オン・ザ・ロック 安穏剣呑

私には好きな人がいた。
彼女は、誰からも愛された。皆が彼女を欲し、手を伸ばした。私もそのうちの一人だ。
彼女はまた、誰にも平等であった。皆を平等に愛し、手を差し伸べた。私にもそのように接した。

ふと、高校時代のことを思いだした。特にすることもない平日の深夜、明日の仕事に文句を垂れながら、久しぶりの寝酒に浸っていたところだった。
高校時代の思い出といえばそれは彼女との思い出だった。それほどまでに彼女と共に過ごしていたのだ。
美しい絹のような長髪を風に揺らしながら、全てを理解しているかのような達観した微笑みで言う
おはよう
一目惚れだったのだろうか、初めて出会った時ですら懐かしさのような感情を抱いた。

「名前、なんだっけな」

カラン

あんなに好きだったはずの人の名前をすっかり忘れてしまっている自分に呆れながら、ロックアイス何粒かをいれてグラスを回す。
酒好きの友人からお高いウイスキーを貰ったのだが、それほど酒を好むたちでもないので、偶に、こうして明日の仕事を忘れるために飲む程度だ。
グイっとグラスを呷るが、まだ早かったらしい。喉が焼けてしまった。
ジリジリ、ジリジリ
嫌な思い出だ。
高校に入学してすぐ、人付き合いが得意じゃない、俗に言う、コミュ障ってやつだった私に話す相手なんかいなかった。友達作りに奔走して、空回りして、最後には孤立してしまった。
そんな私は、もう誰かと話したいとも思わず、いや、そう自分に言い聞かせて教室の机で寝たふりをしていた。教室の真ん中には彼女とその他大勢。よくある光景だ。
チャイムが夕暮れを告げ、私は目を覚ます。どうやら、ふりではなく本当に眠ってしまったみたいで、騒々しさも下校中だった。
私も帰ろう、と体を起こして気づいた。彼女は私が顔をあげるのを待っていたのだ。そしていつもの安穏な微笑みで一緒に帰ろうと言ってきた。返事は驚いた拍子に出たうめき声だけだった。
実のところ、私は彼女が苦手だった。優しくて、綺麗で、いつも誰かに囲まれていて、皆にいい顔する彼女が。かといって私なんかに彼女の誘いを断わることができるはずもなかった。
並んで歩く帰り道は春というには温かく、長袖を捲らないとやっていけないほどには夏の足音を感じさせるが、私達の間にはまだ冬が居座っているようだ。
というのも、誘ってきたにもかかわらず彼女は一言も話さないし、私が気を利かせて面白小話なんてできるわけもなく、淡々と足を進めるだけなのだ。
あまりの気まずさに私は足を止めた。そして、なんと隠していた本音を言い放ったのだ。それでも彼女は、あの笑顔を浮かべ、こう言った。
「だけど、私はしおりさんとも触れていたい」
たったその一言で私はやられてしまった。彼女がなんでこんなことを言うのか分からないし、それ以外何も言わないし、全然ついていけないし、でも、自分に嫌気がさして、熱と湿気が喉を焦がした。
あれは酷かったな、私。あんなことしておいて。けど、あれ以来、彼女のこと苦手じゃなくなったんだっけ。
ホント、単純だよな、私。

カラン

うん、ちょうどいい感じになってきた。
詳しいことはわからないけど本当にいい酒なのだろう。口当たりが優しい。口に含むと程よい甘みと柑橘系の香りが広がる。
いつか、似たような優しさを感じたことがあった。ウイスキーに溶ける氷のようにゆらゆらと地面がゆれる高2の夏だった。
小さいころから、10年は超えているだろう、飼っていたペットが死んでしまった。
歳ではあったが夏の猛暑にやられたのか、ぐったりしはじめ遂には動かなくなった。
ペット言えど家族に変わりはない。高校生の私には家族を失う悲しみなど耐えられるものではなかった。あまりの悲しさにエアコン代わりの扇風機ですら顔を背けた。
そんな中、部屋にこもり泣きじゃくる私を彼女はずっと慰めてくれた。
夏休みなのに彼女が来てくれたのはどうしてだったかな。まぁ、たぶん、私が電話でもしたのだろう。
私は彼女にすがりついて泣いた。ベッドに二人並んで座り、彼女は私を抱き寄せ、ゆっくりと頭を撫ぜてくれた。
真夏の部屋に、寄り添う二人分の体温は不似合いだろう、それでも、孤独の寒さよりは随分とましに思えた。
何も語らなかった。彼女も私も。涙と汗と鼻水が彼女の肩を濡らしてグズグズになって、そんな状態でも黙って全てを受け入れてくれた。
彼女と私、掌から伝わる温もり、髪を流れる感触、仄かに香る蜜柑の匂い、それが世界の全て。それだけが欲しかった。
2週間ほどだったか。自分の気持ちに整理がつくまでの間、毎日のようにそうしていた気がする。
ふれあう肌に滲む汗のように、グラスにまとわりつく水滴を眺める。
今思うとちょっとさ、なんだろ、はぁ、顔が赤いのは酒のせい、かな。

カラン

氷が溶け、随分と薄くなってきた。すっかり冷え切ってしまい、鮮やかな味わいや香りもぼんやりとして消えかかっている。
あの楽しかった日々も、また。
卒業式の日、柄にもなく感傷に浸りながら学校へと向かっていた。こんな私でもやはり3年という長さは心を動かすに価したようだ。
色々あった出来事に思いを巡らせて、彼女のことばかりだと気付く。嬉しかったこと、楽しかったこと、逆もまた然り。
彼女はどうなんだろう。この高校生活を惜しんでいるのだろうか。私との生活を、私のことを……、とか。浮かぶものは数多いが、すべての相手をしてやることはできない。
式も終わり、いよいよ本当にさよならだ。友達と抱き合う人、早々に塾へと向かう人、相変わらず一人の私。結局、その日は最後まで彼女と会うことはなかった。
不思議と彼女を探そうとはしなかった。ただ、彼女がいないとこんなもんかなんて自嘲気味に笑う。でも、彼女のおかげで一人も悪くないと思えるようになった。
そして、変わらない帰り道を歩み始めた。置いていったのか置いていかれたのか、結局のところ分からないが、確かなことは、日々は流れる。たった、それだけの、淡い思い出。

カラン

ん、もうこんな"時間"か。そろそろ寝なきゃ―――
ああ、そうか、彼女の名前は……。