ヨゾラの向こうに 宮坂静乃

 

〈あらすじ〉

 朝霧司は、かつて神童と呼ばれていた天才児だった。しかし、ある日を境に引きこもりになってしまう。彼は自室に籠ってオンラインゲームをしながら日々を過ごしていた。

 ある日、いつものようにゲームをしていると、フレンドのコウからオフ会をしないかという誘いがかかる。その誘いを断り切れずに承諾してしまった司は、それをきっかけにまた外に出てみようと決意する。

 

 

 

 柔らかな光がカーテンの隙間から差し込んでくる。朝を告げる光だ。その光を歓迎するかのように小鳥の囀りが響き渡る。

 でも、僕にとってその光は全く歓迎するべきものではなかった。むしろ、早く通り過ぎるのを待つしかないものだった。あの光を見ていると、嫌な記憶が駆け巡ってくるから。

 

 

 神童。

 ――それが、幼いころの僕のあだ名だった。少し周りよりも要領よく物事がこなせただけなのに、いつの間にかそのあだ名が定着していた。そのせいで浴びせられる周りの大人たちからの過度な期待の眼差し。同世代の子ども達からも、「あの子は特別だから」と遠巻きに囁かれるだけで誰一人僕に寄り付いてこなかった。僕はただ、普通に過ごして、普通に褒められたかっただけなのに。いつの間にか、僕は「特別な子」という名前のラベルが貼られていたのだ。

 唯一僕の気持ちを理解して寄り添ってくれるのは、兄だけだった。それ以外は、実の親でさえも、いや、むしろその親が一番僕を苦しめていた。最初は、できたことに凄いねと褒めてくれたのに、いつしかその「できる」を当たり前のように求められていて、逆にできなかった時に責められるようになった。お前は神童じゃないのか。こんなこともできなくてどうするんだ。そう言われて、手を出された。辛くって悔しくて悲しくて、そんな時は決まって兄の胸の中で泣いていた。そんな時、兄はいつだって優しく僕のことを受け止めてくれた。

 できる自分でいたら、あの人たちに殴られなくて済む。あの時はその一心で血の滲むような努力を重ねていた。今考えてみればものすごく馬鹿なことをしたなと思っている。あんな奴らのために苦しむなんて。今の僕だったら鼻で笑っている。結局、あいつらは僕が何をしたところで最後まで全く変わらなかったのだから。

 

 

 ああ、嫌なこと思い出しちゃったな。それもこれもあんな光のせいだ。これ以上この不快なものを見ないように、僕は勢いよくカーテンを閉めた。

 嫌な記憶から逃げるように愛用のPCを起動すると、引きこもってからすっかり慣れ親しんだ電子世界が広がっていた。そう、所謂オンラインゲームってやつだ。今やっているのは世界を救いに行く旅に出るといった王道のRPGだ。とはいっても、僕が主にやるのはゲーム内で知り合ったフレンド達とパーティを組んでこなすようなクエストだ。ストーリー回収なんてすぐに終わるし。僕が主にやっている職業はヒーラー、所謂回復役ってやつで、最初は前に出て目立つようなやつはやりたくないという理由で始めたけれど、案外性に合っていたので今ではすっかり僕のメイン職となっている。ログインして、いつものパーティに行くと、他のパーティメンバーは既に到着していたようで、「遅いよ」とチャットで言われた。それに適当に返してからいつも通りにクエストをこなす。その間もチャットは動いていて、何の生産性も無いような雑談が飛び交う。いつも通りで何も変わらない。誰もプレイヤー自身のことを知ろうとしない。僕にとってはそれがすごく心地良いものだった。

 

 しばらくそうやって過ごしていると、ログイン通知が鳴った。普段は気に留めないそれだけれど、そこに示されていた人物に思わず二度見してしまった。

「コウさん、平日のこんな時間にどうしたんっすか笑」

 驚きのあまりその人物――コウさんに、思わずチャットを送ってしまった。コウさんは、基本的に休日にしか出没しない。ただ、昔やりこんでいたのか腕は確かで。他のプレイヤーも一目置かれている存在だったりする。なんでも万能にこなせるが、特にサポートに回るとその天才的な手腕がいかんなく発揮されるため、パーティに重宝される。

「ふふ、今日は有給とったんだよね。だから、一日中遊んじゃおうと思って」

 その言葉から、ふふんという感じのドヤ顔が浮かんでくる。リアルで会ったことが無いから顔なんて知らないけれど。

「おー、じゃあ、早速行きましょうよ」

 この質問に対して返ってきた答えは当然のように肯定の意であるもので、なんだか嬉しくなった。

 正直に言うと、僕はコウさんとゲームすることがかなり好きだったりする。彼女とゲームしている時はいつもの1.5倍くらいは頭が回るため目に見えて調子が良くなる。僕と付き合いの長いフレンドにはそのことが知られているみたいで、よくネタにされる。

 その理由として、彼女のプレイスタイルが僕と相性がいいからやりやすいというのもあげられるかもしれない。少なくとも、フレンド達には普通にそう思われているのだろう。ただ、僕にとっての一番の理由はそれじゃない。――なんとなく、似ているのだ。兄以外で僕自身のことを見てくれた人に。

 

 

 あれは確か、10年前だから小学生の頃の話だ。神童と呼ばれたことからか、友達が僕を避け始めた時期だったと思う。親が僕を褒めなくなったのも、その頃だった。つまり、僕自身を見てくれている人がいなくなっていた時期だ。当然、当時の僕はそのことに戸惑っていた。周りの視線がすごく怖くて、でも、ビクビクしていたらいじめられそうな予感がしたので強がっていた。安らげる場所が自室しかなくなって、そこで一人で泣く日々が続いた。ひたすらに辛くって、でも、唯一の味方である兄も忙しそうにしていたから誰にも甘えられなくて、あのままだったらとっくの昔に精神がやられてダメになっていたと思う。そうならならなかったのは、あの日あの時彼女に会ったおかげだと今でも思っている。

 

 その日は家にいたくなくて、図書館で勉強してくると言って外へ飛び出した。ただ、市立図書館には行ったものの、勉強する気分になんかなれるはずもない。僕は勉強道具を脇に置いて、適当に見繕ってきた小説を手に取って読んでいた。

 読み終わって顔を上げると、向かい側に見慣れない少女がこっちを見てにこにこと笑っていた。制服を着ている。高校生……というほど成熟しているようには見えないから、中学生だろう。目が合った途端に、中学生っぽい少女はその笑みを更に深めて口を開いた。

「ねえ、その本どうだった?」

 はあ? 思わず素っ頓狂な声が出た僕を笑わないでほしい。そうやって数秒間フリーズしてから、まあまあ面白かった、という旨の感想を零した。

「本当に!!? 良かった~! やっと同志に出会えたよ!!」

 感想を聞いた途端に、中学生は立ち上がりガッツポーズをしながら大きな声でそう叫んだ。おい、場所を弁えろ。さっきから周りの視線が痛いんだけど。僕や周りの視線に気が付いたのか、数秒後には申し訳なさそうに座った。やった後に反省するくらいなら、やる前に周りのこと気にしてよ。小さく溜息を吐くと、中学生はおずおずといった感じで謝罪の言葉を口にした。

「う……、ごめんね。私、今までその小説読んで面白いって言ってくれた人に会ったことなかったから思わず舞い上がっちゃって」

 何その子どもっぽい理由……。なんだか馬鹿らしくなって、思わず笑い声が漏れ出てしまった。中学生は、突然笑い始めた僕のことをぽかんとした顔で見ていた。なんだかその様がおかしくて、更に笑いそうになるのを必死に堪える。彼女と同じ失敗はしたくなかった。

「はは、ごめんなさい。っくく、しょんぼりしているあんたの様子が、なんかおかしくて」

 だめだ、完全にツボに入った。これ以上ここにいたら周りに迷惑をかけてしまう。場所を変えましょう。そういうジェスチャーをすると、中学生はやや困惑したような笑顔を浮かべながらも席を立ってくれた。

 

 図書館の外に出てから、隣接された公園にあるベンチに座るまでの間、なぜか笑いが止まらなかった。こんなに馬鹿みたいに笑ったのは生まれて初めてで、自分でもびっくりしている。すみませんとなるべく誠意が伝わるように謝罪すると、中学生はいいんだよと笑いながら応えた。

「それに」

「それに?」

「本読んでいる時も私が最初話しかけた時にも、何か暗い顔してたからさ。そうやって笑ってるほうが年相応に見えていいなって。嬉しくなっちゃって」

 中学生はそう言ってはにかんだ。その笑顔は、僕が今まで会った誰よりも綺麗な気がした。

「……あんた、名前は?」

 彼女のことを、もっと知りたいと思った。他人に興味が湧いたのは初めてだった。中学生は一瞬呆気にとられたような表情をしていたけれど、すぐににこにことした笑顔に変わった。

「光――夜凪光だよ! 気軽に光ちゃんって呼んでくれていいよ! 君は?」

「朝霧司。それは絶対に呼ばない」

「司……。なら、つかっちゃんだね! そんなに照れなくてもいいのにー」

「別に照れてねーし……。ってか、変なあだ名付けるな!」

「えー、可愛くていいあだ名だと思ったのになー」

「僕は可愛さなんて求めてない!!」

 そんなやり取りをしばらくしているとなんだかおかしくなってきて、今度は中学生、もとい光と二人で笑いあった。こんな経験初めてで、なんだか胸の奥が少し暖かくなった気がした。

 これが、僕と光の出会いだった。

 

 

「ヨゾラ、そっちのアイテム回収お願い!」

「りょーかい! 任せといて、コウさん」

 やっぱり、コウさんとのゲームは楽しい。さっき時計を見てみたら、もう夕方になりかけるような時間だった。因みに、ヨゾラっていうのは僕のネット上でのハンドルネームだ。適当に決めたやつだけど結構気に入っている。――よし、クエストクリア。流石に少し疲れたな。その場で伸びをすると肩あたりで少し軋んだような音が鳴った。再びPCに向き直って再開しようとすると、控えめに扉を叩く音が聞こえてきた。僕の部屋を訪ねてくる人なんて一人しかいない。ちょっと抜けるねとコウさん達にことわってから、PCを閉じて扉を開ける。

「兄さん、どうしたの?」

 扉の向こうには、僕の唯一の家族である兄――誠兄さんが微笑みを浮かべながらたたずんでいた。

「ちょっと、いつものやつ頼みたくて」

 兄さんは時々こうやって仕事の手伝いを頼んでくる。兄さんは、とある企業の社長をやっている。僕と一回り近くは離れているといってもまだ三十路で、なかなかに大きな企業のトップにいるというから、身内贔屓を除いたとしてもなかなかの手腕だと思う。それを僕を養うために作ったというから、すごいと思う。今こうして養ってもらっているし、僕は兄さんの頼みは断れない。まあ、万一僕に拒否権があったとしても行使しないと思うけど。

「分かった。すぐ行くね」

 僕はそう言いながら、数日ぶりにリビングに足を踏み入れた。

 

「うん、やっぱりこういう系統の仕事は司に任せるのが一番だね」

 兄さんは、そう言って僕の頭を撫でてくれた。ただ単に計算間違いがないかチェックするだけの簡単な仕事だけど、兄さんは終わった後に必ずこうやって優しく褒めてくれる。兄さんは昔からいつもそうだった。周りがやらない分、僕のことをたくさん褒めてくれる。失敗しちゃったとしても、精一杯励ましてくれる。兄さんがいなかったら、僕はとっくの昔にこの世から去っていたと思う。

 僕が今でもこうして生きていられるのは、この兄さんの励ましのおかげだと言っても過言ではない。僕にとって、兄さんは日傘のようなものだ。大嫌いな光や周りの視線から僕を陰に隠して守ってくれる。そんな、なくてはならない存在。だから、同時に不安にもなる。僕は兄さんがいなきゃ生きていけないけど、兄さんは僕がいなくても生きていけるから。いつか捨てられやしないかと、いつも心のどこかで怯えている。

「どうしたの? 体調悪い?」

 少し様子がおかしく見えたのか、兄さんが撫でる手を離して尋ねてくる。

「ううん、大丈夫」

 咄嗟に笑顔を作って応える。こんな悩み、兄さんに言えるわけがない。部屋に戻ろうと歩き出したときに、後ろから兄さんの声が聞こえてきた。

「……そう? ならいいけど。何かあったら言ってね」

 兄さんはそう言って引き下がってくれた。本当に心配しているような声色に少し罪悪感が湧いたけれど、僕はそのまま振り返らずに部屋に戻った。

 

 部屋に戻るやいなや、据え置き型のゲーム機の電源をつける。そこに表示されているのはズバズバ敵を倒していく無双系のゲームだ。なんだかむしゃくしゃした時にはこれが丁度いい。ストレス発散にもってこいだ。いくつかステージをクリアして、ようやく波立っていた気持ちが落ち着いてきた。再びPCを開いて中断していたゲームを再開する。

 遅い、というチャットに軽く謝罪の言葉を返す。いくつかボスと戦ってひと段落ついたときには、なぜかオフ会についての話題がチャット上に流れていた。興味が無かったのでただ黙ってその動向を見守っていたら、突然コウさんから「ヨゾラはこういうの興味ないの?」と話を振られた。待って。僕がヒキニーだって、コウさん知ってるよね? コウさんはこうやって他人の事情なんて知らないみたいな言動をとることが多々ある。ゲーム中は完璧なサポートをするのに、こういうところは残念だ。ただ、こういったところもあの人を彷彿とさせる要素になっているというのだったりする。あの人のこういうところに昔の僕は救われていたというのだから、いまいちそれが憎めなかったりする。正直、そんな僕自身の方が残念だと思う。

 

 

 光は、年上だと思えないくらいに幼かった。外見的な部分ではなく、内面的な部分で。端的に言ってしまうと、精神年齢が幼いのだ。ちょっとしたことですぐ喜ぶし、子供だましに引っかかるし。外見は僕が今まで見た中の誰よりも整っているのに。だからこそ、内面の幼さが目立つような気がした。ただ、僕はそのギャップが嫌いではなかった。

 

 あの出会いから、僕は暇を見つけては図書館に通うようになった。光を見つけた時は、毎回本の感想について語り合っている。流石に図書館内だと迷惑になるので、大抵は出会った日にも来た公園のベンチでやっている。散々幼いだか何とか言ったけれども、光の本の批評だけは的確だと思う。僕もその中で学べることは多い。それでも彼女の級友は、難しいだけで終わらされるらしい。この良さが伝わらないなんてもったいない。そう言ったら、賢い子だねと頭を撫でられた。こういう時だけ年上面するのはずるいと思う。褒められ慣れていないのも相まって、猛烈に甘えたくなる。

「たまには素直になってくれてもいいんだよ、つかっちゃん」

「ニヤニヤすんなよ……」

 なんだかんだ言って全部見透かされているのもずるい。光の前だと、どうも調子が狂う。なんだかそれが悔しくて、でも、悪くないなって思っている自分もいて、なんだか複雑な気分だ。

 

「そういえば、つかっちゃんよくここにいるけれど、暇なの?」

 小学生って、友達と遊んだりして忙しい印象があったからさ。

 そう無邪気に言ってのける光に、悪気なんてものは無いのだろう。素直に不思議がっていることぐらい、表情を見ればわかる。ただ、それは僕を傷つけるにはこれ以上ないくらいに相応しい言葉だった。

「つかっちゃん?」

「……っ」

「……泣いてるの? ごめん、私そんなつもりじゃ……」

 顔を見なくたって、光が動揺していることがわかる。

「泣いてねーから。……それに、別に光が謝ることじゃねーし」

 そう言ってそっぽを向いた。本当に、光が気に病むことじゃない。

「強がる場面じゃないでしょう!」

 その叫びとともに頬を掴まれて強制的に顔を上向かされた。光の顔を見た時、ぎょっとした。綺麗な顔を歪めて涙を零していたのだ。

「なんで、光が泣くの……」

「つかっちゃんが変に強がるから、かな」

 本当に訳が分からない。光のことについては、分からないことだらけだ。

「つかっちゃん、悩み、あるんでしょう? 絶対に他言しないから、お姉さんに話してみてよ」

 びっくりするくらいに優しい声だった。涙を乱暴に拭った後に見せた笑顔もその声と同じくらい優しくて、今度は僕の方が泣きたくなった。同時に、光なら大丈夫かなという変な信頼感みたいなものも芽生えていた。彼女の優しさは信じていい類のものだと思う。そう思って、僕は自分の悩みを打ち明けた。ここがほとんど人通りのない場所だったおかげか落ち着いて話せたと思う。

 

 一通り話終えた瞬間に、思いっきり光に抱き着かれた。なぜかさっきよりもぼろぼろと涙を流しながら、辛かったね、つかっちゃんは十分頑張ってるよ、などといった励ましの言葉をくれた。同情されることは嫌いだった筈なのに、なぜか嫌ではなかった。それどころか、なんだか胸の奥がじわりと温かくなるような不思議な感覚におそわれた。そして、気づいた時には僕もぽろぽろと涙を零していた。

 

「情けないところ見せちゃってごめんね」

 少し落ち着いたあとに光はそう言って恥ずかしそうにはにかんだ。少し泣き跡が痛々しくてなんだか申し訳ない気分になってくる。

「いや、そんなのお互い様だしいいよ」

 さりげなく目を逸らして何でもない風に答える。なんだか気恥ずかしくてまともに光の顔が見れない。

「でも、神童って呼ばれ方、なんかかっこいいよね」

 一瞬、耳を疑った。その台詞を僕の前で言うのか。素直な所感だとしても無神経すぎる気がする。でも、嘲りの意味を持って言ってくる奴よりは100倍マシか。

「いや、それ僕の前で言うかな普通」

「……あ、ごめん。私考える前に脊髄反射的に言葉出ちゃう時があって」

 なんかもう一言くらいは言いたかったのにそうやってガチで謝られると何も言えなくなる。ああいうあざとさはどこで覚えるのだろうか。

 

 

「特に興味はないっすね」

 そう、簡潔な断りの文を入れる。これで引き下がってくれるといいんだけど。オフ会なんて、どう考えてもヒキニーの僕にはハードルが高すぎるし。

「えー、そう言わずに参加しようよ! 一回行ってみたら楽しいかもよ」

「いや、別に。めんどくさいですし」

「そんなこと言わずに一回だけでも行ってみようよ」

 コウさんは時々よく分からないところで頑固になる。ただ、ここまで引き下がるのは珍しい気がする。

「頑固っすね。そんなに僕に会いたいんすか笑」

 少し冗談交じりにチャットを返す。頭の中では、どうやって体よく断るかということでいっぱいだった。

「うん。一回リアルで会ってみたいなってずっと思ってたんだ」

 待ってそんなドストレートに言うのかよ。そんなにストレートに会いたいなんて言われたことないからめちゃくちゃ恥ずかしい。僕にそういう耐性は無いんだよ。

「だから、ダメかな?」

 そのあざとさどこで覚えてくるんだよ。そう言われたら断れないじゃん。

「分かりました。コウさんとだけならいいっすよ」

 これが僕にできる最大限の譲歩だ。他のフレンドにいじられるかもしれないが、なるべく下手なリスクは減らしたいんだ。それに、もしコウさんがあの人――光なら、なおさら二人きりで話したい。あの別れの日から今まで、心のどこかで再会を願っていたのだから。

 

 

 その別れは、光の一言によって不意に訪れた。

「明日、引っ越すんだ」

 光はいつもと変わらない声色で、何でもないような風にそう言い放った。僕たちが出会った日からおよそ二年の歳月が過ぎた、寒い春の日のことだった。理由は、なんとなくわかる。遠方か全寮制の高校を進学先に選んだとか、そういうことだろう。そういえば、光が所属していたであろう近所の中学校の卒業式が昨日あったとどこかで聞いた。おまけに、光が現在中学三年生であるということはもう把握している。

「……なんも聞かないんだね」

「理由はなんとなくわかるからね」

 相変わらず、つかっちゃんは頭いいんだね。

 光は僕の言葉を聞いてから、少し寂しそうに微笑んでそう呟いた。

「そこが僕の唯一の取り柄らしいからね」

「うわあ、可愛くないな」

「今更過ぎるでしょそんなの」

「それもそうだね」

 こういうやり取りもいつもと変わらない。それから、またいつも通りに本の批評をし合う。これが最後なのかなと思うと、少し胸の奥が痛くなった気がした。

 

「ありがとう。つかっちゃん、君と過ごした時間は結構好きだったよ。あと、これ、餞別ね」

 いや、餞別送るのってどちらかというと僕の方でしょ。そんなことを心の中でつっこみつつ差し出された袋を見る。開けて開けてとでも言いたげな光の視線に従って開けてみると、間抜けな顔をした熊が引っ付いたストラップだった。え、なにこれ。

「かわいいでしょ? 私が好きなゲームのマスコットキャラクターなんだ!」

 正直、すごくうきうきとした感じでこの熊について説明している光の方が、何百倍も可愛いと思う。絶対に口には出さないけど。

「いや、別に……」

「もう、そこはお世辞でも何でもいいから可愛いって言うところだよ!」

 はあ、だからそのあざとさどこで覚えてくるんだよ……。

「はいはい、可愛い可愛い」

「絶対思ってないでしょ!」

「お世辞でいいって言ったの、光じゃん」

「それはそうだけど」

 なんかそうやってむくれられると、僕が悪いみたいになるじゃん。沸々と罪悪感も湧いてくる。何なんだよ。

 しかたなく謝罪の言葉を口にすると、光は目に見えて上機嫌になった。本当に単純な人だ。

「まあ、とりあえず、それを私だと思っていればいいよ! 寂しい時は、そのストラップを見て私のことを思い出してね!」

「誰が寂しがるって?」

「今日くらい、素直になればいいのに」

「僕はいつだって素直だけど?」

 そう言うと、おかしそうに笑われた。本当なのに。

「あはは、つかっちゃんは変わらないね。……あ、そろそろ帰らなきゃ。またね!」

 まるで明日もまた会えるかのようなテンションで光は別れの言葉を紡いで背を向けた。光の背中が完全に見えなくなったその瞬間、なんだか無性に泣きたくなるくらいに大きな寂しさが襲い掛かってきた。思わず、さっき貰った熊を強く握りしめた。悔しいけれど、少しだけ寂しさが紛れた気がした。

 

 

 あれから、月日が経っていく毎に光の存在の有難さを痛感するようになった。結局、あの熊は精神安定剤としてものすごくお世話になった。兄さんが忙しくて僕といられない時には、光と批評し合った本を読んで、気分を落ち着かせたりした。それでも、一歩自分のテリトリーから出るとそこには味方なんていなくて、だんだんと朝が嫌いになった。外に出なければいけなかったから。

 

 18の誕生日に兄さんと一緒にあの家から抜け出した時には、一気に肩の力が抜けて安心感やこれまで抑圧されてきた辛さなど色々な感情でぐちゃぐちゃになって、兄さんの胸で思いっきり泣いた。今までで最高の誕生日だった。

 ネットの世界に足を踏み入れたのもちょうどその頃からだった。朝日が怖くて外に出られないという僕に兄さんが与えてくれた一台のPC、それが全ての始まりだった。

 顔の見えない人々との会話がここまで気楽なものだなんて知らなかった。もちろん、最低限のマナーやルールがあって、その最低限すら守れないような馬鹿もいるけれども、そういう輩とは関わらなければいいだけの話だ。とりあえずやってみたら? と兄さんに勧められたコミュニケーションツールの気楽さに僕はどハマりした。そして、その次にそのツールで知りあった友達に勧められたオンラインゲームにもどハマりした。因みに、そのオンラインゲームが、今さっきまでやっていたRPGだ。あの時、あの時光からもらった熊が出てくるゲームも教えてもらったけど、それは好みに合わなかったのかあまりハマらなかった。

 

 僕は今、そんな懐かしい思い出を反芻しながら、必死に現実逃避をしている。

 なんで勢いのままにコウさんの誘いを受けてしまったのだろうか。コウさんが本当に光だっていう確信もないのに。光だったら別にいいけれども、そうじゃなかったらとんだ地獄だ。朝の光と周りの視線が怖い奴なんかが初めて会った人と二人きりで一日を過ごすとかどんな鬼畜プレイだよ。この三年で気になるゲームは一通りこなしてきたつもりだけど、こんなに難易度高いの見たことないぞ。

 ……今からでも、断るの遅くないかな。そうだよね。まだ遅くないよね。昨日は押しの強さに流されてつい、で、いけるよね?

 そうと決まれば、と早速コミュニケーションツールの方を開く。こういう連絡はこっちの方が便利だ。ダイレクトメールの通知が入っていることについて開いてみると、コウさんからこんなメッセージが届いていた。

「昨日はオフ会のお誘いを受けてくれてありがとう! 私すごく嬉しかった! 早速だけど、ヨゾラの希望を聞いてもいい? 当日は私が完璧にエスコートしてあげるよ」

 めっちゃ楽しみにしてるやつやん! こんなん、断れるわけないだろ……。

「日付はいつでも。あんまり人が多いところは嫌っすね」

 つい、こんなメールを送信してしまった。何なんだよ僕。

 ……しょうがない、もう後に引けないし頑張ってみよう。僕だって、いつまでもこのままじゃいられないからね。そこから、僕の脱・ひきこもり作戦が遂行された。

 

 その話をした時、兄さんにものすごく心配された。でも、頑張るなら協力するよ、と言われた。本当に兄さんはできる男だと思う。

 まずは、夜に外に出てみることにした。一人じゃ不安だ、と兄さんが譲らなかったので、兄さんと二人で外食するということを今日のミッションにした。それが決まった後、兄さんはとても張り切っていた気がする。まず、どこからともなく取り出されたたくさんの衣服を片っ端から着せられた。普段着に使えそうなものからフォーマルなスーツ、挙句の果てにコスプレまがいのものまでたくさんあった。それから、色々な人に色々なところを手入れされた。正直かなり疲れたが、今まで見たこともないくらいに楽しそうな兄さんの姿を見ていたら、なんだか悪くないなと思えてきた。兄さん曰く、久々の外出なんだから少しはおしゃれしなくちゃね、とのことだった。こうして、僕は隅々まで綺麗に手入れされた状態で久しぶりの外出の日を迎えた。

 

 空は暗いのに街は明るくて騒がしかった。夜の街ってこんなに賑やかなものだってことをこの時僕は初めて知った。

「連れていきたい場所があるんだ」

 行く前に、兄さんは笑顔でそう言っていた。そんな風に言われると俄然楽しみになってくるから不思議だ。前はあんなに嫌だったのに。

「あ、ここだよ」

 そう言って指し示したのは、おしゃれな雰囲気のカフェだった。兄さんと話していたら、途中ですれ違う人の視線も気にならなかった。

「ここ、友達がやってい

るんだ。メニューも豊富で結構美味しいんだよ」

 そう言いながら兄さんは扉を開けた。ドアベルのカランとした軽快な音が店内に響き渡る。内装もおしゃれでいい感じだと思う。さすが兄さんの友達。センスがいい。

「いらっしゃい。……ああ、なんだ。誠か」

「なんなんだよその反応は。今回は俺一人じゃないのに」

 店員と思しき青年が、兄さんの姿を見た途端にくだけたトーンになった。兄さんも心なしか気を緩めている気がする。もしかして、彼が件の友人なのだろうか。

「紹介するよ。俺の自慢の弟、司だよ。……司、彼は俺の親友の優馬。ここのカフェの店長さんなんだ」

「あ、よろしくお願いします……」

 慌てて頭を下げる。唐突に紹介されて思わずどもってしまった。

「そんなに緊張しなくてもいいよ。あ、ここで立ち話されても邪魔だから、こっちの席にどうぞ」

 そう言った優馬さんに案内されたのは店の奥の方のカウンター席だった。ここ、俺の特等席なんだ。席に着くまでの間に兄さんがそう、こっそりと教えてくれた。

 カウンター席に着いた僕たちは、早速注文をした。僕は兄さんに勧められたオムライスを、兄さんはサンドイッチセットを頼んだ。

 

「そういえば、司くんのことについて誠に色々聞いてたんだよね」

 その優馬さんの言葉に、思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになってしまった。

「え、へ、変なこととか話してないよね……? 兄さん」

「変なことなんて。司が可愛かったってことしか話してないよ」

 何その不安しかないような答え方は。

「うん、まるでバカップルの惚気を聞かされているようで色々としんどかったよね」

 僕たちが使ったお皿を下げながら優馬さんが爽やかな笑顔を浮かべながら答えた。ねえ、なんかすごく恥ずかしい出来事も話されてる気がするんだけど。なんだかいたたまれなくなって帰ろうよと声をかけて兄さんを立たせた。

「もう、そんなに照れることないのに」

「からかわないで兄さん。……あ、すごく美味しかったです。また来ますね」

 兄さんのことは無視して外に向かう。散々からかわれたけれど、このカフェの居心地自体は良かったと思う。また来るっていう言葉がナチュラルに出てきて驚いた。

「おー、ぜひぜひ。ほら、誠も金置いて早く帰る。一人じゃ心配なんでしょう?」

 そんな会話を後目にさっさと帰路につく。何だか兄さんがいない分、行きよりも静かな気がした。

 あれから数分後に後ろから聞こえてきた足音にほっとしたなんて、悔しいから言ってやらない。

 

 あれから、何回か外に出る練習がてらにあのカフェに通っていた。まだ朝から出られるわけじゃないけど、何とか曇りの日の昼間になら外に出られるようになった。時々他人の視線が怖くなる時もあるけれども、今では何とか歩いていられるようになった。

「こんにちは、優馬さん」

「あ、司くん。いらっしゃい。今日は何がいい?」

「ナポリタンで」

 僕は初めて来てから一か月くらいしか経っていないのに、すっかり常連さんの仲間入りをしていた。初めて来た時から思っていたけれども、この店は本当に居心地がいい。この居心地の良さが僕自身のトラウマの克服に役立っている気がするから、このカフェの皆と紹介してくれた兄さんには勿論だけど、僕が外に出るきっかけを与えてくれたコウさんにも感謝したい。

 そこで思い出した。あんなに行こうってうるさかったのに、あの時来たダイレクトメール以降オフ会の話に一切進展がないのだ。ゲーム上ではいつもみたいに会うし、そのまま一緒に戦ったりするのだけど、なぜか全く話題に出てこない。なんとなくこっちからは声をかけづらくてそのまま一か月が経ってしまった。

 そもそも断り切れずに押し切られた形で進んだ話だ。僕がそれを気にする義理なんて全くないと言ってもいいと思う。なのに、なんでこんなに気になってしまうのか。一つだけその理由に心当たりがないことも無いのだけれども、それを認めるのだけは絶対に嫌だった。

 

 すっかり聞きなれた軽快なドアベルの音。誰かが来店したみたいだ。若い女性店員が応対するために入口の方へ向かった姿を視界の端で捉えた。

「あ、光ちゃんじゃない。いらっしゃい」

 めちゃくちゃ聞き覚えのある名前に思わずものすごい勢いで入口の方に目を向けてしまった。客として来た彼女と目が合った瞬間に、僕の方に向いて出会ったときに見せたものとそっくりな笑顔を浮かべた。

 

「リアルでは久しぶりだね、つかっちゃん」

 当たり前のように僕の隣に腰かけた光は、珍しいおもちゃを見つけた幼子のような笑顔で、まだ少し混乱している僕の方を見た。昔あったあどけなさが薄れて女性的な魅力が増した外見とは違って、口調や表情は昔のままでなんだか安心した。……ちょっと待って、今リアルでって言わなかった? 僕の聞き間違いじゃないよね。なんか全体的に今の状況に頭が追いつかないんだけど。

「あはは、混乱してる。可愛いね、ヨゾラ」

 光のその言葉ですべてのピースがはまる音がした気がした。そーいうことかよ。

「はあ、やっぱりあんたがコウさんかよ……。あと、もしかしなくてもあんたもグルでしょ、優馬さん」

「グルだなんて、酷い言われようだなあ。まあ、あながち間違ってないけどね。可愛い従妹と親友の頼みだったからね。君のトラウマの克服を手伝ってほしいって。そんなに思ってくれる人がいるなんて、司くんは幸せ者だね」

「ゆうくんもみんなもすごく協力的だったんだよ!」

 そうやって嬉しそうに笑う二人を見て、敵わないなと思った。僕を外へ連れ出す、たったそれだけのことに全力になってくれる人がいる。その事実がたまらなく嬉しくてくすぐったくて。なんだか今なら朝日を見ても嫌な気持ちにはならない気がした。あくまでそういう気がしただけだから、実際はどうなるか分からないけれど。

 

「……あ、オフ会の話、無しになったわけじゃないからね! つかっちゃんがちゃんと朝日の下を歩けるようになった時にやるから!」

 そしたら、二人で遊園地とかに行きたいな。別れ際に、光はそう言って少し照れくさそうにはにかんだ。その笑顔があまりにも綺麗だったから、少しドキドキしたっていうのは僕だけの秘密だ。

 

 

 朝の光が嫌いだった。僕を周りの奴らから隠してくれる夜をどこか彼方に追いやってしまうから。でも、僕のために全力になってくれる人達のおかげで少しはその嫌悪感を拭えた気がする。まだ部屋のカーテンは開けられないけれど、いつか開けられるようになれたらいいな。

 

 きっと、夜明けはすぐそこだ。