Innocent girl 藤山三鶴

 

<あらすじ>

 フィオは五歳の時から不愛想な騎士のエトヴィンと国のはずれの森に二人で住んでいた。遊び相手もおらず、温室で本を読み、絵を描くばかりの日々。フィオはエトヴィンの自分の対する敵意に気付いており、彼女もエトヴィンを嫌っている。しかし、お互いを憎しみ合っていた二人は、些細な出来事をきっかけに歩み寄っていく。

 

 私は五歳の時からこの不愛想なエトヴィンと二人で森の中の広くて空っぽな城で暮らしていた。国のはずれ、誰も寄り付かない妖精の森と呼ばれる湿気た森。私はお父様お母様から引き離され、一人の従者だけをつけられてそこへ放り出された。その日は私の誕生日だった。馬鹿な私は途中まで楽しいお出掛けに行くのだと信じていた。けれども馬車の中には初めて見る知らない男と私しかいない。だんだんと都の景色が遠くなり、馬車が恐ろしい妖精の森へと向かっていることが分かった時点で私は泣き出した。馬車の扉は開かない。泣きじゃくる私をエトヴィンは憎しみと哀れみの籠った目で見ていた。

 

 フィオ様……、フィオ。もうずっとこれ以外の声を聞いていない。心地よいアルトながら、冷たいその声で私の一日は始まる。

「朝です、早く起きなさい」

 目を覚ました私を見つめるエトヴィンの顔はどんな表情もしていない。お母様のお優しい笑顔でもお父様の険しい顔でもない。無表情。それはどれだけ語り掛けても応えてくれないこの城に似ていた。

「毎回言っているでしょう。起こされたらすぐにベッドから出なさい。本当なら貴方一人で起きなければならないのですよ。もう十歳になるのですから」

「……」

 私は無言で起き上がり、じっとエトヴィンを見つめた。お前なんて……お前なんていなきゃいい。恨みと憎しみを込めた目で私は下からエトヴィンの顔を睨んだ。私の気持ちをエトヴィンが察しているのか分からない。けれどもエトヴィンは何も言わずにいつも私の視線を受け止める。

「……朝食を用意してあります。お顔を洗って下に降りてきてください」

 そう言ってエトヴィンは私に背を向けて部屋を出て行った。私は少し気が晴れる。

 

 エトヴィンは私が嫌いだった。用意された真っ青なドレスに袖を通しながら私は考える。私もエトヴィンが嫌いだ。この城に初めて来た日、エトヴィンと私は何年も使われていなかった古びた城の中を二人で歩いた。いや、エトヴィンは一人で歩いていた。私は一人で残されるのが嫌で、振り向かないエトヴィンの後ろを泣きながらついて行っていただけだった。どの部屋もテーブルに厚い埃が積もり、窓ガラスは薄汚れていた。私はこれからどうなるのだろう。何故か迎えが来るとは思えなかった。不安に駆られてエトヴィンの服の裾を掴む。エトヴィンの足が止まる。えぐえぐとしゃくり上げながら私はエトヴィンを見た。エトヴィンは冷たい目で私を見下ろす。その時私は燃えるような憎しみをエトヴィンに覚えた。

 エトヴィンは騎士であり、私の召使だった。きっとお守りなんて騎士のプライドが許さないのだろう。それでも父君から頼まれたら断れない。だからエトヴィンは私を恨んでいるのだ。自身を縛り付ける私を。でも私だってエトヴィンなんていらない。嫌い。勝手に帰ったら良い。私と一緒にいるのが嫌なら。でもそうしない。だって父君の命令だから。だったらエトヴィンは腹をくくるべきだと思う。私のお守りという役目を全うして笑ってくれたらいい。それだけでいいのに。

 

「勉強の時間です」

 私は素直に机の前に座る。勉強部屋の窓から見える空は快晴。別に勉強は嫌じゃない。本も好きだ。エトヴィンのことは嫌いだけど、エトヴィンの話は面白い。勉強は私と城以外の世界を繋ぐ唯一の手段だった。私は残してきた世界を知りたかった。悪あがきだと思う。だって私はどうせこの城から出られないのだから。

「……えぇ、そうですね。よく出来ています」

 エトヴィンはぼそっと呟くように言う。この時だけエトヴィンは私を褒める。

 勉強が終われば私は自由だった。何をしても良い。エトヴィンは何も言わない。私は温室で本を読んで、絵を描いて、うたたねする。森の中の温室なんてなんの意味もない。力強く生きている樹々に囲まれた中、人間に守られなければ生きていけない植物が小さな箱の中に密集している。私は温室が好きだった。温室は優しい。とても弱いから。花は弱いから優しくて、エトヴィンは強いから優しくないのだろうか。でもそんな温室の世話をしているのもエトヴィンだった。

 

「フィオ様」

 目が覚めるともう世界は茜色に染まろうとしていた。周囲には持ち込んだ本が散乱している。読んでいる最中に、また別の本が気になってその本を開く。そうしているうちに私は眠り込んでしまう。最近は医学書ばかり読んでいる。お医者になるつもりなんてないけれど、興味があった。

「またこんなに本を持ち込んで……」

 エトヴィンのちょっと叱りつけるような声が聞こえる。私はちらとエトヴィンを見上げたけれど、ふいと顔を逸らして目を閉じた。まだ眠い。エトヴィンはため息を吐く。身体がふわりと持ち上げられた。暖かい。どく、どくという胸の音が聞こえる。私はエトヴィンに抱きかかえられていた。浮遊感が心地よい。ふふふ、と思わず笑ってしまった。

「起きておられますね」

 エトヴィンが言う。でも私は何も言わない。目を閉じたまま、エトヴィンの胸元でくすくすと笑う。エトヴィンは溜息を吐く。なんとなくエトヴィンが笑っているような気がした。

 

 でもそんな甘い夢もすぐに終わる。エトヴィンはいつもの無表情に戻って……、いや、さっきも笑ってたとは限らないけれど、夕食の前には私に優しくないエトヴィンに戻っていた。

「本をあんな風に温室に大量に持ち込むのはやめなさい。それにあんなに医学書ばかり持ち込んで……先に読む本があるでしょう」

 夕食を運びながら、エトヴィンはねちねちと小言を続ける。さっきまでは楽しかったのに、エトヴィンはすぐにそれを汚して上書きする。なんで綺麗なままにしてくれないんだろう。やっぱり私はエトヴィンが憎かった。まだ小言を続けるエトヴィンに背を向けて、私は夕食のテーブルの席から逃げ出した。埃くさい廊下を走って自分の部屋に向かう。エトヴィンは追いかけてこない。階段を駆け上がってベッドルームの隣の部屋に入って鍵をかけた。これで私は一人。エトヴィンなんて存在しない。これでいい。私は扉を背にずるずると座り込んだ。

 私にはエトヴィンが分からない。初めて会ったときのエトヴィンは本当に私を憎らしい目で見ていたように思う。それに憐み。きっと私が捨てられたからだろう。エトヴィンは二人いる。自分を騎士から引きずり落した私を恨むエトヴィンと、捨てられた私を憐むエトヴィン。でもそんなの勝手だ。どちらもエトヴィンの勝手な感情で、私は関係ない。だってどれも私が望んでしたことじゃない。それすらも罪だというなら、私が生まれてきたことそのものが罪だ。もふもふするドレスに顔をうずめて、私は少し泣きたくなった。夜は更けていく。私は一人、私は一人……。

 

 鳥の声が聞こえる。私はぼんやりと目を開けた。昨日のまま扉の前で眠ってしまっていた。窓の外に目をやる。白けた空はまだ眠りから覚めきっていない。鳥はまだ鳴き続けている。鳥は朝にしか鳴かないのだろうか。それとも私が聞いていないだけだろうか。でも世界が終わって、この綺麗な鳥の声だけが残るのなら悪くないと思う。人間なんて皆死んでしまえ! 近くにあった本を壁に投げつける。私のやわな力じゃ壁に穴なんて開かない。でも本は悲しそうな音を立てて床に落ちた。本当はこんなことはしたくなかった。けれども、どうしようもないのだ。

「フィオ様」

 私はハッとする。閉じられた扉越しにエトヴィンの声が聞こえた。まさかずっと扉の前にいたのだろうか。私は息を飲んで固まる。返事をしない私にしびれを切らしたエトヴィンが言葉を続ける。

「……いい加減になさい。貴方はもう子供ではないのですよ。現在も国は干ばつと伝染病に苦しんでいます。貴方以外の兄弟だって、何人も亡くなられたのです。その中で生きている貴方がこんなに駄々ばかりこねて……」

 昨日から変わらない調子、お小言。

「うるさい!」

 もううんざりだった。私の何が悪い。エトヴィンはわざわざ私の悪いところばかり探す。そうしてねちねちといじめる。それが騎士道なのか。なんて嫌な生き物。ゾッとする。

「……フィオ」

「うるさいうるさいうるさい! お前なんかいらない! お前なんかいらない!」

 何故か目が熱くなって、ぼろぼろと涙がこぼれる。少しも悲しくなんてないのに、エトヴィンの喉を掻き切ってやりたいぐらいに怒っているのに、なんでなんだろう。

「大嫌い! エトヴィンなんて大嫌い! 騎士なんて嫌! もう一人にして! エトヴィンと一緒にいなきゃいけないぐらいなら死ぬ!」

「……失礼します」

「死ね! 皆死ね! エトヴィンなんか消えろ! 大嫌い! 大嫌いぃ……」

 エトヴィンの足音が遠ざかっても私の気持ちは落ち着かなかった。むしろもっとイライラして、私は部屋の床を何度も踏みしだいた。何かをしつこくすり潰すように。でも私が何を踏みしだいてすり潰したかったのかは分からなかった。

 

 それからどれくらい時間が経ったのか。私はまた眠っていて、目が覚めると窓の外はもう明るくなっていた。私はなんだか良い気分になって、部屋から出た。扉の前の廊下には食事がお盆の上に乗せられて置かれている。その場にしゃがんで、かけられたカバーを外すと、具の詰まったサンドウィッチがかごの中に綺麗に並べられていた。私はまた少し嬉しくなる。野菜に卵、フルーツがパンの中でまるで宝石のように輝いている。思わず手をのばして一口頬張る。いつも通り美味しい。そのまま一つ食べきってしまう。すると自分が昨日の夕食から何も食べていないことに気付いて、ますます食欲が湧いてしまう。こんなところエトヴィンに見られたら……とは思うけれども手が止まらない。しゃがみこんだまま一つ二つとサンドウィッチを口に運ぶうちに、いつの間にか、かごは空になっていた。全部平らげて満足したところで、少し焦ってきょろきょろと周囲を見渡す。エトヴィンはいなかった。私はかごを持ったまま城の中を歩きだした。特にどこへ行きたいというわけでもなかった。けれども腕の中にあるかごが、なんだかエトヴィンの温もりを残しているような気がした。エトヴィンに酷いことを言った。少しの後悔が胸に滲んで痛い。私は走り出した。あんなに酷いことを言うつもりはなかったの。一緒にいるぐらいなら死ぬなんて嘘、消えろなんて言ってごめんなさい、そう言って謝りたかった。

 ドローイングルーム、応接間、ベッドルームを回って、書斎の扉をおそるおそる開いた私は、日の光の当たる窓際で椅子に座り、本を開くエトヴィンを見つけた。 エトヴィンは無表情で手元の本に目を落としている。でもすぐに扉の隙間からエトヴィンを覗く私に気付いて、こちらを振り向く。

「フィオ様」

「……」

「どうされたんです」

 言葉が出てこない。謝らなくちゃ、と思うのにエトヴィンの顔を見たり、持っているかごを見たり、足元を見たりするぐらいしかできない。

「……フィオ」

 エトヴィンが私の名前を呼ぶ。私は少し泣きそうになりながらエトヴィンを見つめる。

「こちらへおいでなさい」

 エトヴィンが言う。でもいつものような冷たい声とは少し違った。私はおそるおそるエトヴィンの傍に近付く。

「食事は召し上がられたんですね」

 エトヴィンは私の手元にある空のかごを見て言う。

「……」

「どうかされたんですか?」

 それでも答えない私にエトヴィンはやっぱり一つ溜息を吐く。また怒られるのかと思ったけれど、エトヴィンは何も言わない。でも少し考え込むように頭を傾げていた。

「……フィオ様はよくご本を読まれていますね」

 けれどもその沈黙もすぐに終わって、エトヴィンはまた私に話しかける。

「この本は何の本か分かりますか?」

「……人間の、仕事の本」

「そうですね。以前お読みになっておられましたね。これは?」

 エトヴィンは近くのテーブルの上に置かれた本を指差す。

「……歴史の本。ここから、ずっと西の国の……」

「そうですね。お読みになられましたか?」

「難しかったから……」

「まだ読まれてないんですね」

 私はこくんと頷いて俯く。またエトヴィンに何か言われるのではないかと思った。

「では一緒に読みましょう。分からないことは私が教えてさしあげますから」

 私は驚いてエトヴィンの顔を見る。エトヴィンはいつもと変わらない無表情だ。エトヴィンを一緒に本を読むなんてしたことがない。勉強の時ぐらいしか。でも今は勉強の時間じゃない。私の自由な時間だ。そこにエトヴィンが関わってくるのは初めてだった。

「ほら、ここにかけてください」

 私は少し戸惑って、でもエトヴィンが私の方をずっと見つめているからもぞもぞしながら、エトヴィンが引っ張ってきた椅子に座った。これはエトヴィンとの「私的な」時間だった。慣れないエトヴィンとの時間におろおろする私とは対照的に、エトヴィンは落ち着いている。何か居心地の悪い思いをしながら、私はエトヴィンの顔色を窺っていた。

「この国は千年続いた大国でした。ここはもともと共和制を取っていましたが、途中で帝政に変わります」

 しかし話が始まると私は好奇心と知識欲に取りつかれてしまう。エトヴィンの話の中に早速知らない言葉が出てきて私は思わず尋ねてしまう。

「キョウワ?」

「代表者数人で国を統治することです。我が国もこれに近い形で統治されていますね」

「お父様のこと?」

「えぇ、そうです。父王様はこの国の象徴として君臨されていますが、直接政治を行うのは文民たちの中から選ばれた代表者の集う議会です。けれども、この本の国ではそれが立ち行かなかったのです」

「なんで? 私たちは生活できているのに」

 私はエトヴィンの話に引き込まれる。私の住む国についての勉強はたくさんしたけれども、他国についての歴史はそこまで詳しくは知らない。前から読んでみたかったけれど、内容があんまり難しいので、いつも挫折してしまっていた。でもエトヴィンは私でも分かるように易しく教えてくれる。

「この頃は今よりもずっと決断する時間を与えられていなかったのですよ」

「決断する時間?」

「議会で国の意思決定するにはとても時間がかかります。何故だか分かりますか?」

「皆がいろんなことを言うから……、後は議会の決定で得する人と損する人がいる」

「そうです、よく理解されておられますね。ですから、議会の決定には時間がかかります。ですが、この国を取り巻く状況下ではそのような余裕はなかったのです。今のように他国と上辺だけでも友好関係を築けていれば良いですが、この頃は未だに国が国としてまとまっていなかったり、蛮族が力を持っていた時代なのです。分かりますか? 誰も襲う前に襲います、とは言ってくれません。いきなり来ます。フィオ様が仰られたように議員たちが自身の利権やらを持ち出してああだこうだとは言っていては、国は滅びてしまいます。ですからこの国では帝政が採用されたのです」

「なるほど……。今は蛮族もあまり力を持っていないものね。国の兵士たちの方が統率されていてずっと手強い。周辺の国たちだって面子やら勢力の均衡やらがあってすぐに手を出してくるなんてことはない。だからその分議会で話す時間が取れる!」

 私は話の結末が分かって楽しくなった。それにようやく難しい本の内容を理解できたと思って嬉しくなって、にこにこしながらエトヴィンの方を見た。

「そうです、本当にフィオ様は理解が早いですね」

 私は思わずエトヴィンの顔を凝視した。エトヴィンがうっすらと笑っている。私は何度も瞬きして、目をこすった。すると目をこすった間にエトヴィンの顔はいつも通りののっぺらぼうになっていた。

「どうされたんです。目にごみでも入られましたか」

「……違う……」

 私はがっかりしてエトヴィンから目をそらす。もっとよく見とけば良かった……なんて思うけれども、後の祭り。こぼれたミルクはもう盆には戻らない。でも、まぁ良いと思う。私は椅子から降りて部屋の出口まで歩いていく。でも扉の前で立ち止まって、エトヴィンの方を振り向いた。

「あの、エトヴィン」

「どうかされましたか?」

 エトヴィンは手元の本から私に視線を移す。

「本、ありがとう。食事も……。ごめんなさい。昨日酷いこと、言った」

 私はやっぱりもじもじしながら足元とエトヴィンを交互に見て、結局俯いたままぼそぼそとお礼とごめんなさいを言った。しばらくエトヴィンの返事はなかった。許してもらえないのかと私はびくびくしていたけど、エトヴィンのブーツが書斎の絨毯を踏みしめる音が近づいてくるのが分かって、固まった。俯いた視界に茶色いブーツが入ってきて、エトヴィンが私の目の前に立っていることが分かる。私は泣き出しそうになって、震える自分を必死におさめようとした。でもおさえようと思えば思うほど怖くなって、震えてしまう。

「フィオ」

 エトヴィンの声。やっぱり怒られると思って身構えたが、その後私は自分に何が起こったのか一瞬分からなかった。

「……エトヴィン?」

 私はエトヴィンに抱きしめられていた。エトヴィンはしゃがみこんで、私を包み込むように抱いていた。

「いいのですよ。もう、いいですから」

 エトヴィンはそう言って抱きしめながら私の頭を撫でた。私は涙がこみ上げてきて、思わず嗚咽を漏らしてしまう。止めたくてもやっぱり涙は止まらない。ひっく、と声を上げる度にエトヴィンの私を抱きしめる力が強くなる。堪えきれなかった涙はエトヴィンの肩にしみこんで、それからはもうどうしようもなかった。

 

 私はおんおん泣き、エトヴィンは黙って私を抱きしめていた。何故エトヴィンが抱きしめてくれたのかは分からなかった。私は苦しいような嬉しいようなぐちゃぐちゃな気持ちでずっと泣いていた。誰かの胸で泣いたのなんていつぶりか分からなかった。一番泣きたいときはいつでも誰もいなかった。そんなものなのだろうと思った。一番欲しいものはいつだって手に入らない。そういう風にこの世界はできてる。私は幼い頃からそれをよく知っていた。

 いつの間にか私は眠っていて、気付けば寝室のベッドの上だった。傍にはエトヴィンが控えていて、私をじっと見つめていた。エトヴィンはただただ私を憐れんでいるように見えた。

「お目覚めになられましたね」

 エトヴィンがそっと呟く。部屋は暗い。ベッド横の窓から、青白い月光がささやかに差し込んでいた。

「……」

「まだ夜明け前です。もう少し眠られたらよろしいでしょう」

「……夜明け前……」

 私はぼんやりする頭の中でその言葉を反芻した。

「一番、暗い……」

「フィオ?」

「夜明け前が一番暗い……」

 でも、私にとっては夜明け前が唯一の希望だった……。

 

 *

 

 それからエトヴィンは以前よりも私にずっと優しくなった。じわじわとしつこく私を責めることはなくなったし、私が呼べばすぐに来てくれた。お願いすれば一緒に眠ってくれた。お母様とだってこんなに一緒にいられたことなんてない。まるで夢のような日々が続いていた。

 

「エトヴィン! エトヴィンどこー?」

 長い廊下をエトヴィンを呼びながら私は走り回る。ところどころ花瓶が飾られているので、以前は決して走ってはいけないと言われていた廊下。そもそも女の子の私はもっとおしとやかにしていなければならなかったので、花瓶以前の問題だった。けれどももうエトヴィンは私がいくら廊下を走ろうとそんなには怒らなくなったし、なんならお城の中でおいかっけこもしていた。

「はいはい、ここにいますよ、フィオ」

 私の呼び声を聞いて、エトヴィンが部屋から出てくる。

「お庭で花かんむり作る! エトヴィンも来て!」

 そう言って私はエトヴィンの手を取って引っ張った。エトヴィンは仕方ないですね、と呟きながら私の手をしっかり握った。

 エトヴィンはなんでも知っていた。人形遊びも、馬の乗り方も、木登りも。私はたくさんのことをエトヴィンから教えてもらって、一緒に楽しんだ。エトヴィンは私にできることが一つ増える度に、控え目だけれど笑ってくれた。

「フィオ……花かんむりを作ると言ったのは貴方でしょう」

 エトヴィンは私の手の中でぐちゃぐちゃになった草花を見て呆れたように言った。

「エトヴィンなら作れるでしょ」

「全く……」

 にへ、と笑った私にエトヴィンはまた一つ溜息を吐いた。それから私の膝の上でぐねぐねとねじられた草花をつまみ、器用に編み込み出した。

「あっすごい」

 エトヴィンは少し困ったような顔をしながら草花に指を通す。そのうちエトヴィンの手の中に美しい花かんむりの片鱗が見えた。

「こんなものですかね」

「すごいー! エトヴィンすごい!」

 作り上げられたかんむりは白く輝くようだった。白い花が緑の中にこれでもかと敷き詰められていて、しかもそれらはまだ生の息吹を失くしていない。生きた王冠なのだ。それはあの重たく、冷たそうな王冠とは全く違った。

「ほら、フィオ様、落ち着いて」 

 はしゃぐ私を諫めて、エトヴィンはそっと私の頭に白い王冠を載せた。ふっと花の甘い匂いと、草の液の酸っぱいようなにおいが鼻をつく。それはむせ返る程の生の香りだった。儚い花も、人ひとりを酔わせるほどの生の力は持っていた。

「よくお似合いですよ」

 エトヴィンは無表情で言った。私は今でもエトヴィンが何を考えているのか分からない。何故いきなり私に優しくなったのかも、私をどう思っているのかも。ふわりと風が吹いて、エトヴィンの髪をさらう。それから辺りがいきなり暗くなった。空が翳って、暗雲がたちこめる。少し前までの青空はもうない。私は茫然とその様子を見ていた。私を見下ろすエトヴィン。暗い顔。揺れる髪。暗い空。ぽたぽたと降り出す雨。動かない私たち。激しくなる雨。世界を洗う水の中で、エトヴィンの目が暗く光っていた。

 

 エトヴィンの上着にくるまれた私は、抱きかかえられてすぐに城の中に入れられた。バスに湯が張られ、私はその中で体を温めた。エトヴィンは私を雨にさらしてしまったことを謝っていた。でも私はエトヴィンの持つ張り詰めた何かを感じ取っていた。混乱、焦燥、憂い……エトヴィンはあの雨の中で確かに迷っていた。それはなんだったのだろうか。陰鬱な空を閉じ込めたその瞳に、エトヴィンは何を映していたのだろうか。もう分からない。でも、私はそれで良いと思う。何も分からないフリをして、この永遠のような一瞬にいられたらそれで良いのだと。

 私がお風呂から上がった時にはもうエトヴィンはいつも通りだった。無表情のまま私の世話をする騎士。私たちはこの空っぽな屋敷で終わりの時を待っている。

 

 私の十歳の誕生日はもう明日に迫っていた。私とエトヴィンは温室から花を摘んできてドローイングルームを飾り付けた。この城にきてからそんなことはしたことがなかった。エトヴィンが花を切って、リボンで束ねる。それを私が好きなところへ飾り付ける。私では届かない高い場所へはエトヴィンが飾ってくれた。私は本当に楽しくてずっと笑っていた。エトヴィンはいつも通りの困った顔だった。明日の誕生日は二人でケーキを作って一緒に食べる。それにエトヴィンが私のために美味しいディナーを作ってくれる。エトヴィンの料理はいつでも美味しいけど、私のために作ってくれることが嬉しかった。エトヴィンが私の誕生日を祝ってくれたことはなかったし、私も別に誕生日が嬉しかったことはなかった。でも、今は本当に嬉しい。

 

「エトヴィン、閉めないで」

 カーテンを閉めようとするエトヴィンを私はそっと止めた。明日のための準備をし終えて、私たちは眠りにつこうとしていた。ベッドに入った私はエトヴィンを見つめていたが、その手がカーテンにかかった時、ふと声をかけた。

「開けておいて」

「ですが、冷えますよ」

「大丈夫。今日は月明りが綺麗だから」

 エトヴィンは私の顔をじっと見つめた後、カーテンから手を離した。私はほっとして目を瞑る。月明りさえあればきっと迷わずに行ける。……どこへ?

「フィオ?」

 私は目を開ける。目に入ったエトヴィンの顔は無表情だった。

「エトヴィン、明日、楽しみ」

「……そうですね」

「ありがとう、エトヴィン」

「……おやすみなさい」

 エトヴィンは少し笑った。困ったような笑顔だった。私はそれを目に焼き付けておこうと思った。決して忘れないように。どこまでも持っていけるように。

 

 生まれ変わっても、忘れないように。

 

 *

 

 城からの迎えが来た日は、世界の全てを洗い流そうとするかのように勢いよく雨が降っていた。使者の着る漆黒のローブはカラスの生皮でも被っているようで、酷く不吉に見えた。

「フィオ様はどちらに」

「……ベッドルームにおられます」

 それを聞いた使者たちはぞろぞえと城の中へ入ってくる。私は彼らを案内する。

 

 フィオは無口な子供だった。無口で凶暴な子供……それは彼女の出生を考えれば当たり前のものだっただろう。

「十年だ」

 頭を上げさせ、私と目を合わせて王はそう言った。それから少し黙った後こう続けた。

「あの子が十歳になる時まで、傍にいてやってくれ。……都を離れた森の中に、二人で」

 私は何も言わず、その命令を受けた。王のゾッとするほどに暗い顔が私から一切の言葉を奪った。元々私は王に反抗する権利は持ち合わせていない。馬車の中で初めて見た子供は酷く脆弱で、無知に見えた。私は何も知らずにのうのうと生きる彼女を憎らしく見ていた。

 彼女は私が嫌いだっただろうと思う。私は彼女に対して決して子供にやるような態度は取らなかった。あの子は私に笑顔を見せなかったし、私はそれで良いと思っていた。それ以上の態度は取れなかった。私もこの国の国民であったから、彼女を恨まずにはいられないところがあった。最初は多かった癇癪も、時が経つにつれ無くなっていった。

 あの子は賢い子だった。私は彼女に勉強を教える時だけはつい彼女を褒めてしまう。彼女は私の話を聞き、その先を推測した。そのせいか語学だけははじめ覚えが悪かった。しかし、語学の体系を捉え、単語の構造的理解が必要であると気付くまでは十日もかからなかったし、十歳になるまでに六か国語を覚えた。彼女の優秀さは私を惹きつけた。教えれば教えるほど目に見えて成長する彼女を、私は一種の芸術作品として見るようになった。美しく、儚く、賢明な少女。優雅な仕草の中にちらりと見える私への憎悪。まるでそれは青白く濡れる女の手で首を絞め続けられるような、美しい悪夢だった。

 

 しかし悪夢は終わる。私は彼女を初めてただの子供として見て、ただの子供と触れ合うようになった。当たり前は麻痺していた。彼女がどんな存在であれ、彼女は何も悪くなかった。私は彼女の心からの慟哭を聞いて、そんなことに気付いたのだった。

 それからの日々はどうしようもなく暖かく、穏やかだった。彼女は本当に聡明だったが、その感情や興味はあくまで子供の持つそれだった。彼女は私たちが考えているような存在ではなかった。私を素直に慕う彼女の笑顔は眩しく、陽だまりに包まれているかのように私を錯覚させた。彼女は私が作り上げた芸術作品の彼女など比べ物にならない程に素晴らしかった。

 

 ベッドにはもう喋らないフィオが横たわっている。冷たい身体は徐々に腐乱へ向かっていくのだろう。しかし、未だその姿は眠っているようにしか見えず、花のように可憐だった。

「ではお運びしましょう」

「……王家の伝承は知っています」

 フィオに触れようとしていた使者たちは手を止める。

「干ばつ、飢饉、疫病、王家の四散……国は何十年かに一度危機を迎えます。それは一人の子供が引き起こすものです」

 使者たちはじっと私の言葉を聞いていた。

「呪いの子です。その子供を中心に国は滅びに向かいます。けれどもその子供を殺してはいけない、十年でその呪いは解けます。十年、国が持ち堪えればそれでこの呪いは終わる……でも」

 私はフィオに目をやった。

「……子供は死なないはずだ。どういうことだ? 彼女は死んだ。これでは呪いが成就してしまう」

 私は黒い集団を睨みつける。彼らは身じろぎもしない。無言が続く。しかし一人がぼそりと呟いた。

「役目が終わったら死ぬようにしておけば良いものを」

「やめろ。功労者だ」

「……」

 集団内にぴりっとした緊張が伝わる。呟きを諫めた使者が私をじっと見た。それから少し考えるようにした後、静かに口を開いた。

「……これで良いのです。これが本来の形なのですよ」

 一つ一つ言葉を選ぶようにして、使者は説明を始めた。

「貴方の知る話には続きがあります。子供は確かに国を破滅に向かわせます。……向かわせますが、十年の時が経てば、莫大な財と力を国に与えます。国は子供が生まれる以前に戻るのではなく、その時以上の、何倍もの豊かさを手に入れるのです。十年が近づけば国は少しずつ再生していきます。そして子供は十歳になるその日に死にます」

 私はじっとそのことばを聞いていた。足元がぐらぐらと揺れて崩れ落ちていく。もう私は気づいていた。私は取り返しのつかない罪を犯したのだった。

「……それでは、フィオは呪いの子などではなく」

「……生贄に近い存在でしょう」

 もう男の言葉は聞こえなかった。ただもう二度とほほ笑むことのないフィオの青白い顔だけを見つめていた。

「しかし、もちろん人は死ぬのです。フィオ様の周囲には不幸が降りかかります。だから貴方がいます。貴方の一族は呪いにかかりません」

 彼女は知っていたのだろうか。自身のことを。周囲の人間が優しくないことだけは分かっていた。それが自分の何かのせいだと彼女は考えるだろう。けれどもそれは間違いだ。彼女は何も悪くない。いや、元々彼女の出生に彼女の意思なんてない。彼女がどんな存在だろうと彼女に罪はない。それを私たちは分からない。ましてや、彼女は国に振り回された犠牲でしかない。

「もう良いですね? フィオ様を城に連れ帰らなければなりません。王も王妃もずっと城でお待ちになっています。王妃はもう何日も前から寝込んでおられます。連絡を聞いてからはお食事も取られていません。最初は王も信じておられなかった。けれどもフィオ様がお生まれになってから五年の間に王家の人間は次々と亡くなられ、国は貧困の絶望の中に突き落とされました。王は随分と悩まれて、伝承を信じることになされたのです。きっと貴方も大変な財を与えられることでしょう。本当にありがとうございました」

 

 フィオ、もう聞こえないのですか。貴方は何も悪くはありませんでしたよ。何も悪くなかったのです。何も知らず、貴方を傷つけ続けたのは私です。何故でしょう。何故、あのようにしか貴方の傍にいられなかったのでしょうか。ただ、傍でその暖かさだけを感じていられたら良かった。それ以外は何もいらなかったのです。分かっていました。それで良いのだと。後はどうでも良いと。そうやってこれからも貴方と一緒にいられたらと。私はどうしようもない馬鹿だった。何も言えなかった。気付いていたのに。貴方に冷たくした時間を後悔していたのに。何もできなかった。

 私はベッドへと近付く。それからそっとフィオの頬に触れた。もうフィオはいない。後悔とフィオの笑顔がぐるぐると渦巻いて胸の最奥へと吸い込まれていく。フィオ、フィオ。いくら呼んでも返事はなかった。手元が零れた涙で濡れる。視界がぼやけていく。このまま私も死んでしまえれば良いと思った。

 フィオの身体に使者たちが触れようとする。私はそれを払いのけ、フィオの身体を抱きかかえた。振り返らないまま窓から飛び降りる。茂みに着地してすぐに走り出す。使者たちが追ってきているのは分かっていた。道のない森の中をフィオを抱えたまま走った。どこまでも、フィオと一緒にいられる場所まで行こうと思った。

 

 エトヴィン。名前を呼ばれた気がした。私はすっと立ち止まる。そこは鬱蒼とした森の中にできた空白で、青白い月明りが差し込んでいた。もう追手の気配はなかった。あぁ、あの夜と同じだ。フィオの誕生日の前日。一緒に誕生日を迎える準備をした日の夜。フィオはまるで、自分に何が起こるのかを分かっていたかのようだった。

 ふと足元の草花が目に付く。それはいつかフィオと作った花冠に使った花だった。私はそっとフィオを横たわらせた。それから花を摘み、小さな花束と、冠を作った。

 

「フィオ。遅くなりましたが、お誕生日おめでとうございます」

 フィオは眠ったままだった。けれども少しだけ微笑んだように見えた。

「月明りが差しています。これならきっと、迷わずに行けます。大丈夫ですよ。きっと一緒に行けます。どこまでも行きましょう」

 

 私はフィオを抱き上げる。森の奥は何も見えない程に暗い。それでも良い。その先にフィオに優しい世界があるなら。フィオと共にいられる世界があるなら。

 

 ずっとお傍にいます。どこまでも、いつまでも。

 

 生まれ変わっても、きっと。