今日も電車は動いている

             空星 灯音

 

 

 

 サッカーボールがグラウンドの至る所で跳ねている。

(いいや、これは跳ねているという感じじゃないよな)と、湖乃美は心の中で訂正した。

 中高ともに体育会系の部活に入っていた多くの生徒が蹴るボールは、目に見える弧を描いて飛んだりしない。地面に何度もぽんぽんと落ちて速度を落とすことなく、直線で来る。しかし、彼らもプロではないので、狙いがパス練習をする相手の足元から外れることもよくある。

湖乃美は数歩横に歩いて遠くに転がりかけたボールを足で止めた。

「わーっ、ごめーん!」

 隣のグループからこの言葉が聞こえるのは何度目だろう。

 ショートかボブか、その中間くらいの髪の小柄な女子生徒がまた運動場の隅に駆けていく。目線の先には勢いづいて壁に当たらない限り止まりそうにないボール。

 新学期以来、初めて全員で行われることになった体育。今まであの子の印象はクラスの中でも薄かったけれども、今日隣でやっていた個人練習は上手とは言い難いが下手でもなかった。相手のボールも強すぎたのだろう。

 湖乃美はそう思っただけですぐ相手の方に向かってパスを返した。

 

 

 今日もやってしまった。

 ミスしても笑ってごまかしているけど、たぶん下手だということはばれている。

 ボールの回収をした文葉は皆のところに戻る帰り道、ひときわ強くボールを蹴った。力は弱いが変な場所から力を込めてしまったため、また違う方向へと走っていく。手で運べば良かったと少し後悔した。

 距離の読みを誤って勢いのあるボールとぶつかった右足の痛みが、まだ残っている気がする。皆は心配してくれたが、何度も練習してきた人にとっては何でもないものだろう。実際、どこも怪我していないので、「心配しないで」と笑顔で答えた。

 考えている間にもボールが離れていく。速度は遅くはなっているが早めに手に取らなければと焦る気持ちに、普段あまり動かしていない足が追い付かなかった。

 何もないようなところで足が引っ掛かったと思った時はすでに膝から地面に滑り込んでしまっていた。

「いった……」

視線は集まっていないが、少し後ろを振り向けば皆がすぐに文葉の姿を見ることができるくらい近い場所で転んでしまったことに、体を起こしてから気づく。

血は出ていないので早く見られないうちに立ち上がろうと文葉は前を向いた。

「大丈夫?」

 見慣れない靴と足元のサッカーボールから視線を上げると、少し先に立つ髪の長い女子と目が合った。

(誰だっけ、えっと)

「守口さん……」

「守橋。守橋湖乃美。……これ」

 サッカーボールが一つ転がってくる。ボールに続いて彼女自身も近づいてくる。

 情けなさや自分への苛立ちで一杯になった心の器をひっくり返してしまわないように、文葉はそっと立ち上がってボールを取った。

「大丈夫だよ。ありがとう。無理に取ってくれなくても良かったのに」

 いつものように笑いながら言ったつもりが余計なことを言ってしまった。たまに教室で見るだけでほぼ話したことがない、普段なら気を使うべき相手のはずなのにどうしてなのか、文葉にもわからない。

 しかし顔色を窺っても、湖乃美の表情はショックを受けたようには見えなかった。ただずっと目線が合わない。こちらを見ないまま口が開いた。

「大変そうだね」

「えっ?」

「守橋さん!ねえ……」

 湖乃美のグループの生徒が呼んでいる声。クラス全員が会話しながら練習しているため、名前以外は何を言っているのか聞こえない。

「……じゃ、じゃあ」

 そのまま湖乃美は走って仲間のところに戻っていった。

(大変そう?)

 残された文葉は、ボールを抱え、湖乃美と同じように戻ろうと歩き出しながら考える。

 その場の空気を乱したくない。

 どれだけ下手でも、周りの楽しい気持ちに水を差さないようにできるだけ苦手という感情を出さない。

自分もできるだけ楽しめるようにする。

 他の人と同じようにできない、取り柄がない自分がこれだけはと意識していたはずのことも、周りから見てできていなかったなら、どうしたらいいんだろう。

 文葉は再び練習に加わる。蹴ったボールは勢いもなく二、三回跳ねた後、ころころと転がった。

 

 

 道の先に見える夕日が眩しすぎて、一瞬どこに立っているのかわからなくなりそうだった。

 一人きりで足を止める。少し後ろを歩いていた女子生徒の集団が、急に立ち止まった湖乃美をちらりと見て避けていった。

 しばらく歩けば駅だ。前を行く生徒たちの騒がしい声もそのうち聞こえなくなるだろう。

 考えているうちに夕日のまだオレンジ色の光が遮られ、湖乃美は普段と同じように改札を抜けた。

 人気の少ないホーム。反対側の方向に走っていく電車がちょうど止まっていて、多くの生徒が乗車していた。それらからは背を向けて、湖乃美は遠くの踏切からのかーんかんかん・・・という音に耳を傾けた。音楽をイヤホンで聞く習慣はない。今のように向こうの電車が発車する音や、目の前にやってくる電車の音を聞いておかないと、怖い気がしていた。

 ドアが開くと、珍しく誰も座っていない車両である。貸し切り状態だ。

 待っていたその電車に乗ったものの、今日はなかなかドアが閉まる様子が見られない。時間を一、二分勘違いしているのかと座ったまま電光掲示板を見ると同時に発車を知らせる音楽が耳に届いた。

 今日はたまたま気持ちがはやっていただけだった。だから、車外を見るために後ろを向いていた湖乃美が姿勢を戻そうとしたとき、急に駆け込んできた同じ制服の生徒と目が合ったことも、偶然でしかないのだ。

 

 

「守橋さん」

 返事を期待しているわけではない、居心地の悪さが限界に達しただけ。文葉は心の中で伝わるはずのない言い訳をする。

 今週から塾の時間を早めていたのを忘れていて、慌てて乗った電車にいたのが今日話したばかりの同級生だけだなんて、入学したての皆が友達を探している時期ならまだはしゃいだ風に声をかけられるのに、今の状況は気まずい以外の何物でもない。

さっきからどこに座ればいいのかわからず、湖乃美の座っている場所の近くのドアの前でつり革をつかんでいる。窓には、夕日を隠す大きな雲と、薄暗さと明るさを無理に共演させた空の上に、うっすら不機嫌そうな自分の顔が映っていた。

「……えっと」

体育の時とは違い、眼鏡をかけている湖乃美は、文葉の反対の窓に体を向けているが、ずっと膝ばかり見ている。人違いをしたのかと錯覚しそうになって、感じる必要のない恥ずかしい気持ちを文葉は振り払った。

「今日の体育の話なんだけど」

 どうせ十駅先くらいまでここに居続けなければいけないのだ。気になったことを聞いて少しでも気分を晴らしてしまおうと思った。

「そんなに私、大変そうに見えたかな」

 湖乃美が顔を上げる。自分が言ったことも忘れているように見えるきょとんとした顔が少し可笑しかった。

「ほら、私下手だからあんな風にボール取りに行かなくちゃいけないし、何も上手くできないから誰にも何かを教えてあげられないし、助けてもらわなきゃいけない……」

「違う……」

 湖乃美が文葉の言葉を遮るようにいきなり声を出した。ちらりと文葉の鞄の側面を見ているのは定期に書かれた名前を確認しているのか。そこまで気にしてしまう自分を文葉は嫌っていた。

 床に目を向けて湖乃美は続ける。

「ふみは、ちゃんのボールが、自分のを取りに行ったときに転がってきたから。結構上手い子とか、力の強い子達と一緒に組んでいるのを見ていて、差があると大変だなって思ったのが口に出ちゃった。それだけ」

 自分の名前の読みを当てられたことにも驚くけれど。

それは肯定と同じじゃないの。

 文葉がそう返すより先に湖乃美は「あっ・・・またやった……」と頭を抱え始めた。

「だから話したくなかったのに。いつだって、私は人を傷つけるような言葉しか言えない……」

 独り言だった。一人で言うのに慣れ過ぎている、自分に語り掛けているかのような、文葉相手よりずっと滑らかな言葉だった。

「じゃあ何回でもいいから言葉を選びなよ。言い直しても、時間がかかってもいいから、ちゃんと教えてよ」

 文葉はらしくないほどに思ったことをそのまま言っただけだった。しかしそれだけでも湖乃美は顔を上げてくれた。緊張からか息をつめて数秒目を合わせていた。湖乃美が肩の力を抜く動作とともに握りしめた手元の鞄の紐に目線を戻す。

「はぁ……。人と目を合わせるのも苦手なままだあ。……パス練習も毎回たまたま同じかあまり強くない実力の人とやれているだけで、実は得意じゃない。ボール見て相手は見れていないんだ。……だから、ふみはちゃんは上手だとは言えないけど、でも、ちゃんと組んでいる子とコミュニケーション取って、できているのは……いいなあと思った。たぶんそれが、なんというか、いろんなことの、本質じゃないかな。私は……羨ましい」

 心にぐさりと来る言葉がないとは言えないけれど、大事なことは伝わっていた。自分の思い込みで落ち込んでいたけれど、それに関しては杞憂だったのだ。そしてそれ以上に、言葉にはない彼女の気持ちが、まっすぐに届いた。

 湖乃美は発した言葉をとても気にしているようで、長い髪を、姿を隠すように体の前に垂らしている。

「うん。ありがとう」

湖乃美の目の前を通り、隣にすっと座る。

いきなり迷惑かなと思ったが、再び顔を出した太陽の赤い光に照らされた湖乃美の横顔は、少し喜びに染まっていた。

 

 

 前に読んだ小説に、ふみはという女の子が出てきていた。

 だから「文葉」はこの読みなのではないかと思って呼んでみたのだと、あの後湖乃美が教えてくれた。

  タイミングさえ合えば塾に行かない日でも駅までともに歩くようになった。本当は話すのが好きだったに違いないのに、いつもゆがんだ形で言葉が伝わってしまうことを言った後に後悔しているのを、帰り道に何度も見た。普段涼しそうな顔で一人何かをこなしている姿とは対極だった。

 今でもやっぱり最初に少しきついくらいの言葉を発してしまうことを恐れて話すことをためらうのは変わらない。私の、人を気にしてしまいすぐに悪い方に思い込んでしまう心も変わらない。

 でも変われるとしたらそれは一人の時ではなく。

 

 右手に持ったスマホが震えた。飛行機雲が青空をしゅうっと通って行った。