いえたらいいのに

                       空星 灯音

 

 

 

窓の外は明るい。自分の部屋に閉じこもっているうちに、季節は冬から春になっていて、外に出かけたらきっと日差しの暖かさと強すぎない新しい刺激を感じることが出来るのだろう。

けれど、実際に靴を履いて玄関から外に一歩踏み出すことはしない。それは、積み重なったまだ何も書かれていない紙を目の前にして、自分にはたいしたものは作れないと嘆くことと、違うようで似ている気がした。

暗い室内で、私はごそごそと布団から抜け出す。カーテンを開けて部屋に光を取り込むかどうか迷った。

隣の芝生は青いというけれど、カーテンの隙間から見える空だって青い。自分より輝いているものだらけだ。

 

休日に珍しくこの時間に起きたのだから朝食を食べようと台所に向かう。どうやら姉は友達と遊びに出かけたようだ。両親も出かけると昨日聞いていたから、私は留守番を押し付けられたのだろう。いつもは姉が家にいるだけで騒がしいけれど、こんなに静かで何も音がしないと、それはそれで落ち着かない。姉のように私も独り言だとしても大声で話してみようかな。

「あ」

コーヒーを入れようとして取り出したスプーンを持ち損ねて床に落としてしまった。チリンという小さい音が少しの間響いただけだった。

拾い上げようとその場にしゃがむ。小さなスプーンは何も掬わないまま、動かず床に落ちている。

今の私は姉とは違って、小さい声しか出せない。自分では気づかなかったけれど動作も静かすぎるらしい。自分の意見も上手く人に伝えることが出来ない。昔は比較的出来た、自分の世界を表現する手段だって、今は出来なくなりつつある。

それでも、自分が取るに足らない存在であると中学生のうちに自覚することが出来たのだから、今の自分になってよかったのかもしれない。

 

コーヒーを作り終えてから、今日も朝からSNSをチェックする。絵が上手い人、ピアノが得意な人、作品を載せている人、いろいろな人がいる。性格も信念も様々だ。外に出ることや人との交流が少ない分、ネット上でたくさんの人の様子や言動を見て、少しでも自分の心と知識を豊かにしたいと考えて始めたけれど、最近それも無駄であることが分かってきた。

いくら人と交流しても、白紙を自分の力で埋められるようにはならない。むしろ自分の視野が、想像の幅が狭くなっている感覚がある。第一、知れば知るほど、自分以外の誰かが自分が素晴らしいと思うものをすでに作っていることを理解させられる。それでも自分にできることがあると信じて書くのが正しいのだとは分かっていたから、なおさら辛かった。

一通り見てしまったので、スマホのアプリを閉じる。続いて久しぶりに別のアプリを開くと、通知が二桁を超えていた。

未読のまま放置されている誰かの言葉。

クラス全体に向けられた遊びの誘い。

先輩からの事務的な連絡。

そして、友達のメッセージが一言だけ。

既読しなくても内容は全て把握していた。返信をしたくないから、もらった言葉に気づかないふりを続けている。

 

夕焼けの橙の色が、空全体に広がっている。

折角自分の部屋で安心して過ごしていたのに、帰ってきた姉が忘れていた用事を押し付けられて外に出ることになってしまった。自分で郵便ポストまで入れに行けばいいのに。

手に持っている封筒がパタパタと揺れる。

学年末テストが終わって長期休みに入ってから今まで、こうして風を感じることがあっただろうか。前に感じたときは、風が肌にあたると痛かった。それが随分ましになっていて、やっぱり朝起きたあの時に外に出ていればよかったのかなと今になって悔しく思うほど、春の香りがしている。

公園の近くを通り過ぎると、記憶の中では蕾すらついていなかった桜が満開になりつつあった。まだ三分咲きくらいの桜もあるけれど、新学期が始まる頃にはほぼ散ってしまっているだろう。

自分の用事を忘れてしまいそうになって目線を前に戻すと、遠くの方に人影が見えた。私の学校とは違う制服を着ているから、近くの高校の人達だろうか。二人で喋りながら、駅の方角へ道を曲がっていく。会話は聞こえそうにないけれど、その後ろ姿が、うらやましくなってしまった。羨望だけでなく、薄暗い気持ちも混ぜ込んでそう思ってしまう自分が、嫌いだった。

 

 

『秋、私コンクールの二次予選落ちた……』

きっかけはそんなメッセージだった。

ひびきはピアノがとても上手い。それは、小学生の時だけ一緒に習っていた私でもよく知っている。自信があった分彼女は余計にショックだったのだろう。結果が発表された夜に、ひびきは私にそう連絡してきて、通話をしている間、始終泣いていた。私は日付が変わるまで彼女と会話をして、そうしてひびきも思いを吐き出して少しは落ち着いたように見えた。

しかし、それは私の思い込みで、彼女が心に受けた傷はずっと深かったようだった。それからしばらくひびきはレッスンに通った時、話題から連想した時、特に何もなかった時にも、予選に落ちたことを悲しんだり、悔しがったりして、心が不安定な時期が続いた。小さい頃に同じ辛さを味わったことがあるから、私も求められる度に、その心が癒えるように言葉を選び、気を遣って、彼女の言葉に応えてきた。

三か月ほど経って、そのことが話題になることがなくなり、彼女が次の本番に向けて練習し始めてから、私はひびきと話すことが苦しくなってきた。考えたくなくても、考えてしまうのだ。

彼女が私の不用意な言葉で、またあの苦しい気持ちを思い出してしまったらどうしよう。

彼女の機嫌を損ねてしまったらどうしよう。

ひびきのことが、きらいになりそう。

私が彼女を追い詰めてしまっていたらどうしよう。

そもそも本当に彼女はその痛みを乗り越えているのだろうか。

こんなことをぐるぐる考えてはいけない。思ってはいけない。

そうおもうわたしがいなくなれ。

 

ひびきと二人で入った部活。そこでも周りから見れば初心者の私と一年以上は続けている先輩との差を見せつけられた。短い期間で何本も書く先輩、長編が得意な先輩。ひびきは元々幽霊部員になることが目的だったのでこのことでは悩んでいなかったらしいけれど、想像力もなくて、ただ自分の思いを話す代わりに伝える手段として文章を書いていた私は、自分が本当に駄目であることを突き付けられた気がした。文化発表会が終わってひと月の間、私は作品らしい作品を作り上げることはできなかった。自分の書こうとしているものが適切ではない、間違っているように思えた。

だから、部活にも行かなくなった。メッセージの未読は溜まり続けている。

 

 

ポストに封筒を投函して、来た道を引き返す。踏切の音がしつこくて、自分の足音さえも耳に届かないのではないかと思ってしまう。休日だからこの時間、この道はほとんど誰も通らない。このまま日陰に行けば、私がこの道にいることなんて誰にも分からないだろう。

同じ音を鳴らし続ける踏切から遠ざかる。その時その音に交じって、

「秋!」

近くに住んでいるから、聞こえても不思議ではない声。だから外に出ることを拒んできたのに。

でもそういえば、前に直接声を聴いたのはいつだろう。

ばたばたと走って来る音。逃げるための体力も残っていないので何事もないかのように歩き続けることしかできない。

「どうしたん、秋。先輩から休みになってから返事が来ないって聞いたよ。私のメッセージにも返事ないし……」

幽霊部員なのにいつ先輩と……?ああ、あのひびきの友達のお姉さんのことか。

「ちょっと体調が悪かったから。ごめん、あとで確認するね」

「ねえ、秋」

ひびきが私を追い越したと思ったら、こちらを向いて立ち止まる。行く手を遮られた私は止まるしかない。

「私大丈夫だからさ」

「え?」

「色々秋には聞いてもらって、次の発表会で頑張るって決めて、大丈夫になったから。秋も、具合が悪かったら私に言ってほしい。そうでなくても、何か、なんでもいいから」

ひびきの顔は、瞳は、夕日に照らされて輝いているように見える。その瞳でまっすぐ私を見つめるけれど、私は彼女が本当は大丈夫なんかではないとしか思えなかった。

貴方は泣きたいときに泣いてずるい、こちらが手を取らずに気持ちに寄り添わないことに罪悪感を抱かせる。私が悩んでいることで貴方は悩んでない。ひびきなんて……。

唐突に心を占める残酷で醜い気持ち。消してしまおうと必死になりながら改めて気づいた。

私は、何一つしないまま、感じることさえも怖くなっている。

かつて大事だったものに敵意を抱くことが怖い。

やってもいないことに関して、やって後悔に苦しめられるのが怖い。

嫌いになるのが、怖い。

「秋」

ぎゅっと目を閉じてしまったから、ひびきがどんな表情なのか分からない。そのまま何も言われないので、感情がすべて過ぎ去るのを待って目を開ける。

ひびきが涙をこぼして泣いていた。

正直、またか、と思ってしまった。けれど何故かそう思ったことを心から追い出す必要はもうなかった。ひびきにも自分にも向けられた、呆れのような諦めのような、安心感のようなもので満ちた。

「……もう、やらないの?秋、小説書くの、好きだったのに。寂しいよ、私。だって、秋のこと」

私を求める手が私の肩の前まで伸びて、そして私に触れることなく降ろされる。

「秋の文章じゃないと、分からない……」

前に、ひびきには言っていたことを思い出した。私はライティングがスピーキングよりもずっと上手いから、この部活がいい、と。その時から既に声で言葉を紡ぐことを苦手としていた私のつたない言葉を、ひびきは拾ってくれた。

けれど。

「なら、もう私のことは分からないね。私の心には、ひびきが欲しい私らしい物語なんて、何も創れないから」

底辺に沈んでこびりついているのは、どこから来たかも分からない、様々なものへの嫌悪感。ひびきと話して、それは消し去ることのできない、隠すように抱え続けるしかないものであると分かってしまった。いや、本当は知っていたのだ。それが溜まってしまったから何も浮かばないのだとも。

「ごめんね、ひびき」

ひびきの横を通り過ぎていく。ひびきの視線と、夕焼けの光にさらされているのを感じた。

多分もう、互いの言葉は互いには届かない。

 

白い紙を机に広げる。

これを私の思考で埋め尽くして紙を真っ黒にしたならば、少しは軽くなるだろうか。

 

そう思いながら、今日もただ眩しい白を見るだけだ。