バグ 鯵野開

 

あたしって自分のことを呼ぶ女の子は、自由な感じがしませんか。

 

私と後輩以外はいない女子トイレだった。静かだけどなにかがタイルを擦っているような音がする。張り巡らされている機械がそんな音を出すのだろう。へんな静けさだ。

化粧ルームで、後輩はアイシャドウが二重幅に溜まっていないかチェックしながら、そう言っていた。私は自由について考えたことはなかった。

 

「うーん、そうだねぇ」

「考えた返事じゃないでしょ」

 

後輩は少し笑った。愛嬌のある笑顔だ。私はこの笑顔に何度羨望を抱いたかわからない。ああ、綺麗だなあ、と思った。後輩はリップを塗り直す。ディオールだ、それ、限定のやつ。抜け目ないなあ。彼女は完璧な女の子だ。ふさふさの、手入れされてるけど自然なまゆげ。広過ぎない二重、隈のない涙袋、マスカラは一度塗りで十分な長いまつげ。口元なんて出っ張ってないし、薄い唇で血色がいい。鼻も変な形じゃない。化粧は私なんかより圧倒的に薄い。パーツの位置がすべて整っている。私は不完全だ。

 

「何でそんなこと聞くのよ」

「先輩なら同意してくれるかなって。他の人に訊いたわけじゃないけど」

「なにそれ」

 

私は少し笑った。頼りにしてくれているのかな、と思いながら、私は彼女にそこまでの感情を抱いていないことを改めて感じた。何もかもを持っている人間は、私が愛さなくても、他の人から丁寧に、時に無遠慮に、愛情を注がれる。嫉妬もするし、羨望も抱く。シンプルに、それは私が彼女を愛さないという答えを導いていた気がする。

ディオールのリップをしまった後輩は、鏡を見て入念に顔のチェックをする。大丈夫、可愛いよ。そんな毒づいた褒め言葉を、心の中へ放り込む。

 

「じゃあ先輩、またご飯行きましょうね」

 

 

彼女は次の学期から大学に来なくなった。