ひまわりの塔 藤山三鶴

 

<あらすじ>突如他人から認識されなくなった主人公は、テレビで見たひまわり畑へ最後の旅に出た。そこで、何故か自分を見ることができる少女と出会う。彼女と話すうちに主人公は自分に何が起こっているのかを理解し始める。

 

 

 例えば、俺がいなくなったとする。ある日、忽然と俺の姿が消えて、どこへ行っても俺と会うことがなくなったとする。図書館で音楽を聞きながら勉強していることもないし、学食で暇そうにスマホを眺めていることもない。友達と一緒に笑いながら構内をうろつくこともない。そうだったら、どうだろう。少しは俺のことを覚えていてくれる人はいるのだろうか。そういえば、あいついないね。そうやって話しのタネの一つにでもしてくれるだろうか。そうだったら良いと心から思った。

 

 俺は世界から消えた。

 

 俺は完璧にこの世界からいなくなった。

 

 どういうことだろう、と首を傾げたところで俺を認識してくれるものはない。そういえば数学の議論で数式は人間がいなくても存在するのか、という問いがあった。うろ覚えだが、数式を認識する人間がいなければ数学は存在しないのではないかということだった。数学の先生はそんなことはないと力説していたが、文系の俺はその説に納得していた。そりゃあ、数学を数学として見ているのは人間なのだから、その認識者がいなければ数学だって存在しないことになるだろう。議論はもっと深いものであったが、俺はそれ以上その議論に興味を持てなかった。役に立つとも思わなかった。そんな議論が今になって必要になった。けれども、俺はそれ以上何も知らない。

 何を考えたところで俺がこの世界からいなくなった以上意味はない。しかしそれで全てを諦めることは勿論できない。世界から消えた俺にできるのは何度も繰り返した検証をもう一度やり直すことだけだった。

 

 俺が世界から消えたのは六月四日のことだ。月曜日。多分、俺は目覚めた時から存在しなかっただろうが、本当にそうなのかは分からない。一人暮らしをしている俺に確かめる術はなかった。

 俺はその日、陰鬱な夜を引きずってきたような気怠い気分で目覚めた。遮光カーテンのせいで窓から光が差し込んでくることはない。闇にぼやける頭は起き上がることを拒否している。それでもなんとか起き上がり、カーテンを開けて太陽の光を受けると少しだけ気分が良くなった。梅雨入りはまだだろうか。太陽を見られないのは嫌だから、来ない方が良いな。寝惚けた頭でそんなことを思った。普段と何も変わらない朝だった。講義は十時過ぎからで、この時は九時だった。俺はゆっくりと支度をして、大学へ向かった。

 ゆとりを持って家を出たはずなのに、結局大学には講義の開始時間ぎりぎりに到着した。教授はまだ講義の準備をしている。大講義室は何百人という学生の声を包み込んで、ざわざわという耳障りな音を反響させていた。それから俺は一緒に講義を受けている友達の東山が、講義室の前の方に座っているのを見つけた。軽く挨拶してその隣に腰掛けたところで、講義が開始した。教授の持ってきたネタに講義室が沸く。俺も笑って隣を見た。東山も控えめに笑っていた。そうして講義が終わって、俺は漸くこのおかしな異変に気が付くことになる。

「あー、疲れた。二限キツイなぁ」

 隣で資料やシャーペンを片付けている東山に話しかけた。しかし何の反応もない。講義室を出ようとする生徒たちの出す音にかき消されたのだと思い、もう一度声をかけた。それでも東山はこちらを見ることもなく、淡々とリュックに荷物を詰めていた。俺は少し動揺した。意図的に無視されていると感じたからだった。何か気に障ることでもしただろうか。でも講義中は普通に笑っていたのに、何故? この嫌な状況をそのまま放っておくこともできなくて、俺は少しおどけながら話しかけ続けた。

「えっと、ごめん。えっ、俺なんかしたかな」

 返事はなかった。どくんどくんと胸が跳ねて、鳥肌が立った。嫌われた? 怖い。なんで? 東山は顔色を変えることもなく片付けを終えて席を立ってしまった。俺はその場に立ち尽くしていた。足が震える。怖くて立っていられなくなりそうだった。それからさっと周囲を見渡した。今のやり取りを誰かに見られたのではないかと気になったからだった。友達に無視されているみじめな俺を誰かが見ただろうか。けれども辺りに知り合いはいなかったし、俺達に注目しているらしい様子の人間もいなかった。いや、実際は聞いているのに聞いていないふりをしているのかもしれない。そうして意地悪く笑っているのだ。ばーか。くっそ笑える。無表情の仮面の下を探ることに意味なんてない。分かってはいるのに、考えずにはいられない。俺は震えて言うことをきかない手をなんとか動かして机の上の荷物を片付けた。それから足早に講義室を出た。なんでもないフリをしよう。そうすれば誰にも分からない。そうすれば俺はこれ以上傷つかない。

 

 しかしそんな予測は綺麗に裏切られることになった。

 大学の中ですれ違う友達、先輩、後輩の誰に話しかけても、返事が返ってくることはなかった。俺は何か途轍もなく大きい失敗をしてしまったのだと思った。何か徹底的に友達に嫌われることをしたのだと。それが共有されているのだと。地面が崩れ落ちていく。俺は何もかもをなくすのだと思った。恐ろしくて恐ろしくて、吐き気すら覚えた。もう帰ってしまおう。閉じこもってしまおう。二限の講義が終わってから一時間足らずで俺の心は完全に砕かれた。講義は残っていたが、まともに受けられるとは思わなかった。資料は後で友達に見せて貰おう、そう思ったところでまた背中がさっと冷えた。その日は気を紛らわせるためにテレビを見たりして過ごし、夜になってからは何も考えないようにしてベッドに潜り込んだ。それから二日間、俺は一切外へ出ずに、酷い悪夢を見たりしながらアパートに籠っていた。自分の犯したらしい大きな過ちに思いを馳せながら。

 

 その次の日の朝。やはり目覚めは最低で、疲れが取れたという感じもしなかった。とうとうここも梅雨入りを果たしたようで、カーテンを開けたところで太陽の光が差し込んでくることはなかった。さぁぁと雨の音が聞こえて、窓の外は陰気な灰色に侵食されていた。ベッドから起き出すのが怖い。嫌だ。俺はぐずぐずと薄暗い部屋でもがいていた。このままどこへも行かずにじっとしていたい。ここにいれば安全だと思った。大学へ行くことが怖い。誰にも会いたくない。会えない。世界に嘲られている気がした。なんで? 俺は何をした? 俺の何が悪かったんだ? そうしてぐずっているうちに俺は少しの違和感に気付いた。暖かいベッドの中で頭だけが妙に冴えていった。俺の友人たちはまるで見えていないかのように俺を綺麗に無視していたが、彼らの間に接点……要するに、俺の友達同士が繋がってはいることはないのだ。それなのに、何故こうも行動が全員一致しているのだろう。もしかすると大学全体に俺の悪評が広まっているのかとも思った。けれどもそれなら俺を見てくすくす笑ったり、何かちょっかいをかけてくる人間の一人や二人いてもおかしくない。しかし友人に無視されても、赤の他人から嫌な空気を向けられた気はしなかった。示し合わせたのか? しかしそこまで完璧な集団行動ができるだろうか。あれだけの人数がいて? 誰も彼もが「俺を無視する」というミッションを完全にこなしている。そんなことができるだろうか。俺がそれだけ酷い失敗をしたとして、「無視」以外のリアクションを取る人間が一切いないなんてことはあるのだろうか。そもそも、二限の間は東山だって笑ってくれていた。事の発端が見えてこない。そこまで考えたところで、俺は漸くベッドの中から這い出た。とりあえず、大学へ行ってみよう。 

 何かがおかしい。

 

 相変わらず友人たちは俺を無視する。俺はその度にやっぱり傷ついて、でもその痛みに慣れてきている自分にも気が付いていた。目が合う。それなのに誰も俺に応えない。顔色も表情も変えない。長い廊下の真ん中で俺は立ち尽くしていた。講義中だったからか、あまり人は通らない。その時前から東山が歩いてきた。俺は呆けたようにそれを見ていた。頼む、東山。けれども東山は滑らかな動きで俺の横を通り過ぎて行った。俺は障害物ですらなかった。俺は気が狂いそうになって、衝動のまま東山の腕を掴もうとした。しかし、そのタイミングで東山の腕が持ち上げられた。向こうにいる誰かに手を上げたらしかった。胸がちくりと痛んだ。それでも俺は諦められず必死に呼びかけて追い縋った。

「東山! なぁ! なんで。なぁ! 俺何した!? なぁ! 東山ぁ!」

 東山は振り向かない。俺はどうにかして東山を引き留めたくて、その身体に掴みかかろうとした。しかし東山はその瞬間に走り出してしまった。俺は東山を掴み損ねてその場に転んだ。足をジーパン越しに擦りむいた。そのまま泣いてしまいたかった。うずくまって、みっともなく、何もかもを投げ出して泣き叫びたかった。それをしなかったのは少しのプライドが俺を諫めたからだった。

 

 俺はまた歩き出した。東山はもう俺と仲良くしてくれない。東山だけじゃない。もう誰も、俺と話してくれない。何度も突き付けられた事実が傷口を抉る。もう痛くないと思ったのに。やっぱり、本当に怖いな。なんでだろう。俺なんでこうなったんだろう。何をしたんだろう。どうにもできなかった。何かに急き立てられるようにして俺は走り出した。固い床と靴底がぶつかる音が痛い程響く。チャイムが鳴る。講義が終わる合図だ。走り出した先で扉が開いて生徒たちが出てくる。そこでいつか感じた違和感がもう一度俺を苛んだ。

 

 東山だけじゃ、ない?

 

 誰も走ってくる俺を見ない。ぶつかることもない。なぜか誰も彼もが俺を上手に避ける。そんなこと、あるのか? 俺はやけくそで叫んだ。あぁぁぁぁぁああああああ。誰も俺を見ない。俺は狼狽えながら狂ったように叫び続けた。

 ああぁぁあ、あぁ、あ、あ、うぁあああああああああああ。

 俺が伸ばした手のひらはどうやっても届かない。誰も彼もが俺から逃げる。まるで当たり前のように。それが最も自然な形になっている。触れられない。声も届かない。俺は絶叫しながら大学の中を駆け回った。誰も俺を見ない。触れない。

 

 そうして俺は、自分が世界からいなくなったことを知った。

 

 

 これが四日前のことだ。俺は完全にこの世界からいなくなった。

 俺は俺が消えてしまったことに気付いた直後、さんざん泣き喚いた……りはしなかった。むしろホッとした。良かった。俺がしくじった訳ではなかったのか。嫌われてはいない。無になっただけで。東山たちの中に俺の記憶が残っているのかは分からない。けれども、とりあえず現在の俺は消えてしまったらしい。でも、嫌われていなければそれで良い。

 とは言っても、一応俺も集団ドッキリの可能性を考えていろいろやってはみた。そりゃあ、すっぱりと受け入れろという方が無理な話だった。まず、人間への接触。俺に触れそうになると、皆自然に避ける。いや、避けているとすら言えない。俺のために自分の進路を変えているというよりは、なんとなく道の右側が歩きたいとか、なんとなく左側が歩きたいとか、そういう、何か無意識的な超感覚によって俺と接触しないように見えた。

 次に、人間を除く物体への接触。これは普通にできる。ペンも持てるし、食事もできる。俺が人間でなくなったということはないらしい。人間と接触している物体にも触ってみた。まず、食堂で定食を食べている人間から味噌汁を取り上げて床にぶちまけてみた。定食を食べている人間に反応はなかった。床に広がった味噌汁はそのままで、定食を食べている人間は味噌汁に気付かないまま食事を終えた。次に、講義を受けている人間からペンを取り上げてみようとした。これは出来なかった。シャー芯が折れたり、手を滑らせて床へ落としたりして俺の手から逃げてしまう。

 これが、俺と接触しそうになった人間全てに起こる。果たして人為的にできるものであろうか。俺はこれを超常現象であると考えることにした。

 まぁ、そういう訳で俺は世界から消えてしまった。電話だって誰にも繋がらない。俺は最初からいなかったことになっているのだろうか。分からない。中途半端に日光の差し込む自室に座り込んで、俺は一人ぼんやりと考え込んでいた。検証は終わった。こうして気を紛らわせているだけなのは分かっていた。

 

 俺はこのまま誰とも触れ合うことなく、誰にも気付かれることなく死んでいくのだろうか。

 

 

 

 

 *

 

 部屋は今までと何一つ変わらない。スイッチを押せばテレビが映る。本を開けば顔の見えない誰かの書いた文章が広がっている。部屋に一人で佇む孤独すら変わらない。しかし俺は確実に存在していないのだ。食事をして、排泄して、眠っていても、俺は少しも存在しない。

 俺が何をしたところで、誰もそれを見ることはない。嫌われない。怒られない。気を遣わなくて良い。だから何をしても良い。いっそ人でも殺してみようか。くだらない夢想だ。実行に移す勇気はない。それに俺は他人と触れ合うことができないのだからそもそも無理な話だ。

 でも、これから俺は何をすれば良いのだろうか。何もない。バラエティを見たところで空しいだけだ。人が人と笑い合っているのを見たところで、俺がそれをすることはできない。勉強しても意味はない。仕方ないから一時の癒しのために絵を描き、本を読む。店へ行き、意味もないのに金を置いて、食べ物を貰ってくる。それで、なんだというのだろう。俺の人生に何の意味があるのだろう。俺はいつもそこで考えることを放棄する。考えたところでどうしようもないし、その思考の行きつく先も分かっていた。

 俺は何度やっても変わらない検証に飽き、人と関わらない範囲で以前と変わらない生活を取り戻した。テレビを見て、本を読んで、散歩する。俺はいつか憧れた生活を送っているのだった。何にも縛られず、やりたいことをやる。それは随分と楽しかった。悪くない。なんでもできる。しかし身体はぼろぼろになっていった。

 トイレに入った瞬間どうしようもなく胸が痛くなってうずくまる。首の後ろのあたりがむずむずして、逃れられない苦しみの思考が頭の中に注入される。夜になって眠ろうとしたところで途方もない時を感じ、押し潰されそうになる。喉に何かがつっかえてえずく。感じるのは恐怖だった。整理されていた部屋が荒れていく。片付けない。風呂に入るのが億劫になり、髭も剃らない。どうでも良かった。ついに外に出ることができなくなり、世界から音と色が消えた。何を見ても心が動かなくなった。そこで漸く俺は自分が壊れてきていることに気付いた。何をしても楽しくない。感じるのは生と時間への恐怖だけだった。気付けば一ヵ月程時間が経っていて、季節は梅雨から夏になろうとしていた。もう、俺を救ってくれるものはない。

 

 梅雨が明けて、また毎日太陽が顔を出すようになった。俺は少しだけ気持ちが良くなった。けれどもすぐに自分が生きていることを感じて嫌になった。習慣に身体を操られ、テレビを点ける。その一瞬、目が眩んだ。部屋の中が白く輝いて、目を開けていられなかった。身体が何か柔らかいベールに包まれる心地がして気持ちが良かった。どこかでじぃぃぃんという蝉の鳴き声のようなものが聞こえた。俺の上には青空が広がっているような気がした。

 俺はそっと目を開いた。部屋には少しの異常もない。俺の目をおかしくするものは部屋の中には何もない。俺の目を奪ったのはテレビの中に映った青空とひまわり畑だった。

 

 

 切符を買って改札を抜ける。当たり前のように機械は作動した。駅員に反応はない。行先を確認して階段を降りる。プラットホームは閑散としていた。夏休みのラッシュはまだ先だ。俺の他には誰もいない。蒸し暑さにうだりながら電車を待っていると、ふと自分はここへ帰って来られるのかどうか不安になった。それから、帰って来られなくても何の問題もないことに気付いて、笑ってしまった。間もなくやってきた電車に乗り込んでも、やはり人はほとんどいなかった。

 昨日、夏休みに向けて特集されていたひまわり畑をテレビで見た後、俺は何かに取り憑かれたように行動を開始した。風呂に入ってから髭を剃った。鏡に映った顔は割と元気そうだった。それから洗濯を一切していなかったことに気付き、汚れた衣服を全てまとめて洗濯機に放り込んだ。なんとか綺麗なジャージを見つけ出して、それを着た。部屋に戻るとそこら中にカップ麺のごみや、ペットボトルが散らばっている。本もだしっぱなし。一つも片付けられていない。俺はとりあえずごみを全て回収して袋に詰めた。本もペンも絵具も全て元の場所に戻していく。そうして床の上がある程度片付いた後、久しぶりに掃除機をかけた。埃も塵も消えていく。部屋は俺が消える前の状態にまで戻った。その時、洗濯が完了した合図のメロディが軽やかに鳴った。

 キッチンも風呂もトイレも磨き上げた頃には、すでに日が暮れていた。俺は通学に使っていたリュックに財布やスマホ、イヤホン、折り畳み傘等を詰め込んだ。準備は整った。まだ九時前だったが、俺は部屋の電気を消してベッドの中に入り込んだ。久しぶりの運動で疲れたからか、すぐに眠ってしまった。それで良い。明日は遠出する。

 テレビで見たひまわり畑は、俺の下宿先からはなかなか遠かった。乗り換え5回、片道三時間。そこからさらにバスに乗って山奥へ向かう。特集を組まれていた割には人がいない。やはりこの立地の悪さがあるのだろう。ひまわり畑は個人が所有しているもので、夏の間だけ無料で公開しているらしい。元々、人に公開するために作られたものではないので、かなり辺鄙な土地にある。要するに穴場である。バスに乗っていたのは俺だけだった。車内はクーラーがきいて涼しい。俺はバスに揺られながら、窓の外に広がる青空ばかりを眺めていた。周囲は森で、木しかない。少しの濁りもない純粋な白色の雲が青色の中に滲んだり、浮き出たりしながら漂っていた。次は終点、渕山ひまわり園。渕山ひまわり園。俺はリュックを背負ってバスから降りた。勿論運転手の反応はない。

 ひまわり畑まではバスを降りてからももう少し歩かなければならない。バスストップの名前は詐欺のような気がしたが、まあ良いと思うことにした。八時に家を出て、今は十二時前だ。夏の強い日差しが肌を焼く。舗装されていない脇道を歩いていく。体中から汗が噴き出して、着ているTシャツが肌にへばりついた。じぃぃぃぃぃといつか聞いた虫の声が周囲を埋め尽くしていた。樹々に囲まれた一本道を二十分程歩いていくと、漸く視界が開ける気配が見えてきた。森を抜けられる。足早に出口に向かって歩く。光が弾ける。

 

 

 その時、俺は全ての感覚が研ぎ澄まされていくのを感じていた。目は遥か過去未来まで見通せる気がしたし、両の耳は蟻の足音すら捉えることができると思った。あぁ。人は本当に欲しているものに出会った時、それを完全に吸収し尽そうとするのだと知った。

 

 ひまわりも。青空も。

 どこまでも続いている。

 

 海よりも深く胸に焼き付く青。

 その中で凛とした自信を携えて咲くひまわり。

 

 なんて堂々としているのだろう。ここにあるものは何もかもがはっきりとした意志を持っている。俺の目は生まれて初めての衝撃に戸惑っている。潰れてしまう。このまま目に焼き付いて、他のものを映すことをしなくなってしまうのではないだろうか。飛び込む原色。跳ねる夏。俺は声を上げて泣きたくなった。この衝動を放出したかった。そしてその通りにした。あぁぁあぁぁあああああああああ。喉からいつの間にか声が洩れていた。涙が出てくる。俺はその場に転げまわり、地団駄を踏んで暴れまわった。髪の毛をかきむしり、頭を振る。涙は止まらない。身体が震える。自分を抱くようにして身体をさする。それからその場に座り込んだ。苦しい。死ぬほど。助けてくれ。やめてくれ。もう。無理なんだよ。怖いよ。頼むから。誰か助けてくれ。

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 それはリンと鳴る鈴の音のようだった。高く真っ直ぐに響いて少しだけ震える。錯乱する頭の中に、雫に驚いて身を竦ませた花弁が思い浮かんだ。

「あの、大丈夫ですか」

 俺は顔を上げて声のする方を見た。そこには真っ白なワンピースを着た少女が心配そうな、しかし少し怯えているような様子で立っていた。俺は一瞬訳が分からず固まった。それから漸く自分が話しかけられているという状況を把握した。

「え、あ。いや、だいじょうぶ。大丈夫です」

「はぁ……。そうですか? 随分苦しそうにしていたので」

 首を少し傾げた少女に合わせて、セミロングの黒髪が軽く揺れる。俺はぼけっとその様子を眺めていた。あぁ、女の子だ。上手く動かない頭がくだらない呟きを零した。その横からそんな場合ではない、と言う声が聞こえた。

 俺はハッと我に返った。この女の子は俺に声をかけている。

「あの、すいません。俺のこと見えてるんですか」

「は? はい? えっ、なんですか?」

 少女が眉をひそめて聞き返す。明らかに警戒された。

 

 

「俺、見えないらしいんです」

 

 

 **

 

 少女は渕山翠と名乗った。このひまわり園を所有する家の娘なのだそうだ。高校二年生。俺は彼女に連れられてひまわり園の中央にある灯台のような建物へ入った。俺は彼女に教えられて初めて塔の存在に気が付いた。何故だろう。初めに見た時は空とひまわりしか見えなかった。その二つを繋ぐようにして、その塔はひまわり畑の中心に建っていた。

「涼しいでしょう。ここはいつでも涼しいんです」

 翠はそう言って塔の中に一つだけあるベンチに腰掛けた。塔の内部は空洞になっていた。本当に見せかけだけで、上へ登ることすらできないらしい。入口から光は差すものの、内部は薄暗い。俺も翠の隣に座った。

「うーん。あんまり信じられないんですけど」

 翠が首を傾げながら言った。大方のことはこの塔に着くまでに話した。翠は胡散臭そうな顔をしつつ、真面目に聞いてくれた。

「からかわれているような気しかしないんですけど……。私には普通に見えてるので」

「いや、でも本当なんだよ。信じて貰えないのも分かるけど」

「それが本当なら不思議ですねぇ。私、不思議なことは結構好きなんですよ」

 翠はそう言って少し笑った。

「好きって……、こっちは死活問題なんだけど」

 俺はわざとらしくため息を吐いて言った。翠は失言に気付きながらもふふふ、と笑い続けている。きっとこれが翠が言ったのでなければ、俺は本気で怒っていたかもしれない。翠には人を和ませる無邪気さがあった。俺は短い間しか翠と話していないが、翠を蜃気楼のような女の子だと思った。追いかけても掴むことはできず、目を閉じた一瞬の間にさっと消えてしまう夢のような少女。蜃気楼に怒ったところで仕方がない。

「残念ですねぇ。今は父も母も出かけているんです。私だけしかいないんですよ」

「俺が元に戻ったのか、それとも翠ちゃんが特別なのか、判断できないな」

「私はどちらでも良いですけどね。暇潰しには最適です」

「こら、失言が続いてるぞ」

「すいません」

 翠が笑顔のまま口だけで謝った。ぽんぽんと軽く交わされる会話が気持ち良い。そういえば、消える前はいつもこうして誰かと話していた。もう一ヵ月誰とも口をきいていなかった。その割に言葉はすらすらと出てくる。もう思い出すこともない誰かと積み重ねた会話が俺の中に残っているからだろう。そういえば俺は人と話すことが好きだった。それがどうしてこうなってしまったんだろう。

「うーん。どうしてでしょうねぇ。どうして消えてしまったんでしょう」

 翠が唸る。俺は首筋に流れる汗を拭って塔の入口から広がる景色をぼんやり眺めた。少し温度の低い塔の中で、俺の目はじりじりと迫り来るような青と黄色を捉えていた。暑さのせいで景色がぼやける。

「分からない。俺はもう他人に関わることができない」

「今私と喋ってるじゃないですか」

「……多分、夢か何かだよ。あんまり寂しくなって、こんな夢を見てるんだ」

「それなら、貴方が消えたところからが夢じゃないですか?」

「……そうだったら本当に良いね」

 翠が黙った。俺もそれ以上続ける言葉がなかったので黙った。じぃぃぃぃぃ。この耳鳴りのような虫の声が、俺の脳を溶かしていく気がした。

「そういえば、お名前はなんて言うんですか?」

 少しの沈黙を破ったのは翠だった。能天気そうに笑ったのは、重くなりかけた空気を打ち消そうとしたからだろうか。

「あぁ、そっか。言ってないわ。都築朝陽って言います。大学二回生です」

「都築さんですね。よろしくお願いします」

「よろしく……、ってすごく遅いけど」

「そうですねぇ。まっ。面白くて良いですよ」

 翠はからからと笑う。さっき知り合ったばかりの年上の人間に一切怖気づくことなく会話する翠を俺は少し羨ましく思った。

「翠ちゃんはお嬢様なのかな」

「まぁ、そうでしょうねぇ。ここら一帯は全部うちのものですし。金はありますよ」

「ごめん。聞いた俺が悪かったと思うんだけど、そういうことは知らない奴にはあんまり言わない方が良いと思うよ」

「殺されちゃいますかね」

「誘拐されるかも。脅迫されたり」

「でも、都築さんはそんなことしないでしょうし。信頼してますよぉ」

「会ったばかりの人間をそう、ほいほい信じたらだめだ」

 なんだろう、この会話。俺はここにこんな会話をするために来たんだろうか。

「うーん。でもやっぱり人好きなんですよね。一緒にいたら楽しいし。大抵の人は優しくしてくれますから」

 なんとなく胸がざわついた。それは年長者が経験の浅い年下に抱くもどかしさや、いらつきに似ていた。

「それは翠ちゃんがお金持ちだからかもしれないよ」

 俺は何も考えず思ったままを口に出した。翠が気分を悪くしようがどうでも良かった。翠は口元に笑みを保ったまま、少し黙った。俺は別に翠に嫌われたところで問題はないと思っていた。少し話しただけの他人だ。これから先会うこともない。翠にたたきつけて、見せつけてやりたかった。俺は翠が何と言うか気になって、じっと耳を澄ましていた。目の端で翠の細い肩が見える。太陽の下で白く輝いていた肌が、今は日陰の中で青白く立ち尽くしている。俺はこの塔の中が涼しいのは翠がいるからではないかと思った。

 その時、翠がくすりと笑った。俺は翠の顔を見た。

「でも、楽しいんですもん」

 

 

「えーと、それで都築さん。どうします?」

「どうするって?」

「都築さんはこの世界から消えてしまっているらしいんですよね。それを解決しなきゃいけないんじゃないですか」

 翠は俺の顔を覗き込むようにして言った。またさらりと翠の黒髪が揺れて、肩にかかった。俺は自分が存在していないことを思い出した。

「そりゃあ解決したいよ。俺だって。でもどうしようもないし」

「考えましょ。こうして私には都築さんが見えています。糸口になるかもしれませんよ」

「翠ちゃんが?」

「そうです。きっと都築さんを元に戻してあげますよ」

 翠は特に勿体をつける様子もなく言った。それも悪くないように思った。

「神が与える問題には必ず解答が用意されています。きっとこの不可思議で面白い問題には素晴らしい解答があるんですよ」

「なるほど。じゃあこれは解答編か」

「えぇ。私と都築さんで作る解答編です。一緒に解き明かしてやりましょう」

 細い腕を振り上げて翠は言う。発達しきっていない胸を張った姿がいじらしくて可愛い。俺よりも幼い船頭は楽しそうに笑っていた。翠にならついていっても良いかと思った。

「えーと、まずお友達に無視されたところからですよね。多分、最初に声をかけた時点で都築さんは見えていなかった。というか、その感じだと朝からもうだめだったっていう方が説得力ありますね」

「そうだね。俺もそう思う」

「それで、その後もめちゃくちゃ無視されまくった」

「……うん」

「それでそれで、またしばらく経って大学に行ったら、最早人と接触することもできなかったと」

「あぁ」

「うーむ」

 翠が考え込む。俺は立ち上がって入口の方へ向かった。当たり前のようにひまわり畑が広がっている。もしかすると、この世界にはもうひまわりと青空と俺達しか存在しないのかもしれない。ふとそんなことを思った。

「ちょっと。人が真面目に考えてるのに何してるんですか」

「いや、なんかさ。ここの景色すごいから、馬鹿なこと考えてて」

「へぇぇえ。どんなこっぱずかしいことを考えてたんですか」

 翠がにやにやしながら言う。俺は少し困った。

「別に、恥ずかしいことではないと思うんだけど」

「じゃあ言ってくださいよ」

「いや、なんていうか」

 俺は翠から目を逸らした。どう言っても気障になってしまうことが分かっていたから俺は口に出すのを躊躇った。翠の視線を感じる。やっぱり言わない、と言おうとして翠の方を向くと大きな瞳と目が合った。翠の目は少しも笑っていなかった。

 

「ひまわりと青空と俺達だけしか存在しなかったら面白いなって」

 

 翠の返事はなかった。笑わない瞳が射抜くように俺を見据えていた。もしかすると翠は全てが分かっているのかもしれない。彼女は全てを悟りきってここに存在しているのかもしれない。彼女は夢などではない。恐ろしく存在感を持った人間だった。翠がにこり、と笑顔の形を作った。

「ありえなくもないかもしれないですよ。だって見えないんですから」

 俺はどきりとした。自分のことを言われているような気がした。

「ここからじゃひまわり園の果ては見えません。もしかしたら全部ひまわり畑になってるかもしれません。そうして人なんて皆いなくなっちゃって。そうかもしれません。だって見えないんですもん」

 翠の瞳から険が取れた。穏やかな、蜃気楼の少女に戻った。作り笑いからふわりとした柔らかな笑みへと表情が変化する。

「なかなか素敵なことを考えますね。都築さん」

「……ありがとう」

「さてと、じゃあ解答編を続けましょうか」

「え?」

 

 

「分かったんですよ。何が起こっているのか」

 

 

 ***

 

「あのですね。多分さっきのでファイナルアンサーなんです」

 翠が得意顔で言った。

「……ん? ごめん。どういうこと?」

「言ったでしょう。この世界にひまわりと青空と私達だけしか存在しなかったらって。その通りなんです。実際」

 翠はわざと分かりにくい言葉を選んでにやにやしている。俺ははてなを重ねることしかできない。

「翠ちゃん」

「はいはい。ちゃんと説明しますよ。要するに、都築さんの世界には貴方以外の人間が存在しないんですよ。都築さんの世界には貴方と、人間以外の何もかもが存在しています」

「ちょっと待って。そこからもう分からない。俺の世界って何?」

「多分、都築さんだけが違う世界にいるんです。この世界、貴方以外の人間が存在する世界に重なるようにして。貴方からはこちらの世界の人間が見えますが、向こうからは貴方が見えていない」

「……はぁ。うん? えーと、層みたいな世界があるってこと?」

「そうです。都築さんだけが違う層に存在している。だから触れられない。そして、貴方はこちら側の世界にとっては異物です。だから皆避けます。でも皆都築さんが見えてはいないので、それは無意識下で起こります。都築さんは話してくれましたよね。お味噌汁やペンのこと。多分、お味噌汁は貴方が触れた瞬間、貴方の世界のものになってしまったんですよ。だから誰も気付かない。ペンは元々あちらの世界の人間が持っていて、都築さんの世界へ持っていくことはできなかったんでしょうね。貴方が触れるかどうかで世界は変化していくんじゃないですか」

 翠は時々首を傾げたりしながらそう言った。翠の推測は確かに矛盾がないように思えた。ある一点を除いては。

「じゃあ、翠ちゃんは?」

「はい?」

「じゃあなんで翠ちゃんは俺が見えるの?」

「……なんででしょうねぇ」

 翠は深く首を傾げて、ため息をつくように言った。それから俺も翠も黙ったので、無音の時間が続いた。しばらくして翠が沈黙を破った。

「うーん。分からないですけど、とりあえず、それは置いときましょう。どうすれば都築さんが元に戻るかを考える方が先です」

「元に……。えーと、俺は元々いたところから変なところに来ちゃったと。だから皆がいる元の世界に戻らなきゃならない」

「はい。そうです」

「……どうやって?」

「それは自分で考えてください」

 翠が少し肩を竦めて言った。

 俺は考えてみる。翠の話が正しいと仮定する。何故か俺は俺以外の人間から隔絶されてここにいる。それは何故か。何かきっかけがあったはずだ。消える直前。前日? 前日って、三日? 三日には何があっただろう。でも、それほどショックな出来事なんてなかった。あったら覚えている。俺はいきなりこうなった。

 

「寂しかったですか」

「え」

 突然翠がそう言った。俺は翠の方を見た。上目遣いに俺を見る翠と視線が合う。翠は無表情だった。

「誰にも気付いて貰えないで、会話すらできなくて、寂しかったですか?」

 翠が分からない。表情と言葉が一致していない。翠は俺を気遣うような声音を出さない。むしろ俺を咎めるような、問いただすような勢いで言葉を吐く。

「そりゃあ、寂しかったよ。それで頭おかしくなりそうだったぐらいだし」

「へぇ。そうなんですか。でも、楽だったでしょう」

 翠の言葉は硬く冷たい。まるで氷のつぶてをぶつけられているようだった。表面上の言葉は俺を突き刺すことはない。けれども翠は全身全霊で俺を責め立てていた。俺はどうしていいか分からず、なんとか平静を保って、翠の言葉だけを拾おうとした。

「楽って」

「だって、そうじゃないですか。誰とも交わらない生活なんて訳分かんないぐらい楽ですよ。何にも考えなくて良いし。傷つかないです。楽すぎて死んじゃいそう」

 翠の口調そのものはずっと変わらない。態とふざけたような言葉を使う。そこから滲み出る滑稽さが人を安心させる。俺もそうだった。翠はそうして俺の心を開かせたところで、ざっくりと刃物を突き刺していった。胸の鼓動が速くなり、身体がさぁっと冷えていく。汗が乾いて、身体の熱が冷めていった。

「都築さんって優しいですよね。分かりますよ。話し方とかで。人を傷つけないようにーって思って話してるでしょう。でも時々意地の悪いことを言う。そういう時はわざと相手を傷つけようとして言葉を吐いてるんです。反動でしょうね。普段の。それぐらい都築さんって優しいんですよ。でも、逃げるのは良くないんじゃないですか?」

 

 翠は怒っていた。俺は翠が恐ろしくなる。

 

「だって、人と触れ合えなくなるなんて聞いたらそれしかないじゃないですか。嫌なんですよ。人と付き合うのが。なんで分からないふりしてるんですか。誰だって分かりますよ。都築さんは人間が嫌になったんです。気を遣うのに疲れたんです。だから消えちゃったんです」

 俺は翠から目を逸らしたかった。けれども俺がそういう行動を起こしたとして、翠が何と言うかが分からず、それがまた怖くて、俺は翠から目線を外せなかった。

「怖いでしょう。そうでしょうね。都築さんですもん。他人ばっか気にして。他人の心なんて見えないのに。この意気地なし。嫌なんですよ。そうやって他人を気にして、他人の嫌なところばっか見て、勝手に失望して。そんなの貴方が悪いんですよ。貴方の目が悪いんです。分かんないですか。今も私に失望してるんでしょう。期待しないでくださいよ。この自己中」

 翠はそう言い切った。俺は酷く批判されていた。東山に無視された時よりも苦しかった。生きているのが嫌だ。怖い。翠の言葉はどれも完璧に俺を引き裂いた。その通りだった。翠は俺を張り倒して、踏んで、殴りつけていた。どんな大男だってここまで俺を痛めつけることはできない。なんで俺はここでこんな目に遭っているのだろうか。

「なんで、俺は」

「あんたのせいでしょう!」

 翠が喚いた。耳を劈くような高い声が塔の中にこだました。

「いい加減にしてください! もう二十歳でしょう!? なんでそんな年にもなって、他人を受け入れられないんですか?」

「そんなことない、別に俺は他人を拒絶してるわけじゃない」

「してますよ! なんで他人を切り捨てちゃうんですか? なんで楽しいものをそのまま楽しいって思わないんですか? わざわざ悪いところを探しちゃうんですか? そんなことしてたら一生楽しくないですよ!」

 翠は泣いていた。ぼろぼろと涙を零して叫んでいた。しゃくりあげる声が小さな塔の中に反響する。俺は悲しくなった。翠は止まらない涙をぬぐい続ける。俺は漸く一つの可能性に行き当たった。

「翠ちゃん」

「うるさい」

「翠ちゃんも、俺と一緒ってこと?」

「一緒にするな!」

 翠が髪を振り乱す。

 

「翠ちゃんも消えたの?」

 

 翠は頭を抱え込んで膝に額をつけた。細く白い腕が黒髪の中で震えている。俺はどうして良いのか分からず立ち尽くしていた。他人が取り乱している時、どうすれば良いのだろう。他人の弱さに触れた時、どう反応したら良いのだろう。どうすることが普通で、正解なのだろう。

「やっぱり。都築さんは動けない人ですよね」

 翠が何も言わない俺を詰る。翠には俺の中にあるエゴが見えていた。

「そうやって。自分のことばっかり。人を慰めることすらできないんです。本当に最低」

 翠がぼそぼそと呟く。翠の言葉はもう俺を切りつけなかった。言葉の泡は俺にぶつかって弾けるだけで、俺を傷つけることはない。それは翠が俺と同じ傷ついた者であると知ってしまったからだった。翠は俺の痛みを知っている。翠の言葉はきっと自分自身に向けられたものだった。

「俺はどうすればいい」

「よくそんなこと言えますね。あれだけ言われて。知りませんよ。本当に、都築さんってどうしようもないですね」

 翠は身体を極端に折り曲げたまま言葉を吐き続けていた。髪の毛が隠すせいで、翠の顔は見えない。言葉もはっきりしない。俺はもう何をすれば良いのか分からなかった。疲れていた。翠の言葉に振り回され、その感情に戸惑っている。多分翠は泣いている。でも俺はそれをなんとかするよりも、自分が楽になることを考えていた。どうしたら翠を切り捨てられるだろうと。どうしたらこの記憶を消せるだろうかと。いっそ何もかも置いて逃げ出してしまおうか。だって俺は見えないし、この世界には存在しないんだから。

 

 

 じぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ

 

 

 その時、夏の音が溢れた。そういえば、この音はなんだったんだろう。蝉の声? 虫? ひまわりの揺れる音? それとも世界が終わる音? 翠のすすり泣く声が混じる。 例えば、俺がいなくなったとする。ある日、忽然と俺の姿が消えて、どこへ行っても俺と会うことがなくなったとする。図書館で音楽を聞きながら勉強していることもないし、学食で暇そうにスマホを眺めていることもない。友達と一緒に笑いながら構内をうろつくこともない。そうだったら、どうだろう。少しは俺のことを覚えていてくれる人はいるのだろうか。いや、違う。俺は何もかもを捨てたかった。覚えておいてなんて欲しくない。全部忘れてくれ。俺のことなんか。

 ずっとそう思ってた。何もかもなかったことになれば良いと。いつもいつも、嫌なことがある度に。人に傷つけられる度に、人を傷つける度に。失敗したページを破ってしまえば新品のノートに戻ると信じていた。だから、やっぱり翠は捨てるべきだと思う。

 

 でも、俺は存在しないから。

 

 俺はこの世界から消えてしまった。何も持っていない。俺のノートにもう紙はない。破るページすらない。そうだとしたら、俺は何でもできるかもしれない。この世界の外にひまわり畑がずっと続いていたって良いじゃないか。人がいなくて、原色の青だけが世界を満たしていたって良い。だって見えないんだから。俺がここで死ぬほど失敗して、すごく恥ずかしい思いをして、翠に嫌われたとしても、別に捨てなくたって良いかもしれない。ひまわりが続く世界が許されるなら、失敗と恥に塗れた思い出を引きずる俺がいたって良い。

 

「翠ちゃん。ごめん」

 俺は翠に向かって言葉をかけた。翠は顔を上げない。

「謝らないでください。何に謝ってるかも分からないくせに」

「俺、翠ちゃんに言われた通りの人間なんだけど。目の前で翠ちゃんが泣いてても、翠ちゃんのことより、自分の気持ちを大切にしたいって思うぐらい自分勝手で思いやりも何もない人間なんだけど、それでも、翠ちゃんに泣いてほしくないって思ってるところも本当にあるんだわ」

「くだらない自己開示をすれば救われるんですか」

 俺の言葉は翠に届かない。人の心なんて簡単には開けないし、救えない。俺はそうして人と自分の心の距離を知った。そして自分と言葉の無力さを嘆いた。人と関わることには限界がある。心は完全に通じ合えない。でも、その限界を超えないように、自分が傷つかないように、勝手にセーブをすることは正しかったのだろうか。

「ごめん。それもあるかもしれない。俺は自分を完全に見捨てたりできないから。そういう自分が嫌いだけど、大切なんだ。でも、本当に、翠ちゃんに関わりたいって思ってる。翠ちゃんをなんとか慰められないかって。それがおこがましいことだってことも分かってるけど、俺、翠ちゃんの力になりたい」

「いらないです。やめてください。気持ち悪い。自己愛のかたまりなんて求めてないんですよ」

 翠は相変わらず顔を上げない。何もかもに絶望したように頭を抱え込んで震えている。時々鼻をすする音がして、言葉に詰まる。それでも俺を糾弾する言葉だけは続いていた。俺は、何かを求めるように翠に声をかけていた。

「翠ちゃん。俺やっぱり結構人好きなんだわ。だから、辛い時に一緒にいてくれたら嬉しい」

「だから、自分と人を一緒だと思わないでください。それがまた嫌なんですよ。そういう自分勝手なところが嫌なんです」

「ごめん。でも、それ以外に俺、何もできない。俺、翠ちゃんの傍にいるし、なんでも聞くから。もうそんなに苦しそうにしないで」

 

 いつの間にか俺も涙を流していた。絞り出した言葉は震えて酷く頼りなかった。俺達は迷子だ。この世界に取り残されて、二人ぼっちだ。きっと、俺がここで翠を慰める意味なんてない。俺も翠も存在しないのだから。それでも俺は翠を助けたかった。翠は苦しんでいた。俺を責めながら自分も責め立てて、傷ついて、苦しんでいる。俺は祈るように繰り返す。翠ちゃん、翠ちゃん、お願いだから、そんなに苦しまないで。俺なんでもするから、翠ちゃん。翠ちゃんの言葉にも、感情にもちゃんと向き合うから。逃げないから、翠ちゃん。

 

 その時、酷い眩暈が起こった。視界が眩んで、足元がおぼつかない。目の端に映る翠はまだ顔を上げない。ひまわりと青空が混ざり合ってマーブル模様のようになる。倒れた? 分からない。分からないけれど、はりぼての塔の天井が見えた。やっぱり倒れてる? あぁ、でも俺は見えないからこのまま死ぬかもしれない。誰も看病なんてしてくれないし。翠ちゃんは泣いてるし。というか、やっぱ俺じゃだめっぽい。笑える。いや。笑えないか。もうなんでもないフリをするのもやめよう。ニヒリズムなんてくそくらえ。最後か。いや、本当はもう死んでたのかもな。死んでから、どうしようもない未練があってこんな夢を見ていたのかもしれない。走馬燈? いや、違うな。こういうのを、えーと、なんだろう。なんて言うんだろう。分からんな。あ、そうだ。あれだ。

 

****

 

「延長戦だ」

「は!? えっ!? 都築!」

 目が覚めると白い天井が見えた。黒い点々。安っぽい、どこにでもある天井。しかしそれが特別なものに見えるのは、見たこともないような表情をした東山がいるせいだろう。

「……東山?」

「都築!あっ。もう、この。あぁ……」

 東山は顔を覆ってへたり込んでしまった。俺はどこかに寝かされていた。起き上がって周囲を見ると、そこは病院の個室のようだった。東山は椅子に座って顔を覆っている。その姿に既視感を覚えて、ふっとあの涼しい塔の中を思い出した。窓の外にはあの時よりもずっと薄い青が広がっていた。

「何故病院?」

「この馬鹿!」

 東山はばっと顔を上げて叫んだ。俺は少しびっくりする。東山の顔は涙に濡れていて、けれども確かに怒っていた。こんなに真剣な顔をしている東山を見たことがなかった。その声を聞いた両親と医師が部屋に入ってきて、俺は東山から引き剥がされた。

 

 東山から詳しい話を聞いた。どうやら俺はアパートで手首を切っていたらしかった。それを東山が見つけたのだそうだ。何故東山が俺の自殺に気付いたかと言えば、俺が未練がましく東山に連絡をしたからだった。俺はどうやら手首を切る直前に東山に電話をかけて、つらつらとくだらないことを口走ったらしい。東山は俺の異変に気付いてすぐに駆けつけてくれたのだそうだ。玄関は開いていて、中に入ると、風呂場で手首を切っている俺がいたと言った。傷は浅かったらしく、命に別状はなかった。俺は泣いて喚く東山の言葉を聞きながら、自分には本当に死ぬつもりなどさらさら無かったのだろうと思った。

 

 俺はさんざん病院の検査を受けた後、両親に死ぬほど怒鳴られ、泣かれた。俺は自分に家族がいたことを思い出した。誰とも繋がらず、一人で生きているような気すらしていた。しかし、病み上がりの息子を殴り、怒鳴り、泣いている親を見た時、それは全くの間違いであったことを知った。東山にもめちゃくちゃ怒られ泣かれた。馬鹿とさんざん罵られ、絶交するとまで言われた。俺は謝り倒して、最終的には土下座した。誓約書も書いた。そうして俺はなんとか貴重な友人をなくすことを回避したのだった。入院している間、東山が見舞いに来なかった日はなかった。その入院生活もあと数日で終わる。ちなみに、季節は夏になどなっていなかった。相変わらず梅雨の真っ最中で、晴れていたのは俺が目を覚ましたあの日だけだった。

 

「俺さぁ、なんか夢見てたかも」

「はぁ?」

 東山が手元の本から視線を上げて俺を見た。少し訝しむような顔をしている。なんとなく、東山と翠は似ているような気がした。

「俺が見えなくなって、東山に無視されて、でも可愛い女子高生とちょっといちゃつく夢」

「訳分からんわ」

 東山が呆れたような顔をする。本当はあまりいちゃついたりはしていない。むしろ険悪に近かった。ただ、少し東山と話したかっただけだった。

「渕山ひまわり園っていうすっげえ綺麗なとこがあって、本当に、めっちゃ綺麗だった。ひまわりも空も、本当に原色に近い色で、輝いてて。そこの中央にあるはりぼての塔の中で女の子と喋ってた」

「なんかロマンチックだな。お前そういう趣味でもあんの」

 東山が茶化すように言う。俺は笑いながら返した。

「ねぇよ。でも、多分あれ、本当にあるんだよ」

「ひまわり園?」

「あぁ。調べた。全く同じ名前で、全く同じ場所にあった。多分、そこ」

「すげーな。幽体離脱?」

「さぁ。でもな、俺、あそこ行ってみようと思う」

 俺は窓から空を見ながら言った。もう一度、あの青が見たい。ひまわりが見たい。

「お前、その女の子に会いたいだけだろ」

「それもないこともない。というか、まぁ、そう」

「はぁ。素直だな、おい」

 東山が仕方なさそうに笑った。東山はいつもそうやって笑う。俺がつまらない話をしても、必ず聞いてくれて、笑ってくれる。俺はふと、目覚めた時に見た東山の顔を思い出した。

「東山さ、俺が起きた時、すっげー顔してたよな」

「なんだよ」

「東山があんなに真剣な顔してるところ初めて見たから」

「そりゃそうだろ。友達が自殺してへらへらしてる奴いねぇよ」

 なんでもない東山の言葉が心に刺さった。俺は初めて他人と自分が重なる感触を得た気がした。本気で俺に向き合ってくれる人間がいることが嬉しかった。多分、俺は最初からそれを求めていた。でも手に入らないから、いらないフリをしていた。求めても得られない自分を見るのも、見られるのも嫌だった。みっともない姿を晒したくなかった。失敗したくなかった。失敗を見られた人間を切り捨てていきたかった。でも、それなら東山は真っ先に切り捨てなければいけない。東山は俺の失態をありありと間近で見ていたのだから。しかし、俺はそうしない。東山との思い出は捨てないし、ずっと東山と付き合っていく。東山が俺から離れていったとしても、俺は東山との全てを捨てない。それが正解かどうかは分からない。でも、一度世界から消えた俺は、そうしたいと思う。

 完璧に人と付き合っていくことはできない。失敗はある。その度に切り捨てて行って、後は何が残るのだろう。それを避けて表面だけの付き合いをしてどうなるというのだろう。何もかも持っていくつもりで人と向き合いたい。欠点を探さず、友達と楽しいことを追いかけたい。

「何笑ってんだ、お前」

 東山が言う。そういうお前も笑ってんじゃねぇか。そう言うと、東山は大笑いし出した。俺も笑う。人と笑うのは楽しい。

 

 俺は翠に会いにいく。あの時、俺の言葉は翠には届かなかった。人間の心はそんなに簡単ではない。でも、やっぱり俺は翠に苦しんで欲しくなかった。俺はもう消えてはいないけれど構わない。

 今も翠はあのひまわり園で泣いているかもしれない。あの眩い黄色と深すぎる青に挟まれた塔の中で。翠は人が好きだと言った。それはきっと嘘ではない。本当は人を待っていたのではないだろうか。そして、今もそうなのではないだろうか。俺は翠を置いてきてしまった。

 

 じぃぃぃん。耳を澄ましてみる。あの日、目に焼き付くことを心配した景色を思い浮かべながら。あれは夏の音だ。蝉の鳴き声も少女の泣き声も内包した音だ。ひまわりも青空もあの音に焦らされて少し滲んだ。まだ聞こえないあの音ももうすぐやってくる。俺が入院している間に、世界は少しずつ火照り出していた。待っていて。もうすぐ会いに行く。きっと会える。翠ちゃんは消えてなんていない。俺は知ってる。探しに行くから。きっと待っていて。