ダイイングエクスプレス 八乙女柑橘

 

あらすじ:

 目が覚めたら電車に乗っていた。同じ車両には見知らぬ少女が一人。他の乗客はおらず、車掌さえいない不気味な空間。

 誰もいない駅を幾つも通り過ぎる内、えもいわれぬ不安が湧き出る……。ここは何処で、この電車は何処へ向かっているんだ?





 ガタンゴトン、ガタンッ……。

 耳に馴染んだ音に、意識が浮上していく。微かな振動に頭が振られて、窓にこつんとぶつかった。

 「……ンン?」

 目を覚ますと、男は電車に乗っていた。腕時計が指すのは彼の退社時よりも幾らか遅い時刻であり——これはもう駄目だ——完全に乗り過ごしてる——クソッタレ……。

 項垂れて、現在電車がどこに向かっているのか目を凝らした。終電が残っている駅ならいいのだが。

 『■ゅ■■■うし■』——電光掲示板に示された文字は、スノーノイズに襲われていてよく見えなかった。

 「……は、ぇ?」

 寝惚けているのかと目を擦ってぐりぐりと指圧してみるが、結果は変わらない。なんとも不安感を煽る頼りない行き先に、思わず腰を浮かせる。

 こんなもの、二十数年生きてきて見たことがない。背筋に寒気が走り、体が強張った——その瞬間。

 「おじさん、あそぼ!」

 「うわあ!?」

 いつから居たのか、小学生と幼稚園児の間を彷徨った辺りの少女が、彼の背に声をかけてきた。

 「あ、遊ぶ? ……っき、きみ、親御さんはいないの?」

 「いるよ? お家で寝てる!」

 咄嗟に、無言の恐怖には耐えられない、と声を発したところ、少女は想像よりも常識的な応えを寄越した。

 てっきり、「私が食べたからいないよ?」とか、「あそぼ、おじさん、あそぼ? あそぼ? あそ、あそぼ? ああああそそぼぼぼ!?」とか、映画みたいに返してくるとものかと怯えていたのだが、この少女は状況にそぐわない、普通の女の子に見えた。

 (しかし、何だこれ。なんなんだ、マジで。俺、なんか悪いことしたか?)

 まるで出来の悪いホラー映画みたいな舞台設定に、背筋に冷や汗が滲む。

 深夜の地下鉄、車両の中には幼い少女と男がたったの二人きり。乗客は貫通扉の向こうには伺えず、両隣の車両も空席だらけだ。

 おまけに、

 『次は——ザッ——駅……。次——ザザッ——ジッジジ——ザー……』

 ——車掌のアナウンスまでノイズ混じりだ。

 衝動に身を任せれ、先頭車両に、勝手についてくる少女と共に向かってみたが、運転手の席は空っぽだった。

 ——ハァン? あー、なるほどね。心霊現象ってやつね。ハイハイ。

 「たいへん! もう次の駅着いちゃうんだって! おじさん、早くあそぼ!」

 「あ、ああ……うん……」

 白目剥きそうなくらい怖いのだが、どうすればいいのかイマイチ分からない。

 これはやっぱり、所謂心霊現象というやつで間違いないのだろうか。

 なら頼む……せめて地球のコンプライアンスをよく守って、物理法則と時間の流れ、質量保存の法則だけは忘れないでくれ……。ウウ……この列車一体何で出来てて、何で走ってて、何が運転してるんだ……頼むから終点ぐらいは実態を持ったまともな駅であってくれ……。

 「じゃあいくよ! せーの!」

 何が楽しいのかよく分からないながらも、少女に合わせて四角を描く仕草を何度かして、お弁当箱を複数作ってやると、彼女はおにぎりや刻み生姜を詰め込み始める。

 そうする間にも電車の速度は緩やかになっていく。いよいよ『■ゅ■■■うし■』駅とやらに着いたらしい。

 扉がガコンと開き、プシューと聞き慣れた音が鳴る。プラットフォームには人っ子一人おらず、駅名は『■ゅ■■■うし■』駅、と何文字かは黒く塗り潰されていた。

 恐る恐ると首を出すと、途端に遠くの方からサイレンの音が近付いてくる。プラットフォームには動くものは何もないのに、凄まじい速さで音は寄ってくる。ぐっと身を竦めるが、気休めにもならない。

 頭に痛いサイレン音が、いよいよ耳のすぐ後ろから聞こえ始めた。音は頭をガンガンと刺激し、これ以上ないほどに高らかに鳴り響く。

 止まない音への恐怖に耐えきれず、電車の中へと体を引っ込めた。

 扉はゆっくりと閉ざされ、車両は緩やかにプラットフォームを置き去りに進み始める。

 『次は、『髮・クュ豐サ逋ょョ、』。『髮・クュ豐サ逋ょョ、』駅です。お乗り換えのご案内です。黄泉路線、黄泉平坂線、彼岸方面へお向かいの方は、次の駅でお乗り換えください』

 さっきの駅で降りてればよかったと後悔した。

 突然ノイズがなくなり、滑らかに喋りだした車掌曰く、次の駅で乗り換えると死んでしまうらしい。『髮・クュ豐サ逋ょョ、』とはなんなのだ。何駅なんだそれは。

 「『髮・クュ豐サ逋ょョ、』駅!? もうすぐ終点! おじさんもっとスピードアップして!!」

 なんら恐怖を感じていないらしい少女に付き合い、今度は某アルプスの手遊びに付き合ってやる。

 「……俺、どこに向かってるんだろ」

 「どこって、終点でしょ? ……やだなあ。おじさんは電車に乗ってる時しかあそんでくれないんでしょ。いっそ、ずっとずっと乗っててよ。私ともっとあそんで!」

 二十五歳をおじさん呼ばわりする少女は、唇を尖らせて膝の上でバタバタした。

 親御さんの目どころか乗客の視線もないので、大人しく幼女の椅子になっている。どうせもうすぐ終わる人生、他人の満足に多少奉仕しても構わない……と悟ったような気持ちが湧いてきたのだ。多分一人だととっくにチビってたし。

 凪いだ心で嘆息し、真っ暗な車窓を眺める。

 (——つまらない人生だったなあ)

 こんな風に突然死(?)を迎えることになっても、どうしてもやりたいことの一つさえ、思いつかないなんて。

 ブラック企業であくせく働いて、たまの休日は眠って過ごして。趣味のゲームも積みまくっていて、どんなタイトルがあったのかも思い出せない。

 最早なんの情動もなく、終着駅へと運ばれていく。通り過ぎた『髮・クュ豐サ逋ょョ、』駅は、彼岸行きの癖にやたらと眩しく照明が輝いていた。

 『次は終点。終点、『びょう■つ』です。『■ょ■■つ』でお降りのお客様は、』

 『びょう■つ』……びょう、しつ?

 ——病室?

 勢い良く立ち上がると、少女がころりと座席へと転がった。

 「ねえ、行っちゃやだ! もっとあそぼ? おじさん、電車に乗ってる間は遊んでくれるんでしょ?」

 スカートから覗く少女の白い足が、彼へと絡みついた。同じく、まるで一度も日に焼けたことがないかのような陶器の人形さながらの手が、彼の足へとしがみつく。

 子供らしく涙ぐんだ目は潤んでいて、彼女が一言一言を発する度に、比喩では無しに、電車の速度は落ちていく。ああ、今にも止まってしまいそうだ。まだ、終点には着いていないというのに。

 「泣かないでくれよ。そんな風に頼まれると、断りにくくなる」

 「ね、ね、ならあと一周だけしよ? あと一回だけ電車乗ってて?」

 ぐりぐりと頭をスーツにねじ込んでくる悪戯のせいで、彼のスーツはしわくちゃになる。

 電車が駅に近づく。アナウンスが悠長に『黄色い線の内側で…』と聞き飽きた放送を始める。

 ——今しかない。今降りなければ。

 不意に強くそう思い、扉へと向かう。だが、スーツの裾をくんと引かれ、うっかりと振り返ってしまうと——涙の膜を張った少女の瞳と目が合い、ぐっと息が詰まる。どうにも気が咎められた。

 少し遊ぶ程度構わないじゃないか——と思わなくもないが、一方で、今すぐにでもここから降りたいと考える自分も同時に存在していた。

 「降りないでよ! 私と遊んで!! 私のこと一人にしないでよ……っ!」

 「でも、どうしても降りたいんだよ、我儘言わないでくれ、きっとまた遊んであげるから! 君もここから、一緒に降りよう!」

 手を繋いでぐいと引くと、少女は目一杯体を反らして駄々を捏ねる。柔らかそうな黒髪を振り乱し、必死にその場に留まろうとした。

 どちらがどちらに縋っているのだか、もうよくわからない有様だった。

 だが、状況はどうも成人男性の方には味方していないらしい。いやいやと首を振り、少女が足に絡みつくと、体がまるで重石を乗せられたように動かなくなるのだ。

 「頼む、また遊ぶよ、だから今だけは……!」

 「嘘だもん! おじさん、電車に乗ってる間しかあそばないって言ったもん!! ——わたしはもう、電車には乗れないのに!」

 やだ、やだよお……とすすり泣き、少女はしっかと彼のスラックスを握った。

 「分かったから——! 電車に乗ってなくても、幾らでも遊んであげるから! 降りてからも、ちゃんと遊ぶよ。だからほら、君も早く!」

 脇の下に手を差し入れて乱雑に抱き上げると、今度こそ少女は、抵抗しなかった。

 「……ほんと? ほんとだよね?」

 「本当だよ、もちろん」

 頼りない常夜灯の下、男は少女を抱いて早足で進んでいく。何だこれコッワ。降りてしまったことを、早々に後悔しそうだった。冷静に考えると、駅名が『病室』だとしても普通に怖い気がする。どんな駅なんだそれは。

 耳元で少女の呼吸が聞こえる。柔い吐息は子供特有の速さでテンポを刻み、それのお陰か、彼は辛うじて正気を保っていた。彼は元来ビビリであった。

 「じゃあ……約束ね。電車以外でも、いっぱいあそんでね。いっぱい会いに行くからね」

 「はいはい、分かってますっての。お弁当でもかぼちゃの花でも、子槍の上でワルツでも踊りまくってあげるよ」

 ふわり、と何か暖かいものの気配を感じて、咄嗟に顔を向けると、そこには明かりの差す昇降口があった。地上への出口だろうか。彼は少女を一度抱えなおすと、光の差すほうへと歩き始めた。

 「約束だからね」




■■■




 「——……。……? ……っ、げほ」

 体が死ぬほど重い。苦労しながら身を起こすと、丁度目の前に立っていた看護師の女性と視線が交わった。

 「……ぁ、の……」

 「はい、何ですか? 大丈夫ですよ、ゆっくり、深呼吸してから、落ち着いて話してくださいね」

 「……みず、いただけ、ますか……」




 「はい、冠状脈バイパス手術、ですね」

 「かんじょうみゃくばいぱすしゅじゅつ……」

 茫然としながら、医師の説明を受ける。彼が言うには、自分は仕事中、過労が祟って心筋梗塞を起こしてぶっ倒れて緊急搬送され、しかも保険分を差っぴいても凡そ百万円の大掛かりな手術をされた——らしい。

 「ド、ドラマみたいですね、はは……。救急車で運ばれて、集中治療室で手術して、病室でこんな説明を受けて……」

 「今だから言いますが、助かったのは奇跡に近いです。一瞬でも状況を構成する要素が噛み合わなければ、危険な状態でした……」

 医師はカルテを捲り、片眉を跳ね上げる。

 「特にこの、致命的なまでに麻酔が効き難い体質。我々は緊急搬送でしたので、これを知りませんでしたから……」

 そこで口ごもると、彼はマスクを無意味に弄ると、ほっとため息を吐いた。対して此方はといえば、びっしりと背に汗をかいて、想像するだに恐ろしい妄想をしていた。

 もしも、集中治療室で目を覚ましていたら、自分は……。生きたまま皮膚を裂かれ、心臓に触れられ、血管を切り取られていたのだろうか?

 「……それこそ、世界のビックリニュースとかで、取り上げられたりする感じの、アレな話みたいですね……」

 言葉も上手く出なかった。全く笑い事ではない。そのようなおぞましいことがあれば、確実にショック死していただろう。

 へへ、と引き攣った笑いを浮かべると、医師も話を切り上げて、術後の経過を見て一般病棟へと移る旨を告げた。

 これまで身を粉にすることを強要されていた仕事もなくなり、趣味のゲームも友人が持ってきてくれるのは明日だ。

 何もすることがなくて窓の外を眺めていると、ふと——あの、長い夢のことを思い出す。

 「……夢、だよな?」

 あの黒髪にワンピースの少女。今になって思い出してみると、彼女とは一度だけ、現実で遊んだことがあった。

 偶然上司が盲腸か何かで休んだ日があったので、これ幸いと気兼ねなく半休をもぎ取ったある日。電車の中で、退屈そうな少女と手遊びをしてあげた記憶があった。

 あの夢に出てきた少女は、間違いなくあの少女だった。体が弱いから誰も遊んでくれない、とか。病院は飽きた、とか。外で遊べない、とか。そんな愚痴を哀れっぽく言っていたので、不憫に思ったことを覚えている。

 降車駅で別れを惜しむ彼女へと、確かに「おじさんは電車に乗ってる間しか遊んであげられないんだ。また電車で会ったら、遊ぼうね」と言いくるめた気もした。

 だが——果たして、たった一度会っただけの少女が、あんなにも鮮明に夢に現れるだろうか。あれは、本当にただの夢だったのだろうか。

 あの小さな手や、孤独と恐怖の中、自分を励ましてくれた呼吸や鼓動は、全て妄想の産物だったのだろうか?

 白い天井を見上げて、詮もない思考に耽っていると、勢い良くガラリ、と扉の開く音がする。見舞い客の予定は今日はないはずだが、と頭を出口の方へ向けると、そこには——人工呼吸器を付けた、患者服の少女が立っていた。

 「おじさん、あそぼ! ね、約束でしょ!」





 ダイイング=死にかけ

 髮・クュ豐サ逋ょョ、 (文字化けをなくすと……)=集中治療室