっきよりも大きく聞こえた。花火は上がり続けていた。

「すごい雨だね」

「城井は大丈夫か?寒くないか?」

「私は平気、中に着込んでるから。それよりも、三崎くんこそ大丈夫?頭にいっぱい水ついてるよ」

 そう言って、城井はハンカチを手に持って俺の顔を拭こうとする。

 脳内の警報が、その腕を掴ませた。予想外の反応に、彼女の腕はびくりと反応する。

「な、何?風邪引ちゃうよ」

「もうやめろよ、こんなこと」

 ハンカチを強く握りしめ、彼女は目を大きく見開いた。揺らぐ黒い瞳の奥に、花火が反射する。手を放すと、彼女は取り繕うようにぎこちなく笑った。

「こんなことって何?私はただ、雨を拭こうと思って…」

 俺の知っている彼女は頑固で、意地っ張りで、何でも最後まで貫き通す奴だ。ただ言うだけでは、絶対に本心を口にしないことは分かっている。

 だから、俺は彼女を怒らせることにした。

「ぶりっこ。お前、そういうの似合わないからやめろって言ってんだよ」

「え?」

 できるだけ、冷たく突き放す。想定外のことに、彼女はとっさに動きを止める。しかし、すぐに我に返るとあからさまに悲しそうに眉を落とす。

「ひどいよ、私は三崎くんのことを心配して…」

「これだけじゃないだろ。上目遣いしたり、俺のこと変に持ち上げたり、今日のお前変だ。昔一緒に遊んでた頃にだって、そんなことしなかっただろ。あんなひどい振り方した奴に媚び売るような真似して、恥ずかしくないのかよ」

 自分でも言っておきながら、じくじくと胸が痛む。今日、祭りに誘ったのは俺の方からなのだから。彼女にしてみれば、急に呼び出された挙句にこんな仕打ちを受けるのだ。こんなひどいことは無いだろう。

「…いい加減にしてよ」

 先ほどの彼女の様子からは想像もできない、低い、地を這うような怒りのこもった声がした。

 次の瞬間、ぱん、と高く乾いた音がした。それと同時に左の頬に強い衝撃を受ける。視界がぐわんと大きく揺れる。脳がくらつく。軽く意識が飛びかけると、胸倉を掴まれた。

「なに?一瞬でも私に好かれてると思った?あんなの、わざとに決まってるじゃん。勘違いしないでくれる?」

 彼女は噛みつくようにまくし立てる。鋭く俺を睨みつけて、目を逸らさない。瞳に映る花火が、涙に歪む。

「告白しなさいよ、私に」

 息を震えさせる。俺の襟元を掴む力が強くなる。

「振ってあげるから」

 かすかに揺れる唇を無理やり釣り上げ、必死に不敵な笑みを作り上げる。

 胸が苦しくなり、絞め続ける彼女の手を掴む。それを即座に彼女は振り払い、いっそう強く俺を睨む。耐えきれず、俺は目を逸らす。

「私は、もう昔みたいながさつな子供じゃない。髪を伸ばして、スカートはいて、爪を磨いて、女らしい振る舞いも言葉遣いもできるようになった。いつまでもうじうじと後悔してるあんたなんかとは違う」

 行方を失った手を、彼女はきつく握りしめる。ざあざあと振り続ける雨の音だけが世界を支配する。花火は、いつの間にか終わっていた。

「…そうだな。お前は変わったよ。俺はずっと、お前に謝りたくて苦しかった」

「私はずっと惨めだった。あんたは知らないでしょ、私がどれだけ勇気を振りしぼっていたかなんて」

 溢れてしまわないように見開かれていた目から、涙が一つ流れ落ちる。彼女はそれを見られたくないのか、すぐに拭ってしまう。怒ると泣いてしまう癖は、昔と変わらなかった。

「あんたの人の気持ちも考えないところが嫌い。身勝手で、押し付けがましいところはもっと嫌い。こんな最後になって、謝ってくる卑怯なところが一番嫌いっ」

 一つ一つの言葉が、鋭い氷のように胸に刺さる。あらん限りの力を注ぎこむように、声に怒りを乗せていた。どうしても傷つけたくて、痛みを与えたくて、必死に言葉を探しているようだった。何一つ、否定できなかった。

「…ごめん」

「あんたも味わえばいいんだっ。一番大事にしていた宝物もみたいな気持ちが、ぼろぼろにされて捨てられる気分を」

 は、と彼女は一つ息を吐く。怒りに震えていた彼女の体が、すっと静まる。何もかも言い尽くしてしまったと、彼女はしばらく茫然とした。

「…まあ、失敗しちゃったけどさ。もっと簡単にあんたを騙せると思ってた。ほんと、馬鹿みたい」

 力なく、彼女は自嘲的に笑う。 爪がくい込むほど強く握られたこぶしが、ゆっくりとほどける。

「気づいたのは、ずっと後になってからだった。正直、城井の態度、言葉にはどきどきした。緊張しっぱなしで、どうにかなりそうだった」

「何それ、慰めてるつもり?」

「でも、城井には悪いけど、俺はあんなの好きじゃないよ。どれだけお前が大人ぶったって、格好つけたって、そんなのお前じゃない」

「…はは、何様?」

 強気な口調。彼女は俺の胸に頭を預け、俯く。雨とは違う暖かさが、布越しに伝わる。小さくしゃくり上げる声がした。

「帰ろう。きっとおばさんも、涼ちゃんも心配してる」

 そっと彼女は俺から離れる。俺は傘の代わりに、腰に巻いていた上着を彼女に被せる。一瞬、嫌そうに顔をしかめた。

「無いよりはましだろ、傘ないんだから我慢してくれ」

「本当、むかつく。風邪引いちゃえ」

「俺、馬鹿だから風邪引かないんだ」

「あっそ」

 さあさあと尚も降り続ける雨の中、俺達は木の下から抜け出す。帰り道、ずっと互いに黙りこんでいた。言いたいことは全部言ってしまって、何もかも空っぽになってしまった。上着から覗いた彼女の横顔は、吹っ切れてすっきりとしていた。 

 どこまでも続いていそうだった帰り道は、何事もなく彼女の家の前で終わる。扉の磨り硝子の向こうには、柔らかな明かりが灯っていた。門の前で、俺と彼女は向かい合う。

「…じゃあな」

「…じゃあね。もう、会わない。」

そう言った彼女は、もう泣き止んでいた。

 

 

カーテンの隙間から朝日が差し込む。じわりと汗ばむような室温に、目が覚める。だるい身体を起こし、ぼんやりとする意識が覚醒していくのを待つ。部屋の隅の時計を見て、少し寝坊したことを知った。寝ぼけながら寝間着を脱ぎ捨て、着慣れたTシャツとジーンズに着替える。

 彼女と別れてから、二回目の朝だった。

「和久、いつまで寝てるの!さっさと起きなさい!」

 一階から、母さんの俺を叱りつける声がする。適当に返事をして、居間へと降りる。母さんは洗濯をして、父さんは新聞を読んでいた。コーヒーメーカーがぼこぼこと音をたてながら、焦げたような香ばしい匂いを漂わせる。

 居間の大きな窓の外は、綺麗に晴れ渡っていた。道に残る昨日の雨の水溜まりが空を映す。

 そんないつも通りの朝に、一つだけ違う物があった。

「母さん、これ何?」

 食卓の上に、青い花柄の紙袋が置かれていた。

「ああ、それ?あんたのよ」

 袋の中を覗くと、綺麗にたたまれた上着と一通の手紙がおさめられていた。宛先も差出人も書かれていない白色の封筒。便箋を広げると、「ごめんね」と丸みを帯びた小さな字が綴られていた。昔からちっとも変わらない、彼女の字だった。

 かっと、全身が熱くなるのを感じた。もう、完全に嫌われたと思って、彼女のことは諦めていた。なのに、彼女とのつながりが目の前に突然現れた。

 彼女との思い出が止めどなく溢れる。あの夜の記憶が走馬燈のように駆け巡った。字を指でなぞると、彼女の指先に触れたような気がした。冷たいはずの紙に、熱を感じた。

 弾かれるように、家を飛び出した。両親の驚く声に返事もやらず、跳ねる水たまりに構わず、風よりも早く走った。彼女に会いたい。頭にはそれしかなかった。全身がそう叫んでいた。

 いつもの坂道、いつもの曲がり角を全速力で駆け抜ける。彼女の家にたどり着く数メートル手前で、一人歩く彼女の姿を見つけた。

「城井!」

 息を切らしながら叫び、しっかりと彼女の手首を掴んだ。彼女は驚いて歩みを止める。はっと振り向いた彼女は目が合った瞬間、泣きそうな顔をした。

「なんで…」

 会わないって言ったのに。その言葉を彼女は呑み込む。酸欠で頭がうまく回らない。だから、どうせ嫌われているのなら、もうどうなっていいと思ってしまった。

「…俺の最後の身勝手。許して」

 そう言って、俺はその腕を強引に引き寄せた。優花をぎこちなく、抱き止める。彼女の泣きそうな顔を見て、抱きしめずにはいられなかった。それが正しいことなのか、間違ったことかなんて、酸欠で真っ白になった頭に分かるはずがなかった。

 こわばる彼女の体が、腕の中でだんだんとほぐれていくのが分かった。柔らかな、ほっそりとした体だった。髪から漂う花の香りに目まいがした。

「…好きじゃないんじゃなかったの」

 大人しく抱きしめられたまま、優花が拗ねたように訊く。

「好きだ。意地っ張りで、負けず嫌いで、泣き虫なお前が」

 優花はその答えに、不満そうに少しむくれた。

「…むかつく。それじゃあ、私の努力はなんだったのよ」

 力も込めずに優花は俺を叩く。それすら、なんだか愛しく思えた。

「復讐、成功したじゃん」

「え?」

 ぱっと、優花が顔を上げる。わけがわからない、といった表情だ。

「お前が振るまでもなく、俺は苦しみ続けるよ。今日だろ、引っ越すの」

 優花は外国に行く。俺だけが取り残される。この恋は、これからの優花のいない日常を地獄に変える。

「…ふふ、やった」

「ほんと、やられた」

 悪戯が成功した子供のように、無邪気に笑う。つられて俺も笑った。

 これはきっと罰だ。俺はこの恋を死ぬまで忘れられない。大人になって違う誰かと結ばれたとしても、絶対に優花よりも好きになることはない。

 それを頭の中の大人ぶった自分が嘲笑う。そんな綺麗ごとは、子供の考えることだ。誰か一人を一生想い続けるなんて理想は、ただの幻想だ。そう奴は言う。

 ああそうさ、たかが中学生の想像だ。それでも、初恋ってそういうものだろう?

「そうだ、もう一つ仕返ししてあげる」

 優花は急に俺の襟元を掴んで引き寄せると、左の頬に軽くキスをした。俺は驚いて頬を手で押さえ、目を白黒させる。きっと、俺は格好悪く耳まで真っ赤にしていることだろう。

「ほっぺ、叩いてごめんね」

 そう言って、優花は目を細めて微笑んだ。俺は、昔からこの笑顔に勝てた試しがなかった。

 

 

 それから名残り惜しくも優花を離すと、帰りが遅いことを心配したおばさんが様子を見に来た。見られなくてよかったと、少しひやひやした。涼ちゃんにも会うと、何かを察したのか出発するまでの間、俺と優花に話す時間をくれた。少し、いや、かなり気恥ずかしかった。

 わずかな時間に、引っ越し先のこと、将来のことを話した。優花は将来、通訳士になりたいと言った。そのためにカナダで沢山勉強するのだ、と目を輝かせていた。頭の良い彼女なら、なれると思った。

 俺は建築士になりたいから建築科のある高専に行くと伝えた。彼女は応援すると言ってくれた。

「優花、そろそろ出発する時間よ」

 おばさんが呼びに来ると、外からエンジンの音が聞こえた。おばさんが戻って行くと、俺たちも外に出た。涼ちゃんの大きな車が、ドアを開けて待っていた。

「…もう、行くね」

 優花は寂しげにそう言うと、そっと手を握った。絶対に離したくないと思った。

「元気で。夢、叶うといいな」

 一度強く握って、手を離す。優花は泣いた。俺も目頭が熱くなるのを感じた。

「和くんも元気でね。建築の勉強、頑張ってね」

 優花が車に乗り込む。窓越しに、目が合った。まだ一緒にいたいと、訴えていた。一度、優花が涼ちゃんのいる運転席を見た。一言交わすと、ゆっくりと車が動き出す。

 徐々に車が遠ざかっていく。優花はずっと窓から手を振ってくれた。俺もずっと振り返した。曲がり角が彼女を隠してしまった後でも、しばらく振る手が止まらかった。

 堪え切れなくなった涙が、両頬を伝って落ちる。目が溶けてしまいそうだ。

 誰もいない町の中で、庭の隅に控えめに咲く青い朝顔だけが俺を見ていた。

 彼女のいない夏は、まだ始まったばかりだった。