マザー 大沢 結

 

【あらすじ】

シングルマザーの綾子は中学時代に懇意にしていた悠希と再会する。昔のように仲を深めていく一方で、同じくシングルファーザーの職場の社長からの告白に戸惑う。果たして誰の幸せを優先することが正しいのか、綾子は選択を迫られる―

 

【1】 

 同窓会の通知が来たのはその日の午後だった。中学の同窓会で、もし行くことになれば実に20年ぶりの再会となる。今までも同窓会の便りが来たことは幾度かあったけれど、子育てに追われる身としてはそんなものに顔を出す暇などなかった。

 いつもならさっさと捨てていたが今回は違った。ふと幹事の名前に視線を向けると「大宮悠希」と書いてある。そのたった四文字が綾子の決意を鈍らせた。

 「お母さん、何見てるの?」

 一人娘の悠香が興味深そうに覗いてきた。

 「同窓会の手紙。今回は行こうかなあ。」

 「え。じゃあわたしお留守番するの?」

 悠香は寂しそうに目を曇らせながら小さな声で聞いてきた。

 「一人じゃ危ないでしょ。そうだなあ、おばあちゃんの家で待っててよ。会場からも近いし終わったら迎えに行くからさ。」

 「めんどくさいなあ…おばあちゃんの家何にもないんだもん。」

 「わがまま言っちゃダメよ。おばあちゃんからお小遣い貰えるし別にいいでしょ。それにお母さんだってたまには遊びたいのよ。」

 不機嫌そうにうつむいた悠香は小さな声で呟いた。

 「あーあ、こんな時にお父さんがいれば寂しくなかったのになあ…」

 綾子はそれきり何も言えなかった。

 

 悠香を寝かせた後、綾子はぼんやりと手紙に書かれた「大宮悠希」の文字を見つめていた。綾子はこの十年娘のために自分を押し殺して育児に向き合ってきた。そんな忙しさは時に綾子を一人の女性にする。他人のために生きるのではなく、自分のことも優先したい

という欲求が微かに芽生え始めていた。

 母親失格だな、と毒づきながらも、綾子の忘れかけていた淡い感情が少しづつ色付き始めていた。ただこの感情には名前がなかった。今まで感じたことのない寂しさとも恋しさとも呼べないような感情。その真意を確かめるべく綾子は同窓会に向かうことを決意した。

 同窓会は金曜日の18時から始まった。地元の会場を抑え、質素な電灯の下立食パーティーが執り行われた。綾子の中学校は小規模だったため顔なじみの人が多く、始まると同時に各々昔話に花を咲かせていた。起業した話や離婚した話、海外移住した話など少人数の

割にはそれぞれが濃い人生を歩んでいた。そんな華々しい話を耳にするたびに綾子は虚しさに襲われた。周りの人々と比べて無駄に生きてきた実感が胸をえぐった。

 

 綾子は20年ぶりに再会した親友の薫と一緒に小物をつまみながら、お互いの近況について語り合っていた。今まで同窓会に参加してこなかった綾子は当然ながら初めて知る情報ばかりだったが、不思議と距離は感じられずあの頃と同じように過ごせていた。

 「私34にもなって独り身なのに綾子はすごいね、結婚して立派な子供までいて。」

 話を聞かず勝手に話を進めるところも変わってないなと思いながら綾子は返答した。

 「だから結婚はしてないって。彼は子供出来て結婚する前に事故で死んだんだってば。それに娘には寂しい思いさせてばっかで全然すごくないし…」

 「そっか、綾子も苦労してんだね。そりゃゆっくり同窓会も来れないわけだ。」

 薫は手元の生温い麦茶を飲み干すとまじまじと綾子を見つめて言った。

 「で、今回はまたどうして同窓会来たのさ。娘ちゃんが大きくなったから?」

 実際のところ返事に困った。自分でもこの感情の意図が掴めなかったからだ。同窓会で出会いを求めているわけでもなく、ただ「彼」に逢いたいという感情が綾子を焚きつけていた。無意識の内に視線が「彼」のもとへと向かい、わずかながら頬が緩んだ。

「なるほどね。いってらっしゃい!」

 薫は半ば強引に綾子を「彼」のもとへと押しのけた。戸惑いながら近づいてくる綾子に気付いた一人の男性がこちらを振り返った。

 

 「あれ、綾子じゃん!久しぶり!今まで何してたの?」

 「お、大宮君、久しぶりです…」

 「え、何でそんなに警戒してんの。俺も立花さんって呼んだ方がいい?」

 やはり20年ぶりの再会ということもあって綾子は身構えていたのだが、悠希の声は明るく昔のままで、時間を感じさせなかった。愛想の良いところも身長が高いところもカッコイイところも何も変わっていない。ただ30半ばにしては貫禄がないというか若々しい印象

を受けた。綾子は高ぶる感情を抑えながらゆっくりと話し始めた。

 「何でもない、ごめんね。悠希君も変わってないね。相変わらずオレンジジュースが好きなところとか。」

 「あ、今子供っぽいと思ってバカにしたでしょ。えっと、ここで話すのも人多くて邪魔くさいからさ、ちょっとテラスのほうに出ない?静かだしゆっくり話せるよ」

 綾子は悠希の後姿を追いかけながら今まで感じてきた感情の高ぶりに名前を付けようと試みた。他の同級生に合った時とはまるで違う心のざわめき。恋と呼ぶには軽率だったが、今は他に相応しい命名が出来なかった。

 

 中学に入ったころ、綾子と悠希は隣同士の席だった。クラスの中には知り合いはほとんどいなかったため、二人は寂しさを分け合うように親しくなった。ただ席が近かっただけではなく、帰り道も途中のT字路まで一緒だったためよく一緒に帰っていた。綾子は悠希

の危なげな雰囲気に惹かれていた。上辺は明るく愛想の良い少年でクラスの人気者だったが、優しさなんて感じられない冷酷な瞳に時折見せる孤独さ。綾子だけに見せた姿だったが、綾子はその明るい一面と暗い一面とのギャップもまた魅力的に感じていた。

 悠希は父子家庭で育ち、父親も夜遅くまで仕事だったため、いつも一人ぼっちだった。綾子は彼の家にも度々お邪魔して一緒に勉強したりゲームしたりして二人だけの時間を大いに楽しんでいた。クラスで求められるキャラと現実との乖離に疲弊していた彼は、綾子

に縋るように何でも話してくれた。綾子にできることは一緒に時間を過ごすことだけだったが、それでも幸せだった。

 綾子は恋心とも憧れとも取れない微かな心の揺れを言葉にできないまま、学校は夏休みに突入した。一か月という期間は二人の仲を遠ざけるには十分で、休みが明けると悠希はクラスの別の女子と恋仲に落ちていた。

 それからの学生生活で悠希は数多の女子と関係を持った。終わりを告げるのが口癖でその関係が成就することはなかった。そのたびに軽々しい男という印象をクラスの皆に与えたが、綾子だけは違った。彼の事を真に理解しているのは自分だけだという自信があった。けれどもう自分から話しかけることはなく、また何故か嫉妬という感情は起こらず、静かに彼を見守っていた。

 

 卒業式の日、綾子は教室の中で一人残っていた。教室に残された悠希のカバンを見ていずれこの部屋の帰ってくるだろうと予想していた。悠希は人気者だったが故、お世話になった人もそれなりに多く最後の挨拶に忙しそうだった。一時間ほど待っただろうか。ガラ

ガラと音を立てて扉が開いた。

 「あれ、まだ帰ってなかったんだ。」

 「今日会わなかったら二度と会えない気がして…引っ越しちゃうんでしょ。」

 「ふーん、よく知ってるじゃん。盗み聞き?なんでもいいけどさ、とりあえず帰ろうぜ。」

 帰路は静かに二人を包んでいた。かつてのように会話が盛り上がることはなく、淡々と冷え切っていた。ただ二人の間には壁はなく、口数は少ないながらも悠希はたどたどしく本音を語ってくれた。

 「この三年間で色んなやつと付き合ったけどさ、どれもいまいちしっくりこないというか。自分勝手なんだけど居心地が悪かったんだよね。皆外見だけで人を判断して、誰も俺を受け入れてくれる人はいなかった。」

 そう語る彼はやはり孤独をまとっていた。決して潤うことのない砂漠のように、彼の表情は乾ききっていた。彼に会うのはこれで最後と思うと不思議と肩の力が抜けた。

 「もし私と付き合ってたなら上手くいってたと思う?」

 悠希は黙ったまま黙々と歩ていた。そして気付けば別れのT字路が二人を手招きしていた。立ち止まった悠希は黙って制服の第二ボタンを綾子に差し出した。

 「さあね。それやるよ、答えはまた逢った時のお楽しみってことで。じゃ!」

 そう言うと彼は足早に消えていった。

 卒業以降彼に会うことはなかったが、綾子の頭の片隅には常に悠希がいた。それが恋と呼べるものかは分からなかったが、制服の第二ボタンが綾子の心に引っ掛かりを残していた。

 

 「で、綾子は今何してるの?独身?」

 テラスに着くなり二人は話し始めた。確かに独身であることに寸分の狂いはなかったが、何故か一人娘の悠香の事は口に出せなかった。子供がいることが知られたら離れてしまうのではないかという恐怖がまとわりついていた。

 「今は工場の生産ラインで仕事してるよ。それと残念ながら独身でございます。悠希君の方こそ何してるの?」

 「えーと、水商売ってやつ?まあホストやってんだけどね。こちらも残念ながら独身で

ございます。」

 綾子は久々に背筋から震えるような感覚を覚えた。やっぱりあの頃と何も変わってない。この人は誰かに縋っていないと満足できないんだ。そこに手段は関係ない。人との繋がりを求める癖に決して満足できないような自分勝手な性格なんだ。ますます興味が湧いて

きた。果たしてこれが恋心かどうかは判断しがたかったが、綾子の意識は完全に悠希の方向へと向いていた。

 「悠希君も苦労してるんだね。そうだ、今度ご飯行こうよ。」

 娘がいることも忘れ完全に自分本位で約束を取り付けてしまった。

 「ただいま。」

 夜11時頃、綾子は実家に戻った。遅かったねと母親に毒づかれながら悠香の様子を見に行った。

 「あんたが遅いからとっくに寝ちゃったよ。母親の自覚あるんならもっと早くに帰ってきなさいよ。悠香寂しいって言ってたわよ。」

 「はいはい。あ、肉じゃが。これ温めてよ母さん。」

 ぶつぶつ文句を垂れながらも、なんだかんだ尽くしてくれる良い母親だと娘でも思う。出汁のしみ込んだ肉じゃがを頬張っていると母親は綾子の正面に来て説教を始めた。

 「あんたもいい年なんだからさ、そろそろ結婚相手でも見つけたら?仕事も忙しいんだし、そろそろ楽してもいいんじゃない?このまま一人で悠香を育てるのも大変だよ。それに悠香もよくお父さんが欲しいって言ってるし。悠香にとってそれが幸せなんだろうしね。何よりも娘を優先しなきゃダメだよ。」

 鬱陶しいなと心で舌打ちしながらとりあえずは真面目に聞いている振りをした。私が結婚相手を見つけられなかったのは子持ちとわかると離れていくような男ばかりだったから。私は自分の時間を削ってまで子育てに費やしてきたんだ。すべてを捨ててまで子を育て続ける、それが親に課せられた最大の使命なのか。親は親になった瞬間に1人の人間としての幸せを放棄しなければならないのか。一度たりとも自分中心になってはいけないのか。今まで以上に母親への反発が強くなっているのは悠希君と再会したせいだろうか。ようやく幸せへの糸口が見えてきたこのタイミングでの母の説教は琴線に触れるものがあったが我慢した。

 「ま、親は死ぬまで親ってことを忘れないでね。私もあんたの面倒は見続けるつもりだし。今日泊まってくでしょ?布団敷いたからさっさと寝なよ。」

 

 母親が用意してくれたぬくもりに包まれて綾子はぼんやりと考え込んでいた。ずっと逢いたかった人に逢えた、そしてかつての面影を微塵も消すことなくそのまま私の目に現れえてくれたんだ。何故だかわからないけどもっともっと悠希君を見つめていたい、そんな思慮がひたすらに脳内を駆け回っていた。心の行き場が見つからないまま、綾子は眠りに落ちていた。

 

【2】

 おはようございます、と元気よく挨拶し綾子は職場の更衣所に入っていった。

 綾子の職場は町の小さな工場で小規模ながらも大手企業の下請け会社としての地位を確立していた。ここに勤めて7年ほど、和気あいあいとした職場で居心地が良かった。

 「おはよー。なんだか機嫌が良いわね。そういえば社長が立花さんのこと探してたわよ。着替える前に社長室行ってあげたら?」

 勤務歴20年の原田さんが愛想よく教えてくれた。社長に呼び出されるのは特段珍しいことではなかった。いつも通り軽い雑談でもするのだろうと予感しながら、軽く返事を済ませてそそくさと足を運んだ。

 

 「おはようございます社長。」

 「よく来てくれたね立花さん。何か良いことでもあった?」

 完全に無意識だったが声が上機嫌に歌っていたらしい。別に、と返すと社長は本題を切り出した。

 「今夜一緒にご飯でもどうかな。もちろん子供も一緒に。」

 とうとうこの日が来てしまったか。にしてもタイミングが悪すぎる。しかしこの誘いを断るには今までの恩が大きすぎた。

 「もちろんです、ぜひご一緒させてください。」

 「よかった。こっちの仕事が片付いたら家まで迎えに行くから、早めに上がってそれまでゆっくりしててね。」

 彼の目的は分かりきっているだけに気が進まなかったが、一度くらいはいいかという諦めが綾子の背中を押した。

 

 社長の村上武夫は御年45歳の少々小太りの気の良いおじさんだった。大学卒業後は大手企業で製品開発に携わっていた。若くして結婚もしたが、子供好きの二人をからかうように子供は中々授からなかった。そんなある日、町工場を営む父親が急病に倒れ、残された社員のためにも彼が父親の跡を継がなければならなかった。慣れない業務に追われる日々だったが、暖かい社員に救われて充実した日々を送っていた。

 さらにこれまでの苦労が少しづつ報われていくように、二人は子供を授かった。二人は新たな生活に心を躍らせていたが、またしても不幸が襲い掛かってきた。妻が出産と同時にその命を全うしてしまったのだ。彼の手元に残されたのは元気な男の子のみ。業務に追

われる立場として悲しみに身を落とすこともできなかった。

 村上を助けたのは社員の皆さんだった。シングルファーザーとして心労が絶えない社長を少しでも助けようと、育児を手伝ったり赤ん坊の面倒を見てあげていた。そんなアットホームな雰囲気の会社だったため、育児に関する配慮も行き届いていた。何よりも子供を

優先出来るし、社内に設置された託児所を有効活用する人も多かった。

 綾子と村上は互いに独身で子供を育てる立場であったため、必然的に共通項は増えていったし、良き理解者同士で何より優しかった。子供が熱を出したときは会社を休ませてくれたし、少しでも早く家に帰れるようにと車で家まで送ってもらったことも何度もある。

 綾子はそんな村上の配慮をありがたく受け取る反面、村上が時折見せるやましさに辟易していた。良い人であるのは重々承知しているが、残念ながら顔も好みではないし、恋愛対象としては一切見れなかった。

 

 村上が連れて行ってくれたのは華やかな洋食屋さんだった。ドアを開けた瞬間突き抜けるようなステーキの匂いが一行を刺激した。

 そそくさと席に着くと軽い挨拶が始まった。

 「立花さん、こちらが息子の聡です。ほら、挨拶して」

 「こんばんは、村上聡です。二年生です。」

 社長に似て少しぽっちゃりしていたが愛想もよく良い子だった。

 「よろしくね、聡君。この子は娘の悠香。」

 「立花悠香です。4年生です。」

 一通り挨拶を終えると村上は明るい調子でにこやかに声を上げた。

 「悠香ちゃん、今日は何でも好きなの食べていいからね。今日はおじさんがご馳走してあげよう!」

 多少の緊張感を有していた悠香だったが、村上の親しみやすい態度によって顔が緩んだ。

 「ほんとに!じゃあこのビッグハンバーグ頼んでもいい??」

 「こら、悠香。たのんでもいいですか、でしょ。すいません社長礼儀がなってなくって。」

 「いいのいいの。子供なんてそんなもんだし。それに元気があるっていいことだよ。」

 食事は終始明るい雰囲気に包まれていた。悠香と聡は早くも意気投合して互いの学校の話や友達の話などに花を咲かせていた。村上もそんな二人の会話によく入り込んでいた。

 「好きな教科は何?算数かあ、おじさんは仕事でよく数字とにらめっこしてるけど楽しいよね。あ、国語は嫌いなんだ。漢字難しいよね、僕もよく書き間違えるよ。最近は手書きで書くことないからね。」

 村上はさすが子供好きとあって徹底して目線が子供目線だし、物腰柔らかい話し方は子供の警戒心を解くには十分だった。最初は堅かった悠香の態度もだいぶん軟化してきて早くも村上に懐いているようだった。

 

 綾子一行は洋食屋を後にすると、近くの公園でくつろいでいた。子供たちは食後にも拘らず元気に走り、対照的に大人たちはベンチでまったり話していた。

 「悠香ちゃんすごく良い子だね。」

 「苦労して育てましたので…悠香ったらすぐ社長に懐いてましたね。まあ理由はわかりますけど」

 「聞いてもいいかな?」

 「そうですねえ…悠香はお父さんが欲しいんですよ。悠香は昔から外で遊ぶのが好きなんですけど私はそんな体力もないし…あんまり構ってあげられてないんですよね。それで寂しい思いをさせてしまったって自覚はあるんですけど、こればっかりはどうしようもないですからね。」

 しばしの沈黙の後、村上は重い口を開いた。

 「…実は聡もずっとお母さんが欲しいと言っててね。他の社員さんが面倒をよく見てくれてるけど、やっぱり違和感があるみたいだし。」

村上は綾子の顔をまじまじと見つめた。綾子はついにあの言葉を言われるのかと思うと

縮こまってしまった。

 「お互いの子供のためにもさ、僕たち一緒にいた方がいいんじゃないかな。もちろん子供たちの意見を一番優先しなきゃいけないけどさ。僕らはもう若くないんだし子供たちの幸せを考えた方がいいのかなって。僕は幸いお金には困ってないし立花さんも家事に専念出来た方が楽だろうしね。そろそろ将来のことも考えた方がいいと思うんだ。一緒になった以上は悠香ちゃんも立花さんも幸せにするから。」

 綾子は黙り込んでしまった。そういった類の話は来るだろうと踏んでいたが、それだけでなく社長までもが子供のために尽くす人間だと思うと何故だか幻滅してしまった。それに私も娘も両方幸せにするなんて、そんな都合よく物事が進むわけがない。彼の言葉は時に耳に心地良いが、どこが嘘っぽくも聞こえた。子供好きだとは知っていたけれど、ますます味方が減ってしまったような感覚に陥った。果たしてこれが親として正しい選択肢なのだろうか。綾子はどうしても納得できなかった。

 「お父さーーーん」

 聡が悠香と一緒に走ってきた。何故だかわからないが大笑いしながらじゃれあっていた。綾子は逃げるように意識を彼らに向けた。

 「聡君、悠香と仲良くしてくれてありがとね。今日はもう帰ろうか。」

 「それもそうだね。返事は悠香ちゃんとよく話し合ってからでいいからまた聞かせてね。家まで送っていくよ」

 家に着いたのは21時前だった。心安らぐ場所にいてもなお、妙ないら立ちが綾子を攻めたてていた。悠希君への得体の知れない感情の謎で頭がいっぱいなのに余計な邪魔が入ってしまった。そうだ、社長からの提案を断るだけの材料があればいいんだ。

 「ねえ悠香、今日楽しかった?」

 「うん!聡君は面白いし聡君のお父さんも良い人だった!」

 心の中で舌打ちした。

 「あのね悠香、もし聡君のお父さんとお母さんが結婚したらどう思う?」

 悠香は少し黙り込んでからいつもと変わりない調子で言った。

 「楽しいと思う!だって結婚したら聡君も私の弟になるんでしょ、そしたらお留守番も怖くないしいっぱい遊べるじゃん!聡君のお父さんも優しいし、良いことしかないと思う」

 「そっか、ごめんね急にこんなこと聞いて。さ、明日も学校だし早く寝なさい。」

 明日土曜日なのに、という悠香の断末魔を押し殺し寝室へと追いやった。

 社長からの提案は傍から見ればそこまで悪くない。もし仮に村上が伴侶になれば今まで以上に働く必要はなくなるし、そこそこのお金の自由も効くようになる。それに悠香の事を考えればどちらが幸せかは明白だ。聡君と遊んでいる時の楽しそうな顔や社長への懐き具合を見るに、社長と一緒になってもきっと上手くいくだろう。あんなにはしゃいで楽しそうな悠香を見たのは本当に久しぶりだった。しかしながら綾子の中にはある種の反発心のようなものが芽生えていた。綾子は悠希への感情を理解できないまま20年の歳月を過ごしてきたが、ようやく何かが掴めそうな気がしていた。抑圧に押しつぶされそうになった時、人は小さなきらめきの中に生きようとする。今は悠希君の事だけを考えていたい。綾子は娘と自分の幸せを何とか両立出来はしないだろうかと、出口のない暗闇の中で考えて

いた。悠希という男の存在が綾子をぐうたらにさせていた。

 

【3】

 綾子は次の日母親に電話で相談していた。自分の気持ちと娘の気持ちとどう折り合いをつけるのか、誰でもいいから意見が聞きたかった。

 「お、いい知らせじゃない。悠香のこと考えたら絶対受け入れた方がいいよ。あんたも

そろそろ楽したいでしょ。」

 期待はしていなかったが案の定母親としての視線で徹底していた。

 「悠希君って昔仲良かった子でしょ。あの子は昔からあんまり良いうわさ聞かなかったしやめときなよ。そりゃ久しぶりに再会してあんたは浮ついてるかもしれないけどさ、将来の事も考えてやめときなさい。水商売なんて不安定な職業、誰も幸せにできないわよ。悠香もそんな人がお父さんになるだなんて嫌だろうし。そういえば前の彼氏さんもそんな感じの危なげな人じゃなかった?」

 私が悠希君に惹かれたのは水商売をしている側面もあったのにそこを否定されたらもう何も言えない。そしてやっぱり最後に出てくるのは悠香の事だった。嫌でも親であることを自覚させるかのような言葉にウンザリしてしまった。

 「社長さんとの話、ぜひとも前向きに考えなさいよね。」

 

 出勤時にベテランの原田さんにも意見を伺ってみた。

 「いいんじゃない?社長の事は若いころから知ってるけど真面目で謙虚でよくできた人間だよ。おまけに子供好きだし、ありゃ子供に好かれるタイプだね。子連れってだけで離れてく男多いし、立花さんにとってもいい機会なんじゃない?年齢的なことも考えて早めに結論出した方がいいよ。」

 客観的に見ても社長は良い人だよなあと思いつつ心境は複雑だった。確かに社長は良い人ではあるけれど、綾子の中にはどうしても受け入れがたい違和感が存在していた。綺麗事を並べているような、どこか嘘が交じり合ったような棘のない言葉。加えて何の刺激もないような平々凡々とした日々を過ごす事は容易に予想できた。綾子が真に欲しいのは悠希のようなどこか影のある男だった。綾子からしたら社長はつまらない人間だった。

 

 「ねえお母さん、今度はいつ聡君と遊べるの?」

 ご飯を作っている時に悩める綾子の気も知れず悠香は聞いてきた。さあね、と答えるとしょんぼりしてしまった。

 「聡君のお父さん、今度遊園地連れて行ってくれるって言ってたのに」

 どうやら相当懐いているらしい。悠香が懐けば懐くほど、綾子の胸は締め付けられた。自由を許す優しさを誰も持ち合わせていないのか。1人の人間の尊厳も守れないのなら、私が生まれた意味ってあるのだろうか。

 

 救いが欲しい、綾子は切に願った。誰もが皆村上と一緒になることを望んでいる。それが親としての役目だと言わんばかりに皆の発言が綾子を苦しめた。私は生涯幸せになる権利はないのだろうか。自分の幸せを優先したいと一瞬でも思ってしまったがために苦しめられることになった。未だに悠希への感情を把握できずにいたが、彼を見つめることで幸せになれるということだけは分かっていた。逢いたい気持ちが枯れてしまうほど、不吉な風は綾子を撫でた。

 悠希から綾子宛てに一通のメールが届いていた。食事の日程調整の件についてだったが、綾子は返信できずにいた。このまま返信しなければ二度と会うことはないかもしれない。でも、それも仕方ないと思えてしまうほど周りの意見は綾子の決意を歪ませてしまった。

 

 珍しく冷え込んだある日、綾子は薫とラーメン屋にいた。ラーメンは正直あまり好みではなかったが、薫の提案となれば断るわけにはいかなかった。今回は自分の悩みを聞いてもらうために来たんだ。薫はいい加減なところもあり真面目に話を聞いてくれるか心配ではあったが、とりあえず口を開いた。悠希への感情、社長からの提案。そして娘の幸せそうな悠香の表情。そのすべてが綾子を苦しめていた。

 「私、もうどうしたらいいかわかんなくなっちゃった。自分の幸せと悠香の幸せは別物だろうし、いい年した親がわがままになっちゃだめだよね。」

 薫は一気に水を飲み干してからまくしたてるように言った。

 「そんな深刻な話題出されても私にはどうにもできないよ。とりあえず大宮君のことどう思ってんの?好きなの?そんな曖昧な感情なら判断の良し悪しはつけられないと思うんだけど。何がどうなったらあんたは幸せになれるわけ?大宮君と結婚したら幸せなの?」

 妙にいらついた口調で反撃されてしまった。自分でも心の在り処がつかめないのだから、他人にはもっと煮え切らない印象を与えてしまうのは当然だった。

 「恋と呼べるかは分からないけど、私は悠希君と一緒にいたい。ずっと見守っていたい。社長よりも娘よりも、今は悠希君を優先したいの。今まで自分に嘘ついて暮らしてきたけど、今度ばかりはようやく正直者になれそうな気がしてる。今本当に興味があるのは悠希君だけなの。」

 「でもあんたはそうすることで娘ちゃんに迷惑がかかる、そう思ってんでしょ。気持ち

はわかるけどさ。綾子さ、この後空いてる?よかったら家来なよ」

 二つ返事で了承すると二人は薫の家へと向かっていった。

 

 20年ぶりにやってきた薫の家は昔とあまり変わっていなかった。相変わらず物は散らかっているし足の踏み場に困った。家に遊びに行く度、薫はよく母親から注意を受けていた。お客さんが来たんだからちょっとは片づけなさいよ、という小言と共に母親が掃除を始めるのは常だった。

 「汚くてごめんね。誰も掃除してくれなくってさ。ちょっとこっち来て」

 誘われるがままに薫についていくと、そこには介護用ベッドに横たわった薫の母親がいた。大きくてごつごつしたベッドを見ただけで重傷だとわかってしまうような痛々しい有様だった。

 「ただいま、母さん。覚えてる?中学の頃よく家に来てた綾子」

 「お久しぶりです、昔はよく家にお邪魔してました。」

 「あ、綾子ちゃん!久しぶりねえ。にしても綺麗になったね~」

 痛々しい様子とは裏腹に薫の母は明るい声で答えた。しかし一切起き上がろうとはせず、寝床についたままだった。

 その場で軽く近況を話したのち、綾子と薫はリビングに移動した。部屋はどこか薄暗く、薫の表情もまた曇っていた。何故か触れにくい話題だったこともあり綾子は言葉をひねり出せなかった。いつもは明るい薫だったが神妙な顔つきでこちらを見つめてきた。

「母さんね、6年前に交通事故に遭っちゃって。それきり首から下が動かなくなって、介護がないと生きていけなくなったんだ。父さんは私が高校の時に離婚しちゃったし、私しか母さんの面倒見れないんだよね。」

 重苦しい雰囲気に押し負け綾子は何も言えない。

 「実は私婚約者がいたんだ。優しくて真面目で、この人となら生涯添い遂げる自信もあったくらい。でもね、母さんがあんなのになったとわかると彼は逃げ出したんだよね。障碍者を抱えるのはごめんだって。いやーあの時は泣いたなあ」

 それで独身だったんだ、と思いはしたが口には出さなかった。

 「正直私は今不幸だよ。介護を押し付けられ婚約者にも逃げられて。神様って意地悪だよね、私ばっかりこんな目に遭って。同窓会で会ったみんなは生き生きとしてて自由そうな人生送ってるのに私ときたら。みじめだよ。」

 綾子にようやく声を出す勇気が降ってきたが、気休めにもならない言葉しか浮かばない。

 「そんなことないよ。」

 「別に同情は求めてないよ。これが変な話でさ、私はこんなに不幸になってるのにお母さんったらすごく幸せそうなんだよ。娘との時間が増えたって言ってね。そりゃ毎日べったりくっついてるんだから当然なんだけど。人の気も知らないで…」

 薫はぐっと背筋を伸ばして一息ついてからまた話し始めた。

 「ま、要するに綾子には幸せのチャンスを逃さないでほしいってこと。目の前に幸せになれる相手がいるんだからさ、迷ってる暇なんかないよ。ダラダラしてたら私みたいに一生不幸を背負うことになるよ。それに幸せってのは誰かの不幸の上で成り立ってるものなの。誰かの犠牲なしじゃ幸せになんかなれっこないよ。両立なんか無理だと気づいちゃった。最終的に誰の幸せを優先するかは綾子次第だけど、娘に不幸を押し付けてる親だって

いることも頭に入れとけよな。」

 綾子は不覚にも頬を伝う涙に気付かなかった。同級生という立場もあるだろうけど、初めて自分の味方が出来たような何とも言えない感動が綾子の心を揺らした。自分を殺すだけの日々から抜け出す覚悟が決まりそうだった。悠香に不幸を背負わせることになったとしても、今は自分に正直でいたい。

 「泣くなよ泣くなよ。ま、何か進展あったらまた飯でも行こ。」

 綾子は帰宅した後、悠希にメールの返事を出した。

 

【4】

 綾子は悠希から指定されたレストランを探すのに苦労していた。時刻は午後8時。娘の悠香は聡の家へ遊びに行きたいというかねてからの願いを叶えるべく、村上の家へと泊まりに行っていた。今夜は帰らなくてもいいと思うと気が楽だった。やっとの思いで辿り着いたその店は、都市の中心からは少し離れた路地裏に潜むかのような位置に店を構えていた。隠れた名店、と呼ぶには貧相な店構えだった。まるで密会でも始まりそうな雰囲気のある店で、客足も遠のいているようだった。不穏な空気とは裏腹に綾子の心は高鳴っており、レストランに近づくたびに期待の二文字が綾子の扉を叩いているようだった。今日こそこの感情にケリをつける覚悟でやってきた綾子は静かに店に入っていった。

 「遅かったじゃん。結構待ったよ。」

 「ごめんごめん、場所がよく分からなくて。何でこのお店なの?」

 「俺さ、商売柄あんま人目につくとこじゃ飯も食えないんだよね。女の子に見つかったら何されるかわかんないし」

 悠希はそう言うとシャツの袖をまくり、腕を綾子に見せた。そこには刺傷のような大きな傷跡が残されていた。当然のごとく綾子は怯んだ。

 「え、どうしたのそれ。刺されたの?」

 「完全に俺の注意不足だったんだけど、クラブの近くの店で女の子と飯食ってたのよ。そしたらそこにたまたまクラブで俺に貢いでくれてたお客さんが来てもう大変。俗にいう修羅場ってやつ?店の外でゆっくり話そうと思った瞬間に襲われちゃって。結構刺されて傷が派手に残っちゃったよ」

 綾子はまたもや背筋が震えた。彼は変にかっこつけて最後はいつも自分が損をする。他人に縋ってないと生きていけないくせに相手の気持ちを図れない。誰かを傷つけることが得意なのにそれでいてもなお満足できない。永遠に独房に放り込まれているかのような干からびた性分。そんな不器用なところが狂おしいほど愛おしく感じられた。悠希の心の傷は数知れず、だが体に直接刻み込まれた刺傷によって綾子の感情は浮き彫りになった。危なげなところも、不器用なところも、その全てを我が物にしたかった。可哀想に、と思う前にもっともっと悠希を知りたいと思ってしまった。

 「ばかだねえ。危険なリスクを冒してまで私なんかと会ってていいの?」

 「俺、今までの人生で何か満たされないなって感じてたんだけど、ようやくその原因がわかったわ。同窓会の時に逢って確信した。俺には綾子が必要なんだ。綾子だけはありのままの俺を受け入れてくれる気がするんだ。この20年で色々回り道して、やっと気付けた。遅くなっちゃったけど、これが卒業式の日の返事。」

 綾子派満面の笑みで悠希の手を取った。

 「奇遇だね。私も悠希君の影をずっと追いかけてきた。久しぶりに逢えてほんとに良かったよ。私はこれからも悠希君を見つめていたい。だからもう、離さないよ。」

 穏やかな風景が二人を彩っていた。

 

 艶やかな陽射しに招待され、綾子は目覚めた。部屋は薄暗く、静かに湿っていた。隣にはまるで仔犬のように眠る悠希がいた。悠希の華奢な身体に触れる度、その温度を支配してみたくなった。腕の傷も、幼い寝顔も、わがままな性格も、脆そうな精神も、その孤独も、何もかもが愛おしく、儚くもあった。綾子は静かに悠希の頬の触れてみた。私がいないと何もできないくせに、ほんとは寂しくてたまらないくせに、無理しちゃって。これからは私がそばにいるからね。綾子は昔から悠希を見守っていた。真に理解できるのは自分だけだと根拠のない自信さえも持ち合わせていた。20年もの間綾子を不安にさせていたのは歪んだ愛情だった。ただ彼とそばにいるのではなく、その身が朽ち果てる過程を、その瞬間をこの目で確かめたかった。

 20年も悩んでいたにも拘らず、一夜にしてその感情の正体が降って湧いてきた。こんなに簡単なことだったんだと、綾子は胸を撫で下ろした。悠希に向けられた魅惑の感情、それは我が子を見守りたいと思う感情と酷似していた。この10年で自分の中で育っていた親の暖かさを、悠希にも差し伸べてあげたい、そんな感情。激しく燃え上がるような恋情ではなく、静かに見守ってあげたいという愛情。決して恋なんて生易しい感情ではなかった。彼の満たされることのない孤独を埋められるのは、自分の他にいない。悠希と一緒にいることが綾子にとっての幸せであり、損得勘定もない無償の愛を悠希に捧げたかった。そこに噓偽りはなく、何を犠牲にしても彼を離したくなかった。空虚な人生への別れの鐘が鳴り、幸せになる瞬間はもうそこまで迫っていた。

 綾子はそっと悠希を抱きしめ、限りある時間を惜しんだ。

 

【5】

 次の日、綾子は悠希を近所のレストランに呼び出していた。ここまで来たのならもう断りはさせない。一人娘がいることもひっくるめて全てを彼に捧げると決めたのだ。大事な話がある、とだけ伝えて待っていた。

 「お母さんの友達が来るの?どんな人?」

 「中学校の頃の大切な人。これから会うことも増えるだろうからちゃんと挨拶してね。」

 「聡君のお父さんはどうなるの?結婚するとか言ってなかったっけ?」

 綾子は無視した。

 そうこうしている内に悠希がやってきた。綾子の隣に座る子供を見てさすがに驚いたようだった。

 「えーと、そちらのお嬢さんは?」

 「ごめんね、悠希君。ずっと黙ってたけど、私子供がいたんだ。父親はこの子が生まれる前に死んじゃったから、ずっと私一人で育ててきた。」

 「こんばんは、立花悠香です。」

 悠希はしばらく黙り込んでしまった。少しばかり動揺しているようだったが、綾子は気にも留めなかった。悠香は悠希の派手な格好に少し警戒しているようだった。

 「そりゃ綾子の事は好きだし一緒にいたいよ。でも、俺に父親としての役割が果たせるかはわからない。商売柄綾子と会うのも密会みたいな感じになっちゃうし、子供もいるとなるといよいよこの仕事も辞めきゃならない。」

 私を振った男みたいなことを言うんだね、と言おうとした瞬間に悠希は続けて言った。

 「それでも俺は綾子と一緒にいたい。娘ちゃんまで幸せにできるかは分からないし自信もないけど、それでも綾子だけは絶対に幸せにする。約束してもいい。」

 偽善的な耳障りの良い言葉を並べる村上とは違って、悠希の言葉は人間味があったし何より説得力があった。実際には皆を幸せになんてできるわけがないし、馬鹿正直に本心を言ってくれたことが嬉しかった。ひとまずは悠希との関係が壊れなかったことに安堵し、すっきりした気分だった。

 綾子と悠希は子供がいることも忘れ二人だけの時間を楽しんでいた。悠希の視線は綾子に徹底していたし、気を遣って悠香に話を振ることもしなかった。悠香は一人寂しくご飯にありついていた。

 「実は悠香の「悠」って文字はね、悠希君から取ったんだよ」

 「なるほど通りで似た響きだと思った。一文字違いだしちょっとややこしくない?」

 二人とも私の子供みたいなものだから、と自分に言い聞かせた。すると今まで退屈そうにしていた悠香がだるそうな声で囁いた。

 「お母さん、いつ帰るの?私全然楽しくない。」

 「もうちょっとだけ待ってよ。ほら、デザートとか頼んでいいから。」

 綾子は強引な手段で悠香を黙らせると、再び悠希と話し始めた。時も忘れて二人だけの時間に酔いしれていた。

 家に帰ったのはそれから一時間も後の事だった。散々ぞんざいに扱われた悠香は当然のごとく不機嫌になっていた。

 「何あの人、全然優しくないじゃん。つまんなかったし。あんな人のどこがいいの?しかもちょっと怖いし…あの人がお父さんになるの絶対嫌だからね。」

 もはや手遅れだと言わんばかりに綾子は聞く耳を持たなかった。ようやく巡り合えた幸せなんだ。手放すわけにはいかない。綾子はもう二度と彼を離れる気はなかった。生涯添い遂げるのは私の役目なんだ。それが親としての使命なら、その欠片を彼にも与えてあげたい。そして彼の最期を見届けたい。悠香には申し訳なかったが、別の機会に幸せになってもらうしかない。

 「ごめんね。でもこれが私にとって一番の選択なの。」

 綾子はもう親などではなく、一人の女性だった。

 

 その日の仕事が終わると綾子は社長室に向かった。彼からの提案を正式に断り、自分にもけじめをつけるためだ。そのための材料も手段も揃っている。

 部屋に入ると村上は快く迎えてくれた。

 「よく来たね。あれから一か月経ったけど、もう答えは出た?」

 彼の断られるはずはないだろうという顔つきがやけに気に食わなかったので、綾子は語気を強めて言い放った。

 「その件なんですが、お断りさせていただきます。娘は社長に懐いていますし、周りの人にもぜひ社長と一緒になった方がいいと言われました。それでも、ダメなんです。私には他に大事にしたい人がいるんです。黙っててごめんなさい。それでも私は自分にだけは嘘をつきたくないんです。」

 村上は少し納得のいかないような顔を見せたものもすぐさま微笑んだ。果たしてどんな言葉が飛び交うのか、不安ではあったが怖くはなかった。

 「…そっか、残念だよ。悠香ちゃんも家に来た時に楽しんでたし、良い関係が築けると思ってたんだけどね。でも立花さんだって親である前に一人の女性だ。本当に好きな人と一緒になった方が君のためだ。」

 予想以上に優しい言葉が返ってきたので拍子抜けではあった。そして綾子は深呼吸をすると再び話を切り出した。

 「それともう一つあります。実は私、妊娠しました。彼との子供です。これからは彼と二人の子供を抱えて暮らしていきます。まだ先になると思いますが、この仕事も辞めます。ちょうどタイミングが良かったのかもしれませんが、提案をお断りしたけじめとしてこの仕事からは身を引きます。育児休暇なんて制度に甘える資格も私にはありません。こんないい加減な人間でごめんなさい。」

 嘘だった。ただ単に村上から離れたかっただけだった。彼の近くにいるだけで悠香に期待させてしまうし、母親からも一緒にいろと文句をつけられるのは見えていたからだ。過去の自分と別れるためにも、彼からの離脱は必要条件だった。次の仕事先のあてもないが、気持ちだけが先行していた。綾子の理性は情動に押し負け、悠希と二人だけの世界に沈んでいきたい、そんな感情だけが綾子を突き動かしていた。行先の見えない不安定な暮ら

し、それもまた綾子の夢だった。

 「妊娠もしてたんだね…会社辞めるとかそんなの気にしなくてもいいのに。うちの会社は親に優しくがモットーなんだから。それに立花さんも長いこと働いてるし、経験も豊富で貴重な人材だよ。しかもこれから仕事を探そうとなると結構苦労するよ。年齢の事もあるし。もう一度よく考えてごらん。急な話だけど悠香ちゃんだけは幸せにしないとだめだよ。立花さんの幸せも大事だけど、子供に勝る宝はないよ。」

 やはりこの男はどこまで行っても子供が大事なんだ。よくもここまで自分を犠牲にできるなと、感心してしまった。

 はなからそんなつもりはなかったが、考え直します、とだけ伝えて綾子は部屋を後にした。

 

【6】

 暖かな季節に彩られた季節が始まろうとしていた。木々は健やかに葉を伸ばし、人々も新生活の不安の中で自分を奮い立たせていた。煌めきの中で出会いを求めるのか、新しい何かを始めるのか。喧騒に身を紛らわせるのも孤独に耐えるのも、全てが委ねられる。

 綾子と悠希の新たな生命が芽吹いてから、早くも一年が経とうとしていた。子育てに追われる日々だったが、綾子は満たされていた。子供が出来たことで必然的に悠希との将来が約束されたようなものだし、その暮らしに不満はなかった。ただ悠希を見つめているだけで不思議と癒された。

 悠希は相変わらずホストの仕事を続けていた。帰りが遅いのも頻繁で一緒にご飯を食べた記憶も少ない。綾子は帰る度に不幸せそうな顔を覗かせる悠希を見るのが楽しみだった。二児の父となった悠希は今まで以上にプライベートでの行動を制限せざるを得なくなった。加えて夜泣きの激しい赤ん坊は悠希を苦しめた。日に日にストレスが溜まっていくのを綾子は目の当たりにしていたが、悠希は絶対に裏切れない理由を持っていただけに不安はなかった。この暮らしがいつまでも続くと確信していた。悠希の時折見せるくたびれた表情に綾子はゾクゾクした。

 いつごろからか、悠香は笑わなくなった。悠希との距離は相変わらず遠いままで、両者とも歩み寄ろうともしていなかった。悠希との時間に専念したかった綾子は赤ん坊の世話を悠香にも頼んでいた。その頻度は日を経るごとに増えていき、子供らしく外で遊ぶことすら出来ていなかった。さらに村上から離れてしまったこともあり、聡という友達も失ってしまった。息苦しい環境下で悠香の居場所はなくなってしまった。

 ご飯を作り、悠希を見送り、共に眠るだけの生活。悠希を手中に収めた実感はいつでも綾子にまとわりついていた。ただ平凡な人生を送るのではなく、少々棘のある人生の方が好ましい。これまでの生活で育んだ悠希の影を追いかけるのが日々の楽しみだった。彼が少しづつ壊れていく様を体感できるのは貴重な体験だったし、これこそが綾子の求めていた暮らしだった。20年彼を求め続けたのは間違いじゃなかったと心から感じていた。綾子は充実した暮らしの中に永遠を見出していた。

 

 綾子は幸せだった。