光のそれぞれ 安穏剣呑

 

 

.. 1

 

 

「愛してるよ」

 千由紀が耳元で囁く。

 その声に全身を撫でられたような心地よさを感じ、身悶える。一人用のベッドは二人分の体温を抱え込んで逃がさない。

「私も」

 彼女の手をぎゅっと握り、つぶやくように漏らす。それに応えるように彼女の手に力が入るのが分かる。

 この掌の熱さは彼女のものか私のものか、どちらにしても私達二人のものだ。

 彼女の方へ向き直り、物欲しげに唇を見つめる。だが、こういう時の彼女は意地悪。仕方ないので、面映ゆい思いでおねだりする。

「キス……して」

「ん、いい子」

 唇が触れ合い私達は一つになる。月明りの射し込む部屋に布擦れと控えめな水音。

 二人を邪魔するものは何も無かった。

 

 アラームの音で目を覚ます。

 大好きな人の寝顔が目の前にある。その喜びに顔がほころぶ。

 彼女を起こさないようにベッドから抜け、朝食の用意をする。今日は食パンと目玉焼きの予定だ。

 フライパンに卵を落とすと小気味よい音と香りが溢れだす。

 料理の匂いにつられたのか、遅れて彼女が起きてくる。

「おはよう」

「んあぁ、おはよー」

 コーヒーを二つ、お揃いのカップに入れてテーブルに運ぶ。彼女はシロップ、私にはミルクを添えて。

 彼女がテレビをつけると朝のニュースが聞こえてくる。やれ愛人がなんだと下世話な話ばかりで平和なものだ。

 チーン

あちち

 焼きあがったトーストを皿にのせて目玉焼きを盛り合わせる。

「おまたせ」

「うん、待った待った」

「「いただきます」」

 毎朝、私の作ったご飯を美味しいと言ってくれる。それがこんなにも嬉しいなんて。 

 それに気づけたのはきっと彼女のおかげ。

「「ごちそうさま」」

 彼女が食器を片付け、出かける準備をする。

「じゃあ、いこっか」

 

「今日、楽しかったね」

「うん、楽しかった」

 久しぶりのデートを満喫した私達は展望デッキで夜景を見ていた。

「うおー高ぇーーーー」

「綺麗だね」

 眼下に煌めく赤や黄色の喧騒はまるで色とりどりの星座みたいだ。

「ねぇ、麻里」

「なに……?」

 いつになく真面目な顔をしている彼女に少し疑問を抱く。

「私さ、まだ……頼りないかもしれないけど、もっと頑張る。頑張って麻里を幸せにするから。これからもずっと、一緒にいてください」

 彼女はバッグから小さな箱を取り出してこちらに差し出す。

「っ……!」

 嬉しさや愛しさ、涙が溢れて声が出ない。

 恐る恐る受け取って箱を開けると、そこには銀色に光る指輪が入っていた。

「ありがとう」

 やっとの思いで言葉を発する。

 夜空に指輪をかざして眺めると、どんな星よりも強く輝いていた。

「本当に……ありが、んっ」

 彼女が急に肩を抱き寄せ、キスをする。

「あっ……あああーーーーーー」

 

「ぐすっ、ごめんなさい。せっかくの指輪」

「いいって、だからもう泣かないで」

 ベッドに二人くっついて横になる。胸の中は罪悪感でいっぱいだ。

 あの後、必死で探したが二十一階からの落し物が見つかるはずもなかった。

「ごめん……」

「大丈夫! あれ安い奴だからさ!」

「もう! 大事な指輪失くしちゃったんだよ!? もっと……怒ってよ……」

 彼女の胸にうずくまって、ひたすらに自分を責める。こんな時でも、彼女は私を温かく包んでくれた。

「大丈夫だって。指輪なんてなくても。私が麻里のこと大好きなのは変わらない」

「千由紀……」

 彼女は優しく髪を撫ぜて、囁く。

「それに……指輪のことなんか、忘れさせてあげるから」

「……ばか」

 

 

.. 2

 

 

「おじさんこんにちはー」

 こぢんまりとした青果店の外から小学生ほどの女の子が声をあげる。

「おぉ、こんにちは。どうしたんだい? お使いかな?」

 人のよさそうな店主が奥からやってくる。

「うん、そうなの。ママがね、お野菜買ってきてって」

「そうかい、そうかい、えらいね~。なにが、欲しいかな?」

「うーんとね、キャベツ」

「よし、じゃあおじさんが良い奴を選んであげよう」

「あっ、だめっ」

 笑顔で店内を進む店主の後ろで女の子が小さく漏らした。

 向かう先では少女がリンゴを手に身をかがめていた。

「こら、泥棒!」

「うわぁ、やべ」

 いきなり怒鳴られて、驚いた少女はリュックに詰めようとしていたリンゴを取り落とす。地面に落ちたリンゴはひびれて汁を垂らした。

 慌ててリュックを抱え、逃げる準備をする。リンゴは諦めるしかなさそうだ。

「逃げるよ!」

 いつの間にか少女の傍に駆け寄っていた女の子の手を取り走り出す。

 おじさんの声が背後から追いかけてくるが、振り向くことなく必死で走り続けた。

 

「ごめんなさい。失敗しちゃって」

「大丈夫だよ。気にしないで」

 高架下に敷いた段ボールに座り込む。

 友奈が店主をひきつけ、その隙に私が果物を盗む。そんな計画であったがキャベツとリンゴの棚が隣にあったことが不運だった。

 私がひきつけ役をすることもできたが、友奈に手を染めさせるわけにはいかない。

 グウゥ

 お腹はどんな時でも主張してくる。それもそうだ、今日はかろうじて小ぶりな蜜柑を半分こできたくらい。

「お腹減ったね、お姉ちゃん」

「そうだね……うん、もう寝よ。起きてるとお腹減っちゃうから」

 空はまだ遠くにオレンジが残るほどだが、これ以上起きていてもどうにもならない。

 それに、昼間の逃走でヘトヘトだ。友奈を抱き寄せ横になるとすぐに瞼が重くなってきた。

 はぁ、どうすっかな、これから。

 そんなことを考えながら目の前に広がる黒に身を委ねた。

 

 見慣れた玄関に立っている。その先の扉から声が聞こえる。泣き叫ぶ女の子と下卑た男の声

 体は勝手に走りだし、扉を叩き開ける。うずくまる女の子の前に立つ男。その手には包丁が握りしめられている。

 すぐに女の子に駆け寄り庇う。男の怒号にひたすら許しを請うが、その怒りは収まらない。

 殴られ、蹴られ、鈍痛が全身を襲うが女の子を安心させるために笑った。

 髪の毛をつかまれ身動きが取れなくなる。

 死に物狂いで抵抗し、側にあった鞄を投げつける。

 怒りが頂点に達したのか男は包丁を振り上げる。

 必死に伸ばした手でボールペンを握り男の手に突き刺す。

 痛みに耐えかねた男は身をこわばらせる。

 腕に噛り付き、包丁を奪い取り、男にめがけて振り下ろした。

 

 勢いよく体を起こす。息が荒い。

「友奈っ……」

 周囲を探す。右手に柔らかい感触。

 微笑みを浮かべながら寝息を立てる友奈。

 ほっと、胸をなでおろし、友奈の髪をなでる。

 そっと立ち上がって、日課に行く。

 日課といっても辺りの捨ててあるゴミの中から使えそうなものを探すというものだが。

 路地裏、ゴミ箱、河川敷、どこでも、なんでも使えるものは全部使う。私と友奈、二人ではそうでもしないと生きていけない。

 目を凝らしながら道を歩いていると側溝に光を反射するものがある。拾ってみると小さな指輪だ。

「おぉ……」

 なにか彫刻が入っている。名前だろうか。

 これを売れば当分は生活できるかもしれない。

 指輪を握りしめ、友奈のもとへ急いだ。

 青空を覆う雲の隙間からは朝日が漏れていた。

 

 

.. 3

 

 

 その時、とある報道が話題を呼んでいた。

 『大手財閥令嬢、愛人に女』などと銘打ってテレビや新聞が騒ぎ立てる。

 こんな事まで、大きく取り扱うくらい昨今のマスコミは暇なのだ。

 また、SNSなどでは色々な人物がそれを食い物に、自分の意見を主張する。

 そして、騒ぎ立てる人物がここにも一人。

「どどど、どうしましょぉ~」

 新聞の記事と睨めっこしながら部屋の中を行ったり来たりで落ち着かない。

「杏那、じっとしなさい。気が散る」

 こっちはどっさりの書類と睨めっこ中だ。次期予算案草稿、工場の人員削減、海外子会社の事故報告、会議用の資料、新事業開発の進捗などなど。

 これだけやることがあるのにマスコミになぞ構っていられない。

「だって、これ、バッチリ撮られちゃってますよ!」

 押し付けてくる新聞にはホテルから出てくる二人の写真が載っていた。しかも、しっかりと手を繋いで。

「邪魔」

 新聞を押しのけ、杏那の方へ向き直る。

「まったく、ホテルに行ったのも事実だし、撮られたのも事実、それだけ。何かやましいことをやったわけでもない」

「でもぉ……」

「でも、とか、だって、なんて言うのはやめなさい」

 立ち上がって胸に手を当てる。

「いい? この私、世界を統べる統世の名を継ぐ、統世凜が貴女を愛していると言っているの。それに相応しい立ち居振る舞いをしなさい」

「凜さん……」

 この子は昔から能力は高いのに自分への信頼が著しく欠けているのよね……。

「さぁ、分かったら仕事。この後は?」

「は、はい、本社で株主総会の打ち合わせをした後、新規事業部の査察です」

「ありがとう、じゃあ行こうか」

 本社に向かおうと、ビルを出るとそこにはカメラやマイクを持った人々が待ち構えていた。

 こちらの姿を見つけるやいなや、我先にと争っている。

 口々に質問をぶつけてくるが、その全てを受け流して送迎車に乗り込もうとする。

「女同士で、恥ずかしくないんですか」

 ただ一つ、その言葉だけは見過ごすことができなかった。

「人を愛することの何が悪い」

 大切な人を愛することの尊さ、それを許されない者たちの末路、それを私は知っている。

「誰かを愛するということに貴賤は無い。そこに性別や身分など関係あってなるものか」

 そう言い放って車に乗り込んだ。隣では杏那がオドオドしている。

 私はその手を取り、強く握りしめた。誰に何と言われようともこの手を離すつもりはない。

 その後、このやり取りはネットやテレビ上で取り上げられ、大きな反響を呼んだ。

 SNS上では失礼な発言をした記者を批判する声も多数あり、新聞社は謝罪文を公開したようだ。

「ふぅ、よかったです~」

 いつものように杏那が新聞を見ながら、声を漏らす。

「これで凜さんを批判する声も大分少なくなりますね」

「端からそんなもの気にしていない」

「うぅ、すみません」

「さ、仕事をしよう。今日も忙しいんだ」

 

 

.. 4

 

 

 夕日に照らされる荒野の道を連なるトラックが走行していた。

「なんにもねーなこの辺りは」

「だからこそだ。開拓された後じゃ何の資源も残ってないからな」

「お堅いねぇ」

「仕事中なもんでな」

「ハッ! 仕事ね! ただ、砂利道をドライブするだけじゃねぇか。生まれたての赤ん坊にでもできらぁ」

「いつ何が起きるかわからん。集中した方がいい」

「へいへい。それにしても、こんなんでホントに給料もらえんのか?」

「心配するな。なんでも今回の雇い主は大企業の系列らしい、その点は問題ないだろう。分かったらその減らず口を塞ぐんだな。」

「あー、わかったよ。ったく、せめてボンキュッボンなチャンネーでもいてくれたらな」

「……そうだな」

「お、あんたも女にゃ弱い質か?帰ったら遊びにでも行くかい?」

「遠慮しとくよ。嫁が日本で待ってる」

「ハー! そりゃいい! ジャパンの女は最高だからな!」

「ああ」

「妬けるねぇ」

「フン……おい、時間だぞ」

「分かってますよ」

”ザザッ 定時連絡 各チーム報告”

”ブラボー、異常なし”

”チャーリー、同じく異常なし”

”デルター、クソ暇ー”

”ちょっとザッフさん、適当なこと言ってないでちゃんとしてくださいよ。すみません、ほんと。デルタ、異常なしです”

”アルファ、了解”

 ザッフの奴ふざけやがって、帰ったら説教だな。

「ん、おい、待て」

”こちらアルファ、前方に車両が見える。念のため警戒しておけ”

 道を塞ぐように車両が動きを止め、小さな子供らしき人影が夕日を背に車両から降りてくる。

「止まりましたね」

「ああ」

”全車両停車、周囲の警戒は怠るな”

 ここにきて面倒ごとか、ツイてないな

「見てくる」

 トラックから降りて車両に近づく。

 長い髪がボサボサと四方に逆立っている。薄い服に浮かぶシルエットから女の子であることが分かる。

「おい、何をしている」

「……」

 女の子は後ろ手に縮こまって何も話さない。

「車のトラブルか?」

「……」

「どうした。言葉は分かるか?」

「……」

 依然として何も反応を示さない。ただ、その表情は怯えをまとっているように感じた。

 言葉が伝わらなければしようもないので車両の窓を覗き見るが、焼けた空を反射してはっきりと見えない。

”こちらデルタ、後方から車両が接近…………ッ! 武装してい”

 パンッ

 目の端にゆっくり持ち上がる光を捉え、体を向けようとした瞬間、衝撃と乾いた音を叩きつけられる。地面が近づき二度目の衝撃が襲う。

 ぼやける視界では女の子が全身を震わせながら構えた拳銃から煙をあげていた。

 硬直しきった彼女の体は、隊員の放った銃弾に頭を吹き飛ばされて崩れ落ちる。

 車両から武装した男たちが現れ、隊員と銃撃を繰り広げていた。

 隊員の呼び声や銃声、負傷者の悲鳴が飛び交うが、遠くなる意識がそれらを拾う事を許さなかった。

 脳裏には妻と娘と笑いあう光景を思い浮かべながら、ただその時を待っていた。

 

 ある日、赤と青のストライプで縁取られた封筒が届く。

「んー? てぃー、おー……」

 美海は見慣れない模様に興味津々でそこに書いてあるものを読もうとするが、ぐにゃぐにゃとしていて読めない。

「おかーさんー、おてがみ」

 美海が読んでと言わんばかりに封筒を差し出してくる。

「あら、ありがとう。えーと、どこからかしら」

 送り主は聞いたことがない会社のようだった。しかも流暢な英語で書かれている。これでは美海に読めなくても仕方ない。

 しかし、 あて先は確かにここで間違いはない。

「お父さんからかしら?」

「えー! おとーさん!?」

 封を開けて中身を確認すると二枚の紙が入っていた。

 一つは美海の言っていた通り手紙だった。

 そして、もう一つは……多額の小切手だった。

 手紙の内容に目を通す。それを理解する頃には、床にへたりこんでいた。

「ねー、なんてかいてあるの? おかーさん? だいじょうぶ?」

 美海の無邪気な質問に、私はただ、抱きしめるしかできなかった。

 

「ひゃっ」

 足に触れる波が思ったよりも冷たくてびっくり。急いで砂浜に避難する。足の裏に砂粒がひっついて、少し気持ちわるい。砂浜に座り、海を眺める。ちょっと風がつよい。

 おかあさんは、変わってしまった。あれから二年。おかあさんは笑わなくなっていた。

ううん、少しちがう。おかあさんの笑顔はいつもかなしそう。だけど、わたしはそれに気づかないふりをして笑い返す。そんなうそを知ってか知らずか、おかあさんは毎日のように、ごめんねと囁いた。

 あのてがみは読んでない。読まなくてもなんとなくわかるから。おとうさんの話をすると、すっごくかなしそうな顔をするから。だから、いつの間にか、おとうさんの話はしなくなった。

 おかあさんはいつも遅くまで働いて、帰ってくるとわたしのためにごはんをつくってくれる。

 今日だってホントは留守番してなきゃいけないんだけど、わたしはわるいこだから。

 世界のすすり泣きのような波の音を聞いていると脳裏に黒い泡沫が浮かんでくる。それらを、拾い集めるように海へと足が進んでいく。

 おかあさんはいつもわたしのせいで疲れてる。

 おかあさんはいつもわたしを見てかなしそうな顔。

 そんなわたしをおかあさんは好きなのかな。

 おかあさんはわたしが嫌い?

 わたしのせいでおかあさんはつらい。

 わたしのせいでおかあさんは苦しい。

 わたしのせいでおかあさんは。

 わたしのせい。

 わたしのせい。

 わたしのせい。

 わたしなんか居なくなってしまえば。

「美海!」

「おかあさん……」

「何してるの!危ないわよ!」

 すでに腰の高さまで海に入っていたわたしを抱き上げる。

「もう、何してるのよ……!」

 おかあさんに手を引かれておうちに帰る。その間一言もしゃべることはなかった。

 おうちに帰るとおかあさんがココアをつくってくれた。甘くてあったかくて優しかった。

「おかあさん、おしごとは?」

「今日は早く終わったの」

 それだけ言うとおかあさんは黙々と家事をこなしていった。

「おかあさん」

「なに?」

 なにかを言わなければいけない気がするのになんと言っていいかわからない。

「わたし……」

 言葉につまってうつむいていると、そっと暖かな腕に抱かれる。

「何も言わなくていいわ」

 その言葉でわたしは、自分のやろうとしていたことがどんなに悪いことか分かった。

「うぅ、ひっく、ごめんなさぁい」

 透き通った涙がポロポロとあふれ出してきて、自分ではどうすることもできない。

 でも、お母さんが泣き止むまでずっと涙を拭いてくれた。

 

 それから数か月後、一通のハガキが届く。

「お母さん、お手紙。どーそーかいってなに?」

「んー、昔のお友達と集まってお話しするの」

「わーたのしそう!」

「そうね……ううん、いかない」

「えー、なんで?」

「せっかくの休みだもの。美海と一緒にいるわ」

 美海の顔がぱぁっと明るくなり笑い合う。

 美海の温もりを感じながら、この子の側を離れることは絶対にしないと、そう心に誓った。

 

 

.. 5

 

 

「麻里、そういえばさ、もうすぐじゃない? あれ」

 千由紀がソファで寝転びながらだらしない声を出す。

「あー、そうね、えーと……」

 どこだったかな?と記憶を辿るように雑多な書類の中をごそごそ探り、一つのハガキを取り出す。

「うんーと、あ、来週!」

「ひゃー、あぶなー。忘れてたわ。」

「えー、どうしよう、何着ていこう?」

「だいじょーぶ。麻里は何着てても可愛いよ」

「もう、そういう事じゃないから!」

 

 そして、当日。

「カンパーイ!」

 ホテルのホールにグラスがぶつかる音が次々と連なり、賑やかな声が聞こえる。

 久しぶりな面々が過去の記憶を呼び起こす。何人か来ていないみたいだが大体のメンバーはそろっている。

 みんな自然と仲の良かった何人かとグループに分かれていっている。それぞれが、みんな変わってないよねー、今何してるのー? などと、再会の喜びを分かち合っていた。

 そんな中懐かしい声が聞こえてきた。

「ちゆっちー! 久しぶり!」

「理沙! 懐かしー!」

 理沙と千由紀がハイタッチしてはしゃいでいる。

 理沙とは家が近くだったこともあり、よく三人で遊んだものだ。

「ちゆっち、全然変わってなーい!」

「そっちも……ちょっと太った?」

「え、うっそ、酷くない!?」

「冗談、冗談。大丈夫だって。全然イケる」

「それどっちかわかんないんだけど!」

 すぐ人をからかうのは千由紀の悪いところだなと思いつつ、久しぶりなやり取りに思わず吹き出してしまう。

「本当に久しぶりだよね、理沙」

「えーと、最後に会ったのがー、成人式だから……十年ぶりかー」

 十年。言葉だけ聞くと途轍もなく長いような気がするけど、いろんなことがあって、本当に短かった。出世した人、亡くなった人、結婚した人、色々あった。

「私とは十二年ぶりだろー」

「それは、千由紀が成人式行ってないからでしょ!」

「まぁ、ちゆっちらしいけどさー」

 成人式には一緒に行くはずだったが、レポートが終わってないとか、これ出さなきゃ留年だとか、ドタバタして結局一人で行くことになった。

 そのおかげで、どうにか留年は免れたので仕方ないとは思う。

「変わらないって言ったらさー、それもホント変わんないよねー」

 理沙がグラス片手にこちらを指差す。

「それ?」

「あんたらさー、高校の時からずっとべったりだったじゃん」

「もう、そんなことないよ」

 なんて、否定してみるものの本当はどうかなんて明らかだ。

「変わったよ」

 千由紀が私の手を握る。

「あの頃の私達はただ一緒にいるだけだった。でも、今はこうやって、支えあって生きてる」

「ちょっ、千由紀」

「ち、ちゆっち、酔っぱらってる?」

 彼女の突然に気圧されたのか、流石の理沙も狼狽える。

「酔ってなんかない。ただ、理沙には言ってもいい……いや、言っておかないと」

 彼女の手に力がこもる。

 しっかりと握り返して応える。

 大丈夫だよ、千由紀。私も同じ気持ちだから。

「私達、付き合ってるんだ」

「えーと、いや、あーマジ? ちゆっち、そっち系なの?」

「そっち系だとか、じゃないとか、そういうんじゃないんだ。麻里と一緒に居る、それが私の幸せなんだ。」

 少し恥ずかしいけど、それ以上に彼女の気持ちが嬉しい。

 彼女が私の手を引く。

 証明すると言って、彼女の顔が近づく。

「え、やっ、千由っ……」

 訂正。かなり恥ずかしい。まさか、ここまでするとは思っていなかった。

 幸い、話に夢中な人たちは気付いてないが、それでも何人かはこちらを見て笑っている。

「いやー、そこまでされたら、認めざるを得ないでしょ」

 理沙も呆れたといった顔で失笑する。

 へへん、と得意げにする千由紀。いつも彼女に振り回されてばかりだ。

「もう……ばかーーーー!」

 

 

.. 6

 

 

「遅れてすまない」

 賑やかな雰囲気の中スーツ姿の女性が一人おっとり刀で入ってくる

「あ、凜さん! 久しぶり!」

「ああ、えーと、すまない」

「ひどーい! 忘れちゃったんですか!? 佐久間ですよ! 佐久間紗良!」

「ああ、佐久間か! 随分、大人っぽくなったな」

「そりゃ、もう三十ですから……って老けました!? 私! そんな!?」

「はははっ、騒がしいのは相変わらずか」

 辺りを見渡し、昔懐かしい面々に顔がほころぶ。

「本当に懐かしいですよね。あ、そうだ、何か飲みますか? 持ってきますよ」

「いや、悪いが遠慮させてもらうよ。この後、仕事なんだ」

「そうですか、残念」

「最近は特に忙しくてな」

「あー、確かに。テレビ、見ましたよ。かっこよかったです!」

「その話はやめてくれ、うんざりしてるんだ」

「あはは、ですよね」

「すまない、他の奴らにも挨拶してくるよ」

 何人かに挨拶し世間話をしているとあっという間に仕事の時間だ。

「あぁ、すまないが時間だ。失礼させてもらうよ。」

「お仕事頑張ってください」

「ああ、会えてよかったよ」

 ホテルを出ると、杏那が出迎える。

「お疲れ様です。楽しかったですか?」

「ああ」

「この後は十八時四十七分の新幹線で大阪に。タクシーを呼んでいるので……」

「タクシーはキャンセルしてくれないか? 少し、歩きたくなった」

「……はい、わかりました」

 

 

.. 7

 

 

 足を前に運ぶ。ポケットには小さな希望を入れて。足取りは少しはやく、時々スキップが交じる。

 雨上がりでジメジメするが、そんなことはどうでもよかった。

 目的地について中に入る。

 店員が挨拶をするが少し不信感を感じさせる。

「これ、売れますか」

 店員に指輪を見せて尋ねる。

 しばらく指輪を眺めていた店員が口を開く。

「お父さんか、お母さんは居るかな?」

「あの、これ、お母さんが売ってきてって……」

「ごめんね、親御さんが居ないと買取はできないんだ」

「で、でも、持って帰ったら怒られちゃう……」

「うーん、少々お待ちください」

 店員が店の奥へ下がる。

 内心、かなり焦っている。緊張で手汗がひどい。

 随分と長い間バックに下がっている。流石に長すぎると思い、そっと覗き見ると電話をしていたようだ。

 嫌な予感がして、指輪を持って店を出る。その帰りにパトカーとすれ違った。あれがあの店に向かっていたとするなら危ないところだった。

 警察に捕まるのはまずい。絶対に友奈を一人にするわけにはいかないのだから。

 その後も、貴金属買取店や質屋、古物商をまわるが、どこも買い取ってくれるところはなかった。

 日は落ちて、空には星屑がちらつきつつあった。友奈はどうしているだろうか。こんなことならば連れてくるべきだったのか。

 空腹と落胆と怒りと様々な気持ちを引きずる足は疲れ果てていた。

 朝出かけるときに友奈を期待させるようなことを言ってしまったことを後悔する。

 何か、何でもいいから成果を持って帰らないと……友奈のために。

 そんな想いが罪となって積み重なる。

 スーツを着た女性が同僚であろう女性と話しながら歩いている。肩にかけた鞄からは不用心にも長財布が顔をのぞかせている。

 それを見つけるとほぼ同時に行動に移していた。

 わざとふらついて女性にぶつかる。

「ご、ごめんなさい」

「ああ、すまない」

 あとは、自然に通り過ぎるだけ。財布は手の中にある。

「あのぉ……」

 同僚らしき人物がか細い声で私を呼び止める。その瞬間走り出す。

 この暗さと人だかりだ、路地に入ってしまえばこっちのもの。

 人をかき分けて走り、角を曲がろうとしたその時。

「す、すみません、逃げないでくださいぃ……」

 私の腕をしっかりとつかんで離さない。つかまれた腕が少し痛むくらいだ。

 態度と行動が合ってなさ過ぎるぞこいつ……!

「放せえぇ!」

「やめておけ」

 遅れて財布の持ち主が現れる。その表情は余裕といったものだ。

「こう見えても、杏那の運動神経はずば抜けているからな」

「えへへ、あ、ありがとうございます」

 確かに言う通りだ。さっきから腕を振り払おうともがいているがビクともしない。私は為す術もなくこいつらの好き勝手にされるわけだ。

「少しは大人しくなったか。さて、どうしたものか」

 考え込んで、しばしの沈黙が訪れる。

「すみません」

 そしてその沈黙は不意に破られた。見回りに来た警官によって。

「何かありましたか。さっき大きな声がしたので……」

 最悪だ。この状況で最も出会いたくないものを引き寄せてしまった。

 このまま警察に引き渡されて、調べられて、何もかもバレる。

 足元から崩れ落ちるような感覚。

 友奈……ごめん。

「ああ、すみません。姪があまりにもはしゃぐものだから、この様だ。ちゃんと注意しておきます」

「はあ……まぁ、年頃の女の子は気難しいですからね、失礼しました」

 何が起こったのか。姪? 何の話をしているのか分からない。

 ただ、警官は何事もなかったかのように立ち去り、未だに私はここにいる。その事実だけは理解した。

「なんで……」

 呆然として問いかける。

「なんで、か。」

 少々の間をおいてから指を立てて説明を始めた。

「一つ、私はこれから仕事だ。面倒なことは避けたい」

「二つ、私は警察というものが好きではない」

「三つ、君はどう考えても訳ありだ」

「そういうわけで、警察には突き出さない。だが、帰すわけにもいかない」

 そこで、と腕をつかんでいた女性の方を指差して。

「私が仕事の間、杏那と一緒にいてもらう」

 そこまで言って後は頼んだ、とどこかへ行ってしまった。ぽつんと2人だけ残されて。

「ど、どうしましょぉ……」

 知るか。あんたの同僚がやったことだろう。こっちが聞きたいくらいだ。

 だが、あんたが聞くなら私は勝手にさせてもらう。

「なぁ、行かなきゃいけないところがあるんだ。ついてきてよ。どうせ一緒にいなきゃなんだろ?」

 後ろにあいつを連れながら、急いで友奈の元へと向かう。

「お姉ちゃん! おかえり!」

「ただいま、友奈」

 私の姿を見つけると、ものすごい勢いで抱き着いてくる。それを痛いくらいに抱きしめ返す。

 この温もりにもう会えないかと思った。そんな想いがこみ上げて、涙が滲む。

 絶対に離れちゃいけないんだ、この子からは。

「あ、あなたたち、もしかして……」

「そう、私たちはここで暮らしてる」

 涙を拭いて、向き直る。友奈には泣いているところなんて見せられない。

「お姉さん、だれ?」

「ああ、この人はお姉ちゃんの知り合いだよ」

 

 まず、ふかふかの感触。それから、誰かが話す声がする。

「はい。はい。大丈夫です。今は寝ています、随分疲れていたみたいで。はい。分かりました。」

「はい。あ、あのぉ、できるだけ早く帰ってきてください。」

 ああ、そっか。今、寝てるんだ。自分の状況を理解すると、また、睡魔に襲われる。

 ふかふかに包まれて、意識が沈み込んで消失。その途端、

「お姉ちゃん、おきてー」

 友奈に揺さぶられて目を覚ます。それに弱い声が続く。

「お、起きてください。もう十二時なので……」

 時間を聞いて驚く。そんなに、寝たのはいつぶりだろうか。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん、アンナちゃんがね、ごはん買ってくれるって!」

 アンナ……ああ、確か、そう呼ばれていた。アンナの方を見るとどこか疲れているようだ。

「子供の体力……恐るべし……」

 なるほど、朝から友奈の遊びに付き合っていたのか。友奈がなついているのも納得だ。

 兎にも角にも、あの女性が帰って来ないことには何も始まらない。

 ベッドから出て支度をする。久しぶりにまともなご飯が食べられるんだ。

 少し楽しみだ。

 

 そして、やっと話が進み始めた。

「ただいま」

「凜さん、おかりなさいです……」

「どうした。えらく疲れているようだが」

「あはは……だ、大丈夫です……」

 軽くアンナを労い、それで、と私の元へ詰め寄る。

「事情を聞かせてもらおうか」

 アンナと話して笑う友奈を見る。

「分かった。あんた達にはよくしてもらったからな。話すよ。全部」

 私は全てを話した。

 私達を残して死んだ母の事、最低な父親の事、最低な自分自身の事。

 それでも、友奈を守り抜かなきゃいけない事を。

「まて、名前はなんて言った」

「……? 真織だけど」

「違う。君のじゃない。母親の名だ」

「阿久井真奈、それがどうかしたの」

「そうか……阿久井……いや、なんでもない」

 凜さんは、私を見つめながら何か違うものを見ているようだった。

 だが、そんな表情も長くは続かず、元に戻る。

「さて、事情は分かった。それで、どうしたい。君は」

「わ、私は……警察には、いけない。友奈を守らなきゃいけない」

「なるほど。それで、今のままの生活を続けるつもりか」

「それは……」

 今のままで生きていける保証なんてない。それは痛いほど分かっている。

 だけど、他にできることもない。

 返す言葉がなく、言い淀んでいると。

「提案がある。私の下にこないか。家も食事もある。悪くないはずだ」

「そんな……いいの?」

「今の生活が好きなら別だが」

「いや! 頼む、お、お願いします」

「決まりだな」

 釈然とした態度で、立ち上がってアンナを呼ぶ。

「そうと決まったら、まず、服を買え。女の子の恰好じゃないぞ、それは」

 ボロボロの服を指差して、アンナに指示を出して部屋を出る。

「じゃ、じゃあ明日、買いに行きましょう」

「やったあ、おようふく!」

 はしゃぐ友奈を見て涙が零れ落ちる。

 ありがとう

 心の中で凜さんにお礼をする。

 友奈の手を握って窓から空を見ると、星々が煌々と懸命に生きていた。

 私たちは新たな人生を歩み始めた。

 

 

 

 

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 本棚で埃をかぶっているアルバムを手に取る。こんな機会でもないと、日の目を浴びることはない。自分のクラスのページを開く。懐かしい面々にあの頃の記憶がよみがえる。

 大好きで大嫌いなあの頃の記憶が。

「これでいいんだよね。乃亜さん、真奈さん」

 私は生かされている。過去に。

 

 チャイムが鳴って先生が入ってくる。生徒たちはそれぞれの席へ着く。先生はいつものように出席を取り始める。

「えーと、阿久井さん……は今日も休みですか」

 阿久井真奈さん、この学校では珍しい、ヤンキーとまではいかないが、やんちゃ気質な人だ。もっとも、多くの人は彼女のことなど気にも留めていない。私だってそうだ。こんな退屈な時間早く終わってあの子に会いに行きたい。凜さんに。

 キーンコーンカーンコーン

 彼女のもとへ向かう。心が躍る。

「凜さん!」

「こんにちは、乃亜さん」

 ああ、美しい。この笑顔を見るために私は生まれてきたのかもしれない。そう思えるほどの幸福を私は感じている。

「今日は中庭で食べましょう」

 持ってきていた二段のお弁当箱を取り出す。私の持てるだけの愛情を詰め込んだお手製のお弁当。

「はい、あーん」

「は、恥ずかしいですよ……でも、おいしい」

 はにかむ凜さんの顔はとても、食べちゃいたいくらい愛しくて、それだけでもう私はお腹いっぱいになってしまいそうだ。

「ねぇ、凜さん」

「はい、どうかしましたか?」

「私達も、もうすぐ卒業ですよね」

「そうですね、大学受験も近いですから」

「だから、私、思うんです。両親に私達のこと、私達の関係をはっきり伝えておこうと」

「……そう、ですね。はい。私もそうしたいです」

 彼女の手に掌を重ねて温もりを感じる。

 凜さんこそが私の幸せの象徴なのだ。だが、

「だめだ」

「お父様、どうして!」

「そんなことも分からないのか、お前はこの火苅家の一人娘だ。お前には家を継ぐべき婿を迎えてもらわなければならぬ」

「ですが……」

「これは、お前のためでもあるのだ。」

「お義父様! 私達は愛し合っているんです!」

「お嬢さん、愛よりも私は家を守らなければならないのですよ。貴女も、統世の者ならご理解いただけるはずだ」

「それは……」

 結局、私達にはお父様を納得させることはできなかった。当然の話なのかもしれない。私達は生まれながらにして良家の血筋という枷をはめられているのだから。

「凜さん、ごめんなさい」

「大丈夫ですよ、説得し続ければわかってくれるはずです」

「ええ、そうね」

 それから、私達は幾度となくお父様に許しを請い続けたが、お父様は聞く耳を持たなかった。

 ある時、私達は認められない苛立ちからか、馬鹿な考えを起こした。家が理由で認められないなら家を出てしまえばいい、と。

 私達は初めて学校をずる休みした。真昼間に歩く街はなんだか新鮮で少し眩しかった。そこで私達は阿久井さんに出会う。

「あ、阿久井さん、ですよね」

「ん、誰だあんたら」

「同じクラスの火苅です。こちらも同じクラスの統世さん」

「ふーん、なんでこんなとこ居んの?」

「えーっと、それは」

「あ、いいや、お腹減ったから。じゃあね」

「あの! 私達もお昼はまだなんです。ご一緒にどうですか」

 それは空腹よりも、むしろ、好奇心からだったかもしれない。いつも学校を休んでいる彼女が何をして過ごしているのか。彼女のことが何か分かるかもしれない。そんな気持ちで彼女を呼び止めた。

 私達は近くのファストフード店へ入る。彼女は意外にも快諾してくれた。

「こんな風になっているんですね」

 自分の目の前にあるハンバーガーを見ながら漏らす。何を隠そう、このような店を利用することは初めて。阿久井さんに手取り足取り、教えてもらいながらやっとのことで注文したのだ。

 阿久井さんはお腹を抱えて笑っていた。

「あんた、どんだけお嬢様なんだよ」

「もう! からかわないでください!」

 よくみると、凜さんも声を殺して笑っている。

「凜さんまで!」

「ご、ごめんなさい、乃亜さん。つい」

 彼女と食べるハンバーガーはとても美味しかった。彼女がいつも何をしているのか、私達が今何をしているのか、など、話は尽きなかった。気付けば、もう夕暮れ時だ。

「あんたらも話してみりゃ、そんなに変わんないもんだな、アタシと」

「私達のこと何だと思ってたんですか」

 一頻り笑いあって、別れる。

「それじゃ、頑張れよ」

 そんな真っ直ぐな言葉を向けられたのは初めてだった。今日で彼女に対する考え方が随分と変わった気がする。

「阿久井さん、いい人でしたね」

「ええ、とっても」

 楽しかった時間を反芻しながら、家へと帰る。すると、お父様から声をかけられる。

「こんな遅くまで何処にいた」

「あの、学校で自習を」

「ふん、まさかあの子と居たのではないだろうな。そろそろ諦めてもらわなければ困る」

「はい…………」

 このような言葉に反発するように私は何度も凜さんと学校を休んだ。近頃は阿久井さんともよく遊ぶようになっていた。その頃には、家に帰る度の冷々とした態度のお父様に、もはや嫌悪さえ感じ始めていた。

 だが、そんな時間にもついに終わりが来る。

「乃亜、みつけたぞ」

「お父様……」

「近頃帰りが遅いと思えば、こういうことか!」

 顔面に平手打ちをくらう。それでも、もはやお父様に対して何も感じることはなかった。

「てめー、女に手ぇ出してどういうつもりだよ」

 阿久井さんが私に駆け寄る。

「お前、統世のお嬢さんだけならまだしも、こんな低俗な者に関わって! 帰るぞ」

 家に連れ戻された私は、酷く仕置きを受けた。また、学校への登校を含め家から出ることを禁じられた。

 家では、一家の恥だと罵られ、人ではないかのような扱いを受けた。それに耐えかねた私は、とある深夜、決意を胸に家を抜け出し、凜さんに連絡を取る。

「もしもし」

「の、乃亜さん!? 心配しましたよ! 学校にも来ないから」

「ごめんなさい、お父様のせいで連絡できなくて。お願いがあるの。頼めるかしら」

「もちろんです。なんでも言ってください」

「今から言う場所に来てほしいの」

「分かりました。すぐに行きます」

 凜さんが来るまで地面に寝転んで待つ。体の奥まで冷気が染みわたって震えが止まらない。それでも、空には数多の星々が美しく光っていた。

 暫く経って凜さんが到着する。こちらの姿を見つけると彼女は驚きを隠せないようだった。

 体中の痣や傷跡に目が泳いでいる。

「酷い……」

「ええ、本当に、でも、来てくれてよかった」

「もちろんです。乃亜さんの頼みなら何でも」

「ありがとう。凜さん。でも、ごめんなさい」

「乃亜さん……?」

「最後のお願い。私と一緒に来てくれませんか」

 橋下の川を指差す。

「乃亜さん」

 少しの間の後、彼女は静かにうなずいた。

 欄干に並んで腰かけ、身を寄せ合い、手を繋ぎ合い、見つめ合う。凜さんの鼓動が分かる。私達は今一つになったのだ。月明かりが私達を祝福し、照らす。

 光の中で初めてのキスを交わす。

 ああ、これが幸せなのだ。

 私達は深い愛へ落ちていった。

 

 

 ぼんやりと目を覚ますと見慣れない天井が。

「――ん!――――凜!」

「あ……くい……さん……?」

「よかった……!」

 身体が動かない。全身が痛い。

 だが状況は分かった。私は、生きている。

「の、あ……さ、んは……?」

「……」

 阿久井さんが首を横に振る。

 

 死んだ。

 一人で。

 私だけが生きて。

「あ……あああ……ああああああああああああああああああああ!」

 窓を開けて飛び降りようとする、想像。それを実現できるほどに体は動いてくれない。ただ自分の無力さに打ちひしがれていた。

何をすることもできず、死体のように病院で治療を受ける。セラピストを名乗る医者が話しかけてくるが、何を言っていようが、どうでもよかった。頭の中は自分だけ死ねなかった後悔だけがぐるぐると渦巻いていた。

ある日、阿久井さんがお見舞いに来てくれた。

「よお」

「……」

「大分、よくなったな」

「……」

「橋から転落なんて、運が悪いよな」

「……ちがう」

「え?」

「心中……しようとしたんです……」

「は……? うそ、だよな? どうして!?」

「私達は結ばれないから。そんな世界に意味なんてないですよ」

「なんで……だからって、自殺なんか!」

「こうするしかないんですよ! 許されない人たちの気持ちを少しでも伝えるためには」

「っ……!」

「でも……死ねなかった……私だけ」

「………………本当に、本当に乃亜は凜に死んでほしかったのか……?」

「はい、一緒に死のうって、キスをして飛び込んだ」

 身を突き刺すような水の冷たさが鮮明に思い返される。乃亜さんと触れていた手、唇、それだけが温かかった。

だんだん、息が苦しくなって、繋いでいた手が震えて離れて、意識が遠のいていく。

その時、声を聴いた。水の音に邪魔されながらも微かに、生きて、と。そして、強く誰かに押された。水面の方へ。確かに。

「乃亜さんが……私を、助けた……?」

 そんな……なんで、一緒に死ぬはずだったのに……。

「愛してる人に死んでほしい人なんかいないだろ……」

「でも」

「もういい、凜は生きてる。それだけは事実だ」

「……」

 失敗したのか、乃亜さんが助けてくれたのか。本当のところはわからない。でも、生きている。

 それなら。

 

 その後、完治した私は病院を退院。ニュースでは、受験の重圧によって一名の女生徒が自殺をしたと報道されていた。家族からの仕打ちに耐えかねて、私と一緒に心中を図ったという事実は一切発表されなかった。何者かの警察への圧力によって。

私は警察、学校へ抗議したが状況は変わらなかった。命を懸けて、想いを遂げようとした乃亜さんの死は、ただの自殺として処理されて消えていった。

 そんなことに耐えられるはずもない。

 だから、私は誓った。私が世界を変えるのだと。そのために、一族の権力を、私達を踏みにじったそれを利用して。

 

 私は、統世凜なのだから。