再び約束を交わすとき ハリイサクラ

 

[あらすじ]

 

とある町の動物病院がある一枚のチラシを作った。そのチラシは病院の入り口のドアに貼られただけでなく、近くに住む住民の読む新聞の折り込みチラシの中に入れられた。そこには「子ネコの里親募集」という文字が書かれていた。このチラシをきっかけに二つの家族の進む道に変化が訪れる。



 

「行ってきまーす」

 私は玄関に置いてある姿見で制服のリボンの位置を直して、急いでローファーを履き、奥のリビングの方に向かって叫んだ。

「忘れ物はない?ちゃんと確認した?」

 奥の台所からタオルで手を拭きながら母がそう言いながらこちらにやってきた。

「大丈夫、今日はちゃんと確認したから」

 ふふん、と少し胸を張って答えた。

「それなら良し。今日は雨が降るみたいだから、傘をちゃんと持っていきなさいね」

「ラジャー、あ、電車に乗り遅れる!てことで行ってきます!」

 そう言って慌てて玄関のドアを開けて、外に飛び出る。

 するとすぐに後ろから母の声が追いかける。

「傘忘れてるわよ!」

 私はビクリと体を震わせ後ろを振り向く。母が玄関から少し身を乗り出し、こちらに向かって折り畳み傘を投げる。

「気をつけていってらっしゃい」

 私は傘を片手でしっかりと捉え、母の言葉を全身で受け止め、何も持っていない方の手で母に「行ってきます」のサインを送った。そして下へ降りるための階段へと向かった。

 

 私が住むのは駅から徒歩5分のところにあるマンションだ。最上階が五階で、私たち家族が住むのは三階なので、急いでいるときは階段を使って降りたほうが早い。それに、高校では硬式テニス部に入っているので足腰を鍛えるトレーニングと思えば苦でもない。

 一分もかからずマンションの入口にたどり着き、回れ右してマンション前の道に出る。この道を少し進めば駅前へと続く大きめの道に出るので、迷うことはない。

 私は教科書やノートがたくさん入ったリュックサックを背負い、肩にかけてあるラケットケースを折り畳み傘を持った方の手で軽く押さえながら懸命に走る。電車に乗り遅れても、次に来る電車に乗れば学校には遅刻することなく着くのだが、いつも乗っている電車には部活の友達が乗っているので乗り遅れるわけにはいかないのだ。眼の前に十字路が見えてきた。そこを左に曲がって少し行けば駅に着く。左手につけた腕時計をちらりと横目で見る。

 よし、これなら間に合う、そう思ったときだった。

 私はふと足を止めた、いや、止めてしまった。私の視線の先にあったのは動物病院の入り口に貼られていた一枚の紙だった。

 十字路の少し手前には動物病院があって、イヌやネコといったペットを中心に診察している。ここの地域ではとても評判が高く、今もなお多くの飼い主たち御用達の動物病院なのだ。

 私はその貼り紙を詳しく見てみた。確かこの貼り紙は昨日の学校からの帰り道にはなかったから昨日の夜に貼り出されたことになる。

 その貼り紙には大きな文字で「ネコの里親募集中」と書いてあり、下には子ネコたちの写真が一匹ずつ載っていた。

「あ・・・」

 私は一枚の写真に釘付けになった。似ている。まるで生まれ変わりのように。

 ふと私は我に返った。時間を確かめる。

 いけない、電車が行ってしまった。

 私はスマートフォンを取り出し、友達に「ごめん、乗り遅れたから先に行ってて」と素早く入力してメールを送信した。そして、スマートフォンの壁紙をじっと見た。

「もうすぐ半年か」

 私はそっとつぶやく。

 目頭が次第に熱くなるのを感じ、それをかき消すように駅へと走っていった。

 

 いつもより一本遅い電車に乗って時間が押してしまった。もちろん部活の朝練には参加できなかったので直接教室に行った。

「おはよー。今日は朝練なかったの?」

 教室に入ると同じクラスの友達に声をかけられた。

「おはよう。今日はちょっといろいろあって電車に乗り遅れちゃって」

「珍しいね。昨日夜更かしでもした?」

 友達がにやにやしながら聞いてくるので、私は少し頬を膨らませ反論する。

「違うよ、ちょっと気になる貼り紙を見つけてさ、それを見てたら遅れちゃって」

「貼り紙?」

 友達が首を傾げる。

「うん、前よく行ってた動物病院にネコの里親募集のお知らせ、っていうのが貼ってあったんだよ」

「ふうん、里親かあ。よくテレビで取り上げられているよね」

 確かに、最近見た動物番組は様々な動物の里親を募集する現場に密着するドキュメンタリー特集だった。

「ネコ、好きなの?」

 友達の質問に私は少し胸を傷ませながら答える。

「うん、おばあちゃんがネコを飼ってて、おばあちゃんちに行ったときはよく触らせてもらってたんだ」

 間違ったことは言ってない。しかし、肝心な情報は言葉にできなかった。

「そうなんだ。私もネコ好きだよ」

 友達がうんうん、と頷きながら答える。

「イヌを飼っているのにネコ派とは、さてはお主裏切ったな?」

 私は冗談交じりに友達にツッコミを入れた。

「う、バレたか、そりゃネコも好きだしもちろんイヌも大好き!とは言ってもやっぱりうちの子が一番だけどね」

 友達が胸を張りながら答える。うちの子が一番。私もそうだ。あの頃だって、そして今だって。

 その時、始業を知らせるチャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。また後でね、と友達に言って私は自分の席についた。

 

 今日一日はずっとどこか上の空だった。気づけばあの貼り紙のことを考えてしまう。似ている。あの子にとても似ている。そう考えれば考えるほど心の中がなんだかもやもやしてくる。

 家を出るときに母が言っていたとおり、午後から雨が降り出した。

 授業が全部終わり、部活に行こうと教室を出たところで隣のクラスの部活の仲間と遭遇した。

「あ、ナイスタイミング。今日の部活、雨だし先生が出張でいないから今日は急遽オフになったってさ」

「オフ?いきなりだね」

 私は部活の友達から聞いた情報にがっくりと肩を落とした。

「朝練のときには決まっていたんだけど、今日来てなかったでしょ?だから連絡するのが遅くなっちゃった。ごめんね」

 友達が申し訳なさそうに頭を下げる。

「ううん、気にしないで。私も今日は電車に乗り遅れちゃって朝練行けなかったのが悪いし。私のほうがごめんねだよ」

 私が慌ててそう答えると友達は笑いだした。

「誰しも失敗はあるもんさ、気にしない気にしない」

 友達が少し偉そうに、だけどどこかふざけながらそう言うのを見て、私は思わず笑ってしまった。

「途中まで一緒に帰ろうよ」

 私がそう提案すると、友達は、うん、と答えた。

 私たちは学校を出で、最寄りの駅へと歩いて向かう。部活のことだけでなく、クラスでの出来事、他愛のないことを話しながらともに歩いていく。

 友達は家が学校から歩いていけるところにあるそうなので、駅でまた明日ね、とお互い手を振りあって、それぞれの帰路についた。

 

 私の家の最寄り駅に到着した。雨は相変わらず激しく降ったままだ。

 私はこのまま家に帰ろうと思ったが、どうしてもあの貼り紙のことが気になって仕方がない。そこであの動物病院に行ってみることにした。

 私は動物病院の入口のドアを開けた。チリン、と軽やかな鈴の音に迎えられ、私は久しぶりに病院の中に入った。運良く、待合室にはお客さんがいなかった。

 受付にいる女性が私に気づき、声を掛ける。

「あら、陽子ちゃん。いらっしゃい、久しぶりね。元気にしてた?」

「おばちゃん、こんにちは。ぼちぼちやってます。おばちゃんこそ変わらず元気そうで安心しました」

 受付のおばちゃんこと田澤さんがにっこりと笑った。

「学校帰り?なにか困りごと?」

 田澤さんが心配そうに聞いてくる。

「ううん、あそこに貼ってある貼り紙が気になっちゃって」

 私は貼り紙を指さしながら答える。

「ああ、里親募集のお知らせね。気になる子でもいたの?」

 田澤さんが聞き返してくる。

「はい、写真にシロスケに似た子ネコがいたもので」

 田澤さんが少し遠くを見るような顔つきになる。

「シロスケくんね、もう半年だっけ?」

「はい、そうです。その節はお世話になりました」

 私はぺこりと頭を下げる。

「私達も、もう少し頑張るんじゃないかって思っていた矢先だったから、忘れることはないわ」

 田澤さんが悲しそうに答えた。

「そうだ、子ネコたち、見ていく?」

 田澤さんが私に提案してくれた。私は一瞬子ネコたちを見てみたい、という思いに駆られたが、すぐに頭から振り払った。

「今見たらなんだかあの時を思い出してまた悲しくなってしまうかもしれないので、今は遠慮しておきます。ごめんなさい」

 私は頭を下げた。

「ううん、そうよね。もしも気になったらいつでもおいで。きっと先生も同じ考えだろうから」

「ありがとうございます。忙しい中失礼しました。また来ます」

 私は田澤さんにそう答えて、病院をあとにした。

 

 病院を出たあと、私の足はなぜか重かった。雨はさっきよりも少しおとなしくなってきた。

 ようやくマンションの前に着き、階段を上ろうとする。しかし、どうも階段の一つ一つの段がいつもより高く見えてしまう。

 私はいつもなら使うことのないエレベーターを使うことにした。ちょうどエレベーターボックスは一階にあり、上の矢印が書かれたボタンを押したらすぐに扉が開いた。私は狭い長方形型の空間に身を寄せた。3と書かれたボタンを押すと、ドアが静かに閉まり、わずかな振動を伴いながら箱が上へと動き出す。

 そういえば、シロスケを病院に連れて行くときですらエレベーターを使わずに階段を使っていたっけ。キャリーケースは案外大きいので本当ならエレベーターを使ったほうが楽である。

 しかし、ペット可なこのマンションにも猫アレルギーの人がいてもおかしくないでしょ、という両親のささやかな思いやりで、ある時から階段を使うようになった。そう思うと、こうやって今エレベーターを使っている自分がなんだか悲しい存在に思えてきてしまう。

 エレベーターが目的地に到着したことを知らせる無機質な機械音声が聞こえた。それに遅れて、目の前の視界が開ける。私はよいしょ、とラケットケースを背負い直し、三階の廊下へと出た。家の前に着き、がちゃりとドアを開けた。電車に乗ったときにお母さんにはメールで連絡してあったので、予め開けておいてくれたのだ。

「ただいま」

 私は学校に行く時同様、何事もなかったかのように元気な声で挨拶をした。

「お帰りなさい、今日はとんだ災難続きだったわね」

 母がリビングから出てきて私に声をかけた。災難、という言葉に少しはっとしてしまった。

「何かあったでしょ」

 母が私の心を見透かすような言葉を投げかける。母は昔から私の隠し事をことごとく見破ってきた。私がどんなにはぐらかしても母はまるでマジシャンのように、私の隠し事をすんなりと心の押し入れから引っ張ってきてしまう。母が言うには、私は顔に出やすいタイプらしく、表情で大体判ってしまうという。

 私はそのことを分かっていたが、どうしても言い出しにくかった。そこで心の中で動物病院での出来事を話したいという本心と、それをごまかそうとする自分を天秤にかけた。天秤は迷うことなく動いた。

「ちょっと来てほしい場所があるの。そのほうが説明しやすいし」

 私は母に言った。自分の隠された本心をそっと乗せた言葉は、果たして母にどのように届いたのだろう。雨はいつの間にか小雨になっていた。

 

 私は荷物をリビングに下ろし、母を引き連れてマンションの階段を下りる。

「歩いていける場所なの?」

 階段を下りながら母が尋ねてきた。

「うん、そう」

 場所を言えば早いのだが、母にも私と同じ経験をして欲しかった。きっと母なら、と私は確信する。

 マンションを出て、大通りの方へ向かう。もうすぐ大通りと交差する十字路だ。私は自然と歩幅が大きくなる。母がそれに何も言わずについてくる。そして私はほんの数十分前にいた動物病院の前で止まった。そして、母の方を見て、あの貼り紙を何も言わずに指さした。

「まあ......」

 母がそうつぶやいたきり、無言になってしまった。母の視線は、あの時の私と同じように里親募集の貼り紙にあった一枚の写真に注がれていた。

「お母さん」

 私は母に呼びかけた。

「もう一度、ネコを、この子のお世話をしたい」

 現実的かどうかは分からない。だけど、口にしなければ何も始まらない。以前父がそんなことを言っていた。

「その答えを出す前に、実際にこの目で見なくちゃ」

 母はそう言って微笑んだ。そして、動物病院のドアを開けた。その姿は、あの時と一緒だった。

 

 動物病院に入ると、母は受付にいた田澤さんに話しかけた。少しの会話をした後、田澤さんは私たちを診察室へと案内してくれた。

 診察室の中は大きな診察台を囲むように様々な診察器具が置かれている。田澤さんは診察室の奥にあるドアを開けた。その瞬間、イヌやネコたちの声が聞こえてくる。そこは入院中やお泊りをしている動物たちがいる部屋だった。

 その部屋の一角に少し小さめのサークルが置いてあり、その中には子ネコが三匹入っていた。子ネコたちはちょうど起きていて仲良くじゃれ合っていた。その中の一匹に私は目が釘付けになった。全身が白くふわふわとした毛で覆われていて、ところどころ黒のラインが入っている。こちらの様子に構うことなく他のネコたちと遊んでいる。

「こうやって見ると、シロスケに似てますね」

 母が田澤さんに言う。

「ええ。私たちも同じように考えてました」

 田澤さんがサークルの中に手を入れ、私たちが注目をする子ネコが抱きかかえられる。

「陽子ちゃん、抱っこしてみる?」

 私は田澤さんに言われるまま、子ネコを受け取りそっと抱きかかえた。半年ぶりに感じる心臓の鼓動が妙に生々しい。私の胸の中で、小さな命が懸命に生きようとしている。私は子ネコを抱きかかえたまま何も言うことができずにいた。

「懐かしいね、確かシロスケはここでの里親募集で会ったんだっけ」

 母がつぶやく。私も、子ネコを抱きながらシロスケとの出会いを思い出していた。

 

 十年前、私が小学二年生に上がった春、私は両親に連れられてこの動物病院に来ていた。受付にいるイヌやネコをきょろきょろ見たり見慣れない風景にそわそわしていた。しかし、その頃は人見知りが激しく、母の後ろでそっと用紙を見ていた。そして、今日と同じこの場所に案内されて、両親に「どの子のお世話をしたい?」と聞かれた私は、一番目立っていた真っ白な子ネコを指さした。看護師の田澤さんがそっとその子ネコを私に渡してくれて、初めてネコを抱っこした。はじめは怖かったが次第に子ネコの体温が伝わってきて、私はなにか温かいものに包まれた感覚になった。そして、私達家族はこの子ネコの里親となった。その子ネコこそ「シロスケ」だった。

 シロスケのお世話は大変だったが、毎日の生活がわくわくするものになった。しかし、シロスケは半年前、病気で亡くなってしまった。必死で看病したし、病院の先生方もあれこれ手を打ってくれた。命の流れには誰も逆らうことはできない。ましてや、どこにでもいるような高校生に誰一人として時間を巻き戻すことを許さないだろう。

 シロスケがいなくなってからというもの、私の心にポッカリと大きな穴が空いてしまった。その穴はどんなに楽しい出来事や、どんなに美味しいスイーツですら塞ぐことができなかった。

「私、もう一度この子をお世話したい」

 私は母に強く言った。決して空いた穴を塞ぐためではない。

「きっと、ううん、必ず別れが来るけど、それでもいいの?」

 母は優しい口調で私に尋ねた。

「うん、分かってる。だけど、この子を見たら、シロスケが生まれ変わったんじゃないかって、そう思うの」

 私はあの時と同じように、抱きかかえている子ネコのぬくもりを感じながら、そう言った。どこかで懐かしいネコの鳴き声が聞こえた気がした。




 

「ネコちゃんだ〜!」

 家族でホームセンターに行くと必ず行くのがペットコーナーである。

 五歳の娘はこの頃動物に興味を持ったようで、休みの日が来ると動物園に行きたい、と駄々をこねるようになった。しかし、家から一番近い動物園は車を使っても三時間もかかってしまう場所にあり、簡単に行ける場所ではない。とはいえ、もうすぐ娘の誕生日が近く、妻とも春休みの時期に動物園にでも行こうか、という話が出ていた。頻繁に動物園に行けない分、休みの日にはこうやってホームセンターに足を運んでは必ずペットコーナーに立ち寄っている。

「パパ、このネコちゃんかわいいよ」

 五歳の娘がそう言いながら指さした先には、新しくこの店にやってきたであろう子ネコがいた。ガラス張りのゲージには「アメリカンショートヘア 血統書付き」と書かれていた。娘は最近見たテレビ番組のネコ特集の影響を受けているのか、ネコの種類を事ある度に私や妻に聞いてくる。その度にインターネットで調べては様々な画像を娘に見せている。その画像を見るたび、彼女は目をキラキラと輝かせているのであった。

「ねえねえ、私ネコちゃん飼いたいー」

 娘が私と妻に向かってせがんでくる。これは今日に限ったことではなく、いつものことだ。

「もう少し悠ちゃんが大きくなったらね」

 妻が娘に向かって言う。それを聞いて「ええー」とがっかりしたような声を出す。

 確かに、ネコを飼おうと思えば飼うことはできる。しかし、どうも気が進まないのだ。お金がないとか、飼う場所がないとか、そういった現実的な問題があるわけではない。まだこの子には大切なことが分かっていないように感じるのだ。そして、私たち家族は今日もそっとペットコーナーから離れていく。

 

 その日の夜、家族全員で使っている寝室で、娘が布団に入りすやすやと寝息と立てているのを確かめて私はリビングに向かった。リビングはキッチンと繋がっていて、真ん中には家族三人が座れるぐらい大きなダイニングテーブルが置いてある。

「悠ちゃん、寝た?」

 テーブルで家計簿をつけていた妻がリビングに入ってきた私を見て聞いてきた。

「ああ、大丈夫だよ」

 私はそう答えながらキッチンに向かい、マグカップを二つ取り出し、温かいコーヒーを二杯入れた。部屋中にコーヒーの香ばしい香りが漂い始める。私は二つのマグカップを持ってテーブルに向かう。そして片方を妻の方に静かに置いた。

「ありがとう」

 妻が私に微笑む。

 私も自分のマグカップを一旦テーブルの上に置き、リビングにある本棚から読みかけの小説を取り出した。そして、妻の真向かいに座り、淹れたてのコーヒーを一口すする。程よい苦味が口の中に広がり、感覚が少しずつ研ぎ澄まされていく。

「ねえ、もうすぐ悠ちゃんの誕生日じゃない?今年の誕生日はどうする?」

 妻が家計簿をつける手を止めて、私に聞いてくる。

「そうだな、最近動物に興味があるみたいだし、動物園にでも行ってみるか」

 私はそう提案してみた。

「私ふと思ったんだけど、ネコを飼うのはどう?」

 突然の提案に私は一瞬思考が止まってしまった。思わずコーヒーを口にする。苦さがすぐに私の意識を戻した。

「いきなりだね」

 冷静を装ったつもりだったが、逆に動揺していることが伝わってしまうような答え方をしてしまった。

「そろそろあの子も動物を飼うということの大変さが分かる年になってきただろうし」

 妻はそう言って机の片隅に置いてあったチラシの束を探り始めた。

「今日の朝刊に入っていたチラシなんだけど」

 そう言って私に差し出してきたのは手作り感あふれる一枚のチラシだった。そこには「子ネコの里親募集中」と書かれていて、中央には子ネコの写真がいくつか載っていた。このチラシを出していたのはここの近くにある動物病院だった。

「里親か、俺は賛成だが、悠ちゃんが何て言うかだな」

 私の言葉に首を傾げた妻の様子を見て、私は慌てて付け加えた。

「いや、悠ちゃん、ペットコーナーに行くたび飼いたい、って言ってただろ?もしかしたら、ペットコーナーにいるネコのほうが可愛い、とか言わないかな、って少し不安なだけ」

 私の言葉に、妻は手を顎に持ってきて何かを考え出した。

「そうかもしれないけど、とりあえず明日行ってみない?明日は休診日だけど里親募集の方は対応してくれるみたいだし」

 妻の提案に私は頷いた。そして再びチラシをまじまじと見つめた。写真のネコたちがどこか切なく、そして声にならない声を上げようとしているのでは、そんなことを考えてしまっていた。

 

 翌日、私たちは娘を連れて昨日話していた動物病院へ向かうことにした。私たちだけなら歩いて行っても問題なかったが、娘にとっては少し遠い距離だったので車で向かった。いつも通らないような道に娘は後部座席に設置したチャイルドシートに座りながらそわそわしていた。

 車は目的地である動物病院の前に着いた。ちょうど病院の中から看護師らしい人影が出てきた、妻がひと足早く車から降り、その人の元へ駆け寄った。妻曰く、家を出る前に病院の方に連絡をしていたという。私は車を駐車場に止めて娘とともに車から降りた。

「ここどこ?」

 娘が私の方を見て聞いてくる。

「ここは動物の病院だよ」

 私はそう答えると、娘の手を取り、病院の中へと一緒に入っていった。

 私たちは看護師さんに案内され、診察室の奥にあるスペースへ来た。私自身動物病院に来るのが初めてだったので、すべてのものが新鮮に見えた。

「こちらが今里親を募集している子ネコたちです」

 看護師さんが手を伸ばした先には小さめのサークルがあり、そこには三匹の子ネコたちがすやすやと昼寝していた。

「ネコちゃんだ!」

 娘が突然大きな声を出した。そして一目散にサークルの方に駆け寄り、寝ている子ネコたちを触ろうと手を入れた。

「悠ちゃん!」

 私が娘を止めようとしたのと、看護師さんが娘の動きを制止したのがほぼ同時だった。看護師さんは娘の視線に合わせるようにしゃがみ込み、娘の目を見て言った。

「なでなでしたいのは分かるけど、ここの部屋には病気でぐったりしている子もいるの。大きな音を聞くとびっくりしてパニックになっちゃう子もいるのよ」

 娘はそれを聞いて、しゅんと俯き始めた。

「それにここにいるネコちゃんたちも今はお昼寝してるでしょ。お昼寝しているときにいきなり起こされたらびっくりしちゃうよね」

 娘が泣くのをこらえながら首を縦に振った。

「すみませんでした」

 妻が頭を下げた。私も続いて頭を下げる。

「気にしないでください。私の方も少し配慮が足りなかったもので」

看 護師さんが慌てて言う。そして、娘の方を見て優しく話しかけた。

「今はそっと見るだけにしようね」

 うん、と娘が頷いた。

「どの子の里親になるかはもう決まっていますか?」

 看護師さんが私たちに問いかける。

「それは娘に決めてもらおうと思って。それでいい?」

 妻がそう言い、私に確認してくる。

「ああ、そのほうがいいだろ」

 私は頷きながらそう言う。

「ネコちゃんのお世話ができるの?」

 私たちの会話を聞いていた娘が少し小さめの声で聞いてくる。

「うん。その代わり、命を一つ預かるんだから、中途半端な気持ちじゃ駄目だからね。約束できる?」

 妻の問いかけに、娘は真剣な顔で大きく首を縦に振った。そして、サークルの方を見て、そっと指を向けた。

「私、この子がいい」

 そこにいたのは白毛にところどころ茶色の毛が混ざった、和の雰囲気を醸し出している子ネコだった。





 最後の一匹が無事にステイ期間を終え、正式に引き取られていったのを確かめてから、私は動物病院へと戻ってきた。

「先生、ただいま戻りました」

 診察室に入り、カルテを見ていた院長先生に声を掛ける。

「ああ、田澤さんか。ご苦労さま」

 院長先生が私に声をかけた。

「最後の中川さん宅は小さい子がいて少し心配でしたが、ステイ期間中でもしっかりお世話したり遊んでいた、とご両親がおっしゃっていたので安心しました」

 私はそう言いながら、中川さん家族がここに初めて来た時のことを思い出していた。娘さんの行動にはびっくりしてしまったが、今日伺ったときは同じ子とは思えないほどのネコとの接し方をしていた。

「これで無事二匹の里親が決まったな。良かった良かった。確かもう二匹は大原さんがこのまま引き取るんだったな」

「ええ。大原さんのご希望なので」

「そうか、とりあえず一段落ついたな」

 院長先生がうんうんと頷きながら言う。そして、

「そうだ、大原さんに連絡しないと」

と言った。

「大原さんになら先程連絡しました。午後一時にこちらにいらっしゃるそうです。」

 私はポケットからメモ帳を出して答えた。

「さすが、相変わらず仕事が早いな」

 院長先生が驚いた顔をして言う。そして言葉を続けて

「午後一時か、分かった。準備しておくよ」

と言い、いくつかのカルテを手にしてから、奥の部屋へと入っていった。

 私も、ひと仕事終えた達成感からうんと大きく伸びをしてから、雑務をこなすため受付の方へ向かった。

 

 午後一時。動物病院のドアが開き、一人の女性が中に入ってきた。

 私はその姿を見て、声を掛ける。

「大原さん、こんにちは。お忙しいところありがとうございます」

 そこにいたのは四十代頃の少し華奢な女性だった。

「いえ、みんな里親が決まったと聞いて、ぜひともご挨拶に行きたかったので」

 大原さんが軽く会釈してから言った。

「奥の診察室で院長先生がお待ちです。こちらへどうぞ」

 私は大原さんを診察室に案内した。

 失礼します、と言って診察室の引き戸を開け、中へ入る。院長先生はすでに椅子に座って待っていた。

「こんにちは、大原さん。今日はありがとうございます」

 院長先生が大原さんに声をかけた。

「いえいえ、こちらこそ今回の件は大変お世話になりました」

 大原さんが深々と頭を下げた。

「どうぞこちらに座ってください」

 院長先生が診察室の片隅にあった椅子を差し出した。大原さんは、ありがとうございます、と言って椅子にゆっくり腰掛けた。

「こちらが今回里親になりました家族の方々です」

 院長先生が三枚の写真を大原さんに差し出した。どの写真も、ステイ期間が終わり、正式に引き取ることになったときに撮らせてもらったものだ。

 院長先生が大原さんに一枚ずつ見せながら言う。

「こちらの中川さん家族は白茶の子の里親になりました。来月から小学校に上がるお子さんがいて、はじめての顔合わせは少しはしゃぎすぎてしまい田澤さんにお叱りを受けていました。しかし、ご両親の協力もあって、次第に向き合い方が分かってきたようです」

 院長先生の言葉を聞きながら写真を眺める大原さんの目は、子ネコたちの新たな旅立ちを見守ろうと知る母猫のようだった。

 そして、院長先生はもう一枚の写真を見せた。

「このご家族、覚えていらっしゃいますか?」

 そこに写っていたのはシロスケくんの里親の谷口さん家族だった。真ん中で陽子ちゃんがシロスケくんにそっくりの子ネコを抱いてにっこり笑っている。

「ええ、ええ、覚えていますとも。お嬢ちゃん、すっかり大きくなって」

 大原さんがそう言うと、院長先生に

「谷口さんはこのことをご存知ですか?」

と聞いた。

 院長先生は首を横に振りながら

「いえ、まだ伝えていませんが、近い内にはお伝えしようかと」

「偶然というのもすごいですね」

 私がしみじみ言う。十年前のあの記憶が、走馬灯のように頭をよぎる。

 

 十年前、今回と同じように子ネコたちの里親を募集したことがあった。そもそものきっかけは、院長先生が以前から友好があった大原さんが、自宅の玄関先に放置された一匹のネコを見つけたところから始まった。そのネコはとても衰弱していたため、大原さんは慌ててこの病院に運んできた。診察の結果、栄養失調に加え、妊娠もしていた。先生は緊急手術を行った。子ネコたちは無事に生まれ、保護されたネコも一時は様態が安定していた。

 しかし、栄養失調がひどすぎたせいか、急に体調を崩し、静かに息を引き取ったのだ。それまで、子ネコたちのお世話も含め、大原さんが力を尽くしてくれた。大原さんは仕事の傍ら保護ネコを守るボランティアに参加していたため、私たちも驚くほどの手付きでネコたちのお世話をしていた。保護したネコが亡くなったと聞き、大原さんはすぐにここに駆けつけ、静かに涙を流した。たった数週間という短い期間であっても、命の灯が目の前で消えるというのは、看護師を何年もやってきている私でさえもとても辛いものだ。

「先生、この子ネコたちをみんな引き取って、お世話したいのですが、そんな余裕はなくて」

 ひとしきり泣いた大原さんはハンカチで目頭を抑えながら院長先生に言った。

「大原さん、無理はしないでください。あなたが無理をしても喜ぶ人は、ネコは、誰もいません」

 院長先生が大原さんに優しく話しかける。

「一つご提案なのですが、ここで里親を募集するのはどうでしょう。もちろん、私たち病院のスタッフも協力しますが、通常業務もあるので、よければ大原さんのお力を借りたくて」

 大原さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに唇を噛み締めて、

「私で良ければやらせてください」

と答えた。

 残された四匹の子猫たちは無事に引き取られていった。その中に、後に「シロスケ」と名付けられ、可愛がられた真っ白のネコがいた。そのネコを引き取ったのが紛れもない谷口さん家族だったのだ。十年前の陽子ちゃんはまだ七歳で、少し人見知りをしてしまうようだった。家族と一緒にこの病院に来たときも、母親の後ろに隠れるようにネコたちを見ていた。抱っこしてみる?と私が陽子ちゃんに聞くと、びくびくしながらも真っ白の子ネコを私から受け取り、抱っこした。はじめはなにか得体のしれないものを見ているかのような顔をしていたが、次第に表情がほぐれ、ゆりかごのようにゆっくりとゆすり始めた。子ネコは陽子ちゃんの小さな腕の中で満足そうに喉をゴロゴロと鳴らしていた。そこには私と院長先生だけでなく、大原さんもいて、その様子を見てそっと胸を撫で下ろしていた。

 

「谷口さんとは連絡を取り合っていたんですか?」

 私が尋ねると、

「ええ。月に一回はお電話を頂いて、時折お家にお邪魔していました。シロスケが亡くなった時も、ご丁寧に連絡をくださって」

「そうだったんですね」

 私は大原さんの答えを聞いて、そっとうなずいた。

「先生、今回里親になってくださった方々にお会いしたいのですが」

 大原さんが院長先生に言った。

「そうですね、私も今まさにそう提案しようとしていたところです」

 院長先生が机の上に置かれた手帳を開き、何かを確かめてから、再び大原さんに話しかけた。

「ちょうどよかった。午後イチの診察で一件予約が入っていまして」

「それならそろそろ御暇しないと」

「いえ、むしろ大原さんにこのままいてほしいです。なぜなら」

 そう院長先生が言いかけた時、病院のドアが開く音がした。そして、こんにちはー、という元気のいい女の子の声が診察室の中まで聞こえてきた。

「この声って」

 大原さんがはっとした。

「十年もネコのお世話をしていると、やっぱり手付きが違いますよね。大原さんも、そして陽子ちゃんも」

 院長先生がそう言うと、私に目配せした。

 私は急いで受付の方に向かった。

「お待たせしました。こんにちは」

 決意を改めて固め、命の灯火を守る、と再び約束を交わした谷口さん家族が、そして陽子ちゃんが待合室で待っていた。