カレーパン 八乙女柑橘
<あらすじ>
模試の結果が返ってきた。E判定、だった。気が付いたら、家に帰りもせず公園で寄り道していた。頭の中が真っ白で上手く思考が回らない。それでもお腹は減るし、とにかく晩御飯のため、パンを買いに行った先には――とても素敵な店員さんが待っていた。
ベタな少女漫画です。
模試の結果が、返ってきた。
二つ折りのその紙を見てからの記憶がない。気が付いたら電車に乗っていて、最寄駅に到着していた。
ここから先の記憶も実に曖昧で、私は確かに、自転車に乗って家を目指していたはずだというのに、いつの間にか公園に居座って、茫洋と『E判定』と書かれた真っ黒な文字を見つめていたのだった。
「……あ、忘れてた」
今日の晩御飯は、自分で用意をしなければならないのだった。
頭の真ん中に陣取る『E』を追い払いながら、冷蔵庫の中身を思い出す。
野菜は……ない。肉と魚があった気がする。どちらも火を通さないと食べられない食材だったが、サラダ油は先日尽きてしまっていた。
「めんどくさいなぁ……」
はぁ、と吐いた溜め息が白く濁って見えた。夏には存在すら定かでないと息は、まるで生き物のように揺らめいている。
何もかもが、面倒くさい。
――そうだ、面倒くさいのだ。
結果を見て、これからの勉強を考えるのとか、友達の結果や、成績自慢を聞くのが、果てしなく面倒くさい。
それでも、お腹は減ったし、ご飯は必要だ。面倒くさがってばかりではいけない。
自転車にカギを差し込んで、サドルにまたがる。ああ、もう、本当に面倒くさい。
きっと、明日の朝ご飯は、カロリーの高いものがいい。元気が出て、少しは気分もマシになるだろう。
食パン一枚なんかじゃ、今日の面倒くささを払拭することなど、できないにきまっていた。そんなことをしたら、明日の夜まで――いや、明後日まで――もしかしたらもっと先まで、この面倒くささを、引きずってしまうかもしれない。
「パン屋さん、行くかぁ」
ふと思い浮かんだのは、お気に入りのパン屋さんだった。
あそこのクリームパンが、無性に食べたくなってきた。朝ご飯用にメロンパンも買っていこう。
いざ自転車のペダルを踏みこむと、何故かぎこちなくなってしまった。必要以上に力を込めながらこいでいると、段々と速度が上がっていく。
――どうしてだろう。大声で、叫びたくなった。
だけど、そんなことをしたら変な目で見られてしまうから、我慢して飲み込む。何かを考えるのも面倒くさくて、暖かくて、いい匂いのするパン屋さんのことだけを考えた。
早く、クリームパンを食べたかった。
店に着くころには、ゼェゼェ息を切らしていた。血が全身に巡って、顔さえも暑い。マフラーを外して、リュックサックに詰め込んだ。
店に入ると、暖かい空気が私を迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
お客さんは私だけで、店員さんとモロに目が合ってしまった。小さくお辞儀をすると、彼の接客用の笑みが深まる。
向かい合っているのが照れくさくて、視線をそらし、入り口近くのトレーとトングを取った。いつもは人気なのに、自分だけだなんて珍しい。そう思って時計を確認すると、もうすぐ閉店時間だった。
――ずいぶん長く、公園に居たんだなぁ。
公園からパン屋さんまでは十分くりあだ。計算するに、公園には実に一時間近く座り込んでいたことになる。
まったく覚えていないが、そんなにも長いこと、何をすることがあったというのだろう。ちらりと頭に過ぎった五番目のアルファベットを溜め息で吐き出して、カチカチとトングを鳴らす。
今の私はハンターだ。好きなものを、好きなように取る。明日の朝の分まで、食べられるだけ取っても良い。
「何にしようかな」
わざと声に出して、まずはクリームパン。隣にあったゴマが乗ったアンパンは粒あんだった。そんなおいしそうなパンを前にして、もちろん私は――パンハンターは、逃したりしない。
他には、とぐるりと視線を動かすと、目当てのメロンパンの横に、新商品と煽りのついたトレーがあった。
「おいもさん……」
クロワッサンの中にサツマイモが入っているというそれ。想像だけで、サツマイモの甘味が口の中に広がってしまった。メロンパンと一緒に、それもトングで掴む。これで、四品目だ。
でも、と考える。一つぐらい、しょっぱいパンがあってもいいのではないか、と。
普段は一緒につき、二品でお腹いっぱいになる。朝ご飯の時は二つも食べられない時もある。だから四品でも多いくらいなのだが……。
正直――もっと欲しい。
具体的には、あそこにあるカレーパンとかが、食べたい。
だが、だがしかし。体重の増加を好まないのは、全国の女子の共通点だ。ぬぬ、と三県にシワを寄せて、だけど脳裏にまた『E』が浮かんでしまっては、もうダメだった。
なぜ、我慢なぞせねばならんのだ! 面倒くさい!!
トングを開き、サクサクの衣のついたカレーパンを、優しく挟み込む。牛肉の入ったこれは、このパン屋さんイチオシの商品だった。
たっぷりの重さのトレーを、わくわくしながら支えて、ニコニコと接客スマイルを浮かべる店員さんのもとへと持っていく。
多分彼は、この量を私一人で、一気に食べるだなんて考えないだろうが、四個もデデンと載ったトレーを差し出すのは、自分が大食らいのようで、妙に恥ずかしかった。
しかし彼はそんな内情など知らない。だから、私が平然とさえしていれば――。
キュルルゥウ。
「あ」
「……?」
セーフだ。まだセーフ。音が小さかったから、店員さんは気付いていない。不思議そうな表情ながらも、彼は商品名を読み上げてレジを押す。
私はその間、顔が真っ赤になっていないことを祈りながら、腹に力を入れた。下手人である、腹の虫を殺すためだった。
グキュルルルル。
「――あ」
ダメだ、これは、流石に無理だ。
「っふ、ふ、っ……!」
あ、我慢してくれてる……。
努力虚しく元気に自己主張した私の腹の虫。店員さんは明らかに笑っていたが、口に手を当てて耐えようとしてくれていた。
「っく、っ、ふふ、す、すみませ、っ」
「いえ、その……こっちこそ、すみません、なんか、ほんとに、えーっと」
顔、真っ赤だ。確実に。
店員さんはパンの包装を一旦やめて、目元にちょっと涙を滲ませながら言った。
「良かったら、ここで食べて行きませんか」
――このパン屋さんに、イートインスペースがあることは知っていた。
飴色のテーブルに、近くにウォーターサーバーとインスタントのコーヒーや紅茶が用意されているのだ。そこで昼間は子供たちや、親御さんたちがくすくすと話しながらパンを食べているのを、何度か見たことがあった。
「コーヒー、どうですか? 紅茶にしますか?」
「あ、コーヒーでお願いします……」
制服姿の年下に、店員さんは愛想良く聞いた。しかも、セルフサービスのはずのコーヒーを淹れてくれている。
私は申し訳なくて、だけど目の前に置かれたパンに意識が飛ぶのを抑えられなかった。
お腹が空いていた。とても。
「はい、どうぞ。パンはどれにします?」
「え、と、クリームパンに、します……」
店員さんはわざわざトレーにコーヒーとクリームパンを載せて、私の前に差し出してくれた。とてもいたれり尽くせり感がある。あれこれしてくれるのが申し訳なくて、それから、またお腹が鳴りそうだったので、誤魔化すために口を開いた。
「あの、もうすぐ閉店だったんですよね? 本当にいいんですか……?」
「いいんですよ、外に出たらパンも冷えちゃいますし。お客さんさえ良ければ、何個でも食べて行ってください」
さあ、と視線でパンを示されると、いよいよ手を伸ばすしかなくなる。クリームパンを手に取って、ゆっくりと口に含んだ。
――おいしい。
甘いカスタードクリームと、滑らかな生クリーム。二つが混ざりあって、パンの味がより際立つ。表面の艶艶した茶色の皮を、つぷりと歯で裂く度に、中から蕩けるようなクリームが現れて、舌の上に広がった。
はむ、はむ、と何度も齧る内、クリームパンは半分になってしまった。その頃になると、喉に甘味が張り付いたような状態になって、クリームの美味しさに慣れてしまう。
勿体なく思い、敢えて苦いコーヒーを飲んだ。それからまたクリームパンを食べると、また新鮮な甘味が口の中に広がった。
「ふう……」
クリームパンは、なくなってしまった。私のお腹の中に入り込んで、空の空間を埋めるパーツになってくれたのだ。
血糖値が上がりだしたのか、体がポカポカしてくる。頭にゆとりが出来て、脳の回転が良くなった気がした。
そんな時、ピロンとスマートフォンの音が鳴る。SNSの着信音だった。
『模試の結果どうだった? 私ビミョー(´・ω・`)』
――たちまちの内に、腹の底へと、苦くて重い何かが居座ったように錯覚した。
美味しいクリームパンのすぐ側に、真っ黒でコールタールのような泥が同居してしまったのかもしれない。お腹の中で蠢いているみたいで、気持ち悪い。息苦しくなった気がして嘆息する。
――返事なんてしたくない。……面倒臭いから。
電源を切って、数秒目を閉じる。それから、パンの袋に手を伸ばして、中のパンが何かも考えずに、びりびりと口を開く。
「ん、ぅ」
勢い良く突っ込みすぎて、くぐもった声が出た。それでも止まらず、なんとかコーヒーで流し込む。とにかく全部詰め込んで、早く家に帰りたかった。こんな所じゃ――泣けないから。
そう、泣きそうだったのだ。"何故か"。何故か目が熱くて、既に涙目になっている気さえしていた。
何もしたくない。食べるのも、飲むのも、話すのなんてもっと嫌だ。面倒臭い、面倒臭い、面倒臭い!
「……どうしたんですか? 何か悩み事でも?」
「……そんなに、大それたものではないです」
胸の内から何かが破裂しそうになった。口を素早く噤んで俯く。間違って何かを口走らないように。
「でも――泣いてる」
少し硬い指が、いつの間にか頬に伝っていた涙を掬ってしまった。
どうやら涙は、もうとっくに零れてしまっていたらしい。それを自覚したら、もう我慢なんて出来なくなっていた。
その指先に、その優しい声に、膨張していた感情が、ついに爆発した。
「――わ、わたし、今日模試が帰ってくる日で……もうすぐ本番なのに、『E』判定だったんです」
こうして話している間も追憶を続けるが、矢張り結果を受け取ってからの記憶はぼんやりとしている。
教室中がはしゃいだ声に包まれていて、そんな中私だけが見えない壁で区切られたように、孤独と絶望、みたいなものを感じていた。
それだけが強烈に残っていて、置き勉をした教科書の種類とか、間違えて持ってきていた体操服が今何処にあるのかとか、全く分からない。
店員さんは、ちょっと目を見開いた後、本気で泣き出した私の頭を控えめに撫でてくれた。まだ大分若い人だったし、多分覚えのある感情なんだろう。
「そっか……頑張ったのに、結果が良くなかったから落ち込んでる、って感じかな? でも、まだ分からないよ。運で受かる人も、実際に沢山いるから」
「運じゃ、ダメなんです。私が目指してるの、国公立の大学で……それで、に、二次試験で、筆記があるから、記号問題みたいに四択じゃ、なくて……」
ぽたぽたっと涙が落ちる。拭いながらバカ真面目に説明していると、自分が急に滑稽に思えて、カッと頬が熱くなった。
何を話しているんだろう。きっと迷惑だ。早く、泣き止まないと。
「国公立か……それは凄いね。どうしてもそこに行きたくて、沢山勉強したんだろうね……。……うん、想像するだけで、凄くショックだ」
「……ちがっ、うん、です。私、ほんとは何処にも行きたくなくて、将来の夢とか、なくて。お母さんが、お金あんまりないから国公立に行ってって、言うから、すごく頑張って……」
頑張った。頑張ったのに。好きな本も、音楽も、友達と遊ぶのも全部止めた。
国公立は難しいからって先生に言われて、しかも「お前なら、相当勉強すればやれる。頑張れ」って皆の前で言われてしまった。
だけど、家にはお金はあまりないし、皆私が国公立に行くのを望んでて、だから、だから、いっぱい勉強したのに。
「でも、自分では、無理だろうなぁ、って分かってて」
他の、私よりも勉強時間が少ない子が、私よりもいい点を取るのを、何回も見た。
そういうものなのだ。学習能力とか、生まれつきの容量の良さとか。
そういうのが、優れてる人ばっかりが、頭の良い所へ行く。私はとにかく勉強したけど、きっと無理だと薄々分かっていた。
「模試が、返ってきて、やっぱり、私じゃ……っ、むりだな、って分かって。その瞬間、なんか、ぜんぶ――めんどくさく、なっちゃって」
五番目のアルファベット。それを見た途端、お腹や胸に穴が空いたみたいな感触がした。五感が希薄になって、頭が真っ白になった。
――面倒臭い。
何かを思うより先に、そうラベルを貼った。自分の内に留められる限界まで溢れた感情を一緒くたにして、大きなラベルで一つに纏めた。
考えたくなかった。だって面倒臭い。思い出したくなかった。何でか涙が出るのが面倒臭いから。
「全部、全部が、めんどくさく、なっちゃって」
俯いて、ぐしょぐしょの袖で目を擦った。店員さんは眉を顰めてそれを止めて、私の頬の涙もハンカチで拭ってくれた。
それから、真っ直ぐに私の目を見て、口を開いた。
「なぁ、違うよ」
「……なにが、です、か?」
「それって、面倒臭いんじゃないよ。もっとよく、目を逸らさずに考えてみて」
――ぎくり、として冷や汗が出た。
何故だろうか、急に羞恥以外の理由で逃げ出したくなって、手をぎゅうっと握りしめる。
「多分、本当の気持ちはそんなものじゃない。面倒臭いだけの一色なんて、有り得ない。自分がどんな風に思っているのか、ちゃんと見つめた方が良いよ」
「そんな、こと」
「……本当に? 悔しくなかった? 腹が立たなかった? 悲しくなかった?」
店員さんは私の冷えた手を握りしめて、心配気にゆっくりと聞く。
その穏やかな声に、私の内側に沈殿していた感情が釣り上げられたように、たちまち浮上してきた。
――本当は、悔しかった。私の方が頑張ったのにって、色んな人に言いたかった。
それから、ちょっとイライラした。努力の分、ちゃんと賢くなればいいのにって理不尽に怒った。
それから、それから……本当は――。
「かなしかった、です、すごく……!」
ぼろ、とまた涙が新しく生まれる。目を逸らしていた感情が一気に私に襲いかかった。
たぶん、公園で一人で絶望している時、私は本当は、泣きたかったんだろう。ずっと悲しくて悲しくて、でも無理やり我慢して、面倒臭いって誤魔化して目を逸らしていた。
認めたくなかった。自分の実力がそこまでだってこと。あんなにした努力が全然、間に合ってないこと。
お母さんの期待に応えられないことも、塾の先生に発表されちゃった進路を変えるのも苦しかった。
「そっか。だったら俺はこう言えるね。――お疲れ様。そんな風になるまで、よく、頑張ったね」
すっと伸ばされた筋肉質な腕が、私の体を囲う。頬が硬い何かに当たって――それが、店員さんの胸板だと分かって、目を見開いた。腕を突っ張って逃げようとするより早く、店員さんの手が頭に乗った。
優しく、ゆっくり髪に差し込まれた手が、私の頭を撫でてくれていた。
「君は頑張った。だから諦めるのは難しいし、勿論、続けたければそうすべきだ。全部、君が決めていい。君がしたいように、出来る範囲でまた頑張ればいい」
店員さんの心臓の音が聞こえる。どくどくと大きめの音で、すごく頻繁に鳴っていた。緊張、しているのだろうか。
一方の私はといえば、寧ろ安堵の最中にあった。凝り固まっていた考えや、ぐちゃぐゃになっていた心が全部溶かされてしまったようで、漸くほっと息をつくことが出来て、涙も段々と収まってきていた。
自分で、決めてもいい。自分で、変えてもいい。
改めて教えてもらえたそのことが、私の中にぽかぽかと安心を与えてくれていたのだ。
体から自然と力が抜けて、意図せず店員さんに寄りかかる形になる。それでも彼はびくともせず、相変わらず私の背に手を回しながら、頭を撫でてくれていた。
今、私は店員さんに――男の人に、抱き締められている。その事実が実感となってのしかかって来たが、それでも私の心は完全に凪いでいた。穏やかここに極まれり、焦燥も羞恥もなかった。
ここ最近の悩みが一気に氷解した為か、その反動のように全身がふにゃふにゃになってしまっていて、身動きなんて取れそうもなかったのだ。
正直言って、今は指一本を動かすのも――本当の意味で、面倒臭かった。まだ、この微睡みのような安堵の中に浸かっていたかった。
暖かくて、心地いい。店員さんの鼓動がずっと耳元に聞こえている。視線を心臓の辺りにやると、胸元にネームプレートがあった。そこには店員さんの名前が書いてある。『矢代』……やしろさん、というのか、この人は。
ふと、自分の手が所在なさげに椅子の淵の辺りに漂っていることに気づいた。
手は、どうすればいいだろう。映画とかドラマとかでは、どうしていたっけ?
指先を持ち上げて、恐る恐る矢代さんの背に回す。腰の少し上の辺りに触れて、自分からさらに密着する。温かくて、心だけじゃなくて、ちょっと冷えていた体が気持ち良い。
「っ、柚希ちゃん……!?」
体の隙間がなくなるくらいくっ付いた所で、矢代さんは慌てたように私の肩に手を置いた。引き離す感じじゃなかったけれど、私はとりあえず大人しく身を引いた。冷静に考えると、自分がとんでもないことをしてる気がしてきたからだ。
「……あの、」
言葉がそこで終わる。泣いたせいか、エネルギーの消耗が激しくて、ちょっとぼんやり気味。言いたい言葉が纏まらない。
ふわふわしたような浮いた気持ちで矢代さんを見て、それからさっき、自分の名前を呼ばれたことを思い出した。
「私の名前、知ってたんですね」
「……実は、前から柚希ちゃんのこと、気になって、て」
気まずげに逸らされた視線は店内を一通りさ迷って、最後にカレーパンに行き着く。
「ストーカーとかじゃないから、安心して……って言っても無理か? ええと……柚希ちゃんいっつもカレーパン買っていくだろ? 実はあれ作るの、俺の担当でさ。それで、なんというか、顔覚えちゃったんだよね」
一度私の元に戻った視線は、またすぐに逸らされて、トレーの上の、食べかけのカレーパンに動いた。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。毎回カレーパン買う人って私以外にも居ると思うけど、そういう風に印象付けて覚えられるのは、ちょっと所か、かなり恥ずかしかった。
それから、少し申し訳なく思った。
ついさっき、無我夢中で何味かも分からずに口に運んだパンは、矢代さんが作ったパンだったらしい。
知ってしまうと決まりが悪い。もっと味わって食べるべきだった。
「友達と来た時、柚希ちゃんって呼ばれてたの、つい耳に残っちゃってて……いきなり馴れ馴れしくごめん。……でも、お陰で最近元気ないな、って気づけてよかった。柚希ちゃんのこと、少しは励ませた……よな?」
頬を軽くかいて、矢代さんは私に伺うように首を傾げた。勿論私は即座に、何度も頭を縦に振る。
「す、すごく励まされました! めちゃくちゃ嬉しかったですし、上手く言えないけど……矢代さんのお陰で、私また、頑張れそうです!」
ぐっと、拳を作って微笑むと、矢代さんもやっと照れるのを止めて、同じように笑い返してくれた。
「そっか、助けになれてよかったよ」
「はい、本当にありがとうございました! パンも、あったかくて美味しかっです。あと……抱き締めてくれて、なんか、ほっとしちゃいました。人肌って、落ち着くんですね」
へへへ、と今度は私が照れて俯くと、矢代さんは口元を手で覆って、何故か天井を仰いだ。
「矢代さん?」
「な、んでもない。柚希ちゃん、それってちょっと、ズルイよ。……おいおい可愛すぎんだろ」
俺、コーヒー入れ直してくる、と矢代さんは席を立った。
後ろから見ると、調理のためか、清潔感のある髪型で丸裸になっている彼の耳は、真っ赤になっていた。釣られて私も、自分の頬が紅潮するのが分かった。
だって、年下の子供を慰めるつもりでしてくれたんだと思ってたのに、あんな風に照れるのって、何か変じゃない?
だったら、もしかして違うのかな。
そう考えながらさっきの抱擁を思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしさが増した。
だって、だって私、私のことをす、好きだって思ってくれてるかもしれない人の背中に、手回しちゃったんだけど!?
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
コップに口をつけてコーヒー飲み込むが、普段どんな飲み方をしていたのか思い出せない。口が変な形をしているかもしれないとドキドキした。
「……パ、パン、食べますね?」
「あ、うん、ど、どうぞ」
矢代さんも心做しか挙動不審だ。私はカレーパンを無駄にしっかりと掴み、かぶりつく。
気まずい雰囲気の中でも、カレーは濃厚で、お肉が口の中でホロホロ溶けて美味しかった。
元々半分ほど食べ終えてしまっていたから、カレーパンはあっという間になくなった。亡きカレーパンを惜しみつつ、俯きがちに考える。私は今、どうすべきだろう?
居心地が良いはずなのに、同時に緊張感をも含んだ空間で、私たちは視線を泳がせまくった。
やがて、私にしっかり目を向けた矢代さんは決意したように口を開く。
「外が、暗くなってきたみたいだ。柚希ちゃん、そろそろ帰った方が良いんじゃないか」
「そ、そうですね、帰った方がいいかもしれません」
言葉に背中を押されたように、さっきまで固まっていた体がたちまち動き出す。私は財布やら残りのパンやらをカバンに入れて、身支度を整える。
矢代さんはそれを、机に肘をついて何だか……私の気のせいかもしれないけど、寂しそうな顔で見ていた。
「あの、ありがとう、ございました。本当に」
店の入口に立つと、外の冷たい空気が薄らと感じられた。それは寂しさの寒さと似ていた。
不意に、振り返ってもう一度お礼を言いたいと思ったが、過剰すぎる気がして、変に思われたくなかったので、私はそのままドアに手を伸ばした。プラスチック製のそれはひんやり冷たくて、フワフワした空間から、体が現実に戻ってくる感じがした。
今日は、矢代さんにありとあらゆる醜態を晒してしまった。泣き顔とか、人に見られたくない顔トップスリーには確実に入る。それに、迷惑をかけてしまったし、もう店に来ないで欲しいと思われてしまったかもしれない。
そう考えるとお腹の底が冷たくなって、ため息を吐いてそれを誤魔化した。このパン屋さん、気に入ってたんだけどな……特にカレーパン……。
カレーパンと言うとまた矢代さんを思い出す。
パン屋さんに訪れなければ、多分会うこともそうないのだろうな。
悲しく思いながら、冷たいノブへ力を込める。……よりも先に、"何か"が私の手を上から包み込んだ。
何か、というか、矢代さんの手だった。
皮が張っていて、固くて、ほんの少し冷たい手は、緊張しているのか汗ばんでいた。
「柚希ちゃん、よかったら、また来てよ。すぐじゃなくていいから、受験、合格した後とかにさ。また、俺のカレーパン食べて、美味しいって……言って、欲しいん、だけど」
切なそうに耳元で話されると、体がびくっと跳ねそうになる。信じられないぐらい皮膚の近くに、吐息が触れたのも感じて、もう、目の前が真っ白になった。
「ぇ、あの、な、なんで……?」
何で、と特に意味もなく聞いてしまい、私は自分で自分を叱りつけくなった。何聞いてるんだ、と。余計帰りにくくなるじゃないか、と。
「なんで、ってそりゃ……」
矢代さんは困ったように数秒黙ると、私の手を握る力を緩めて、そっと指先で、彼よりも一回り小さい私の手の甲を撫でた。
「――俺、柚希ちゃんのこと前から気になってた、って言ったよね?」
ドアノブを握る自分の手。それを包み込む矢代さんの手。
私の手からゆっくりと離れていきながら、指先から腕までを、まるで蛇が這うようになぞっていく。
肩にまでたどり着いたそれは逡巡するように一瞬止まったが、掠めるように首筋を撫でて、離された。
「その、下心は――そりゃあるけど、ちょっとしかないから。……って言っても、安心出来ないか……? でも、本当に、またパンを食べてくれると、嬉しいなってだけで、」
矢代さんが慌てたようにそう言った後、近所の市役所が午後八時のベルを鳴らした。
しょんぼりとしながら、矢代さんはそっと身を引いた。それから、早く帰った方が良いと言ってくれた。気がする。耳が機能している自信が正直ない。
思考停止したまま、(あ、帰らないといけないんだ……)と私は無意識に、控えめな音を立ててノブを捻る。
外に出た。
がちゃん、と背後で扉が閉まると、急に恥ずかしさが湧いてくる。外の冷気に触れた途端、顔が熱くて真っ赤になっていることを自覚する。
――迷惑だと、思われてはいないみたいだった。
凄く恥ずかしいが、ポジティブに捉えれば、つまりこれは、また、来ても良いという事だろうか?
私は勇気を出して振り向いて、ドアを開けた。マフラーを口元に上げて、顔を少し隠しながら私は何とか、絞り出すような声で言った。
「……あの。来週、またパンを買いに来ます。それから、やっぱり今日は、ほんとに、ありがとうございました」
心残りがあったせいで、ついお礼の言葉が出てしまった。
私は、変に思われたかもしれない、と恥ずかしさに襲われつつ、目を逸らしながらもう一言付け足した。
「今度も……矢代さんのカレーパン、買いに来ます、ね」