adration 八乙女柑橘

あらすじ
美大生のヒヨリは、とある事情により大学を中退することとなる。それを知ったヨリコはヒヨリの絵の大ファンであり、せめて、描きかけの絵だけでも完成させて欲しいと懇願する。
ヒヨリはヨリコと約束を交わし、それを果たすために絵を描くこととなるが……。
絵画を巡った百合ヒューマンドラマです。



 向日葵という花が好きだ。
 種はあんなに小さいのに、花はとても大きい。夏の日照りの中、まっすぐと伸びた茎は青くって、それから、太陽のある方を追いかける様子は、まるで生き物の顔みたいだ。
 何より、明るい色合いが良い。
 眩しくて、きらきらしていて――生まれてから初めて見た、とても、とても、綺麗なものだった。



 「え!? ヒヨリちゃん、退学するの!?」
 なんで!? と、ヨリコは叫んだ。気のせいでなければ、彼女の目にはじわじわと涙の膜が張り始めている。
 「ヒヨリちゃん、こんなに絵が上手なのに……! あ、中退して、画家さんに弟子入りするの? 分かった、そうなんでしょっ?」
 そうだと言ってくれ。ヨリコの目がそう切実に訴えていたが、ヒヨリは無言で首を振った。
 ヒヨリは、某芸術大学に通う生徒だった。油画科で、それなりに優秀だと評価を受け、将来を嘱望されていた。だからという訳ではないが、ヒヨリは、自身の絵には少しばかりの自信がある。自分は、絵だけが取り柄の人間だ、と思うほどに。
 幼少期、病気がちで、人とあまり話す機会がなかったためか、ヒヨリは引っ込み思案な人間だった。そんなヒヨリには、絵を描くことしかできない。それ以外なんにもできない自身へと劣等感を抱きながらも、この大学に来て、ヨリコという友人に恵まれ、初めてそんな自分を好きになれた。
 絵を描くことは、どんどん楽しくなっていった。その最たる理由であるヨリコは、ヒヨリの熱烈なファンで、いつも、ヒヨリのことを応援してくれていた。両親に一度も褒められたことのない色を、ヨリコは称えて、認めてくれた。
 ヒヨリの感情に比例してか、彼女の絵は目に見えて上達していた。先日も、とあるコンクールで金賞を受賞することができた。普段おとなしいヒヨリが、頬を紅潮させ、飛び跳ねるような大手柄だった。
 ――そして、それがきっかけだった。
 「『じゃあ、もう満足したわよね』って、お母さんに、言われて……」
 ヒヨリは口ごもり、書きかけのキャンバスに触れた。
 「……お母さんの親戚の、会社の偉い人と、お見合いを、することになったの」
 「は?」
 ヨリコは蛇のように瞳孔を鋭くして、ヒヨリを睨みつける。ヒヨリは俯きがちに、さまざまな色の絵の具が飛び散った床に、視線を落とした。
 ヒヨリには、絵を描くことしかできない。体も弱くて、頭も良くない。家事も出来ないし、話すことも得意ではない。
 だけど、こんな自分をここまで育ててくれたのは、両親だ。何度も入院して、その度母は半狂乱で泣き叫んだ。どうしてこんなに弱い子に産んでしまったの――血を吐くような言葉を、今でも夢に見る。
 「私は……私には、絵を描くことしか、できないけど、でも、そんな私で、役に立てるなら……その方が、いいって……」
 「そ、んな……。ヒヨリちゃんは、それ、受けたの? 大学辞めて、結婚するの? 絵は? どうするの!?」
 ヨリコは顔を真っ赤にして、怒りに興奮してキャンバスを指した。そこには描きかけの風景画がある。
 「この描きかけの絵も置いていくの? ヒヨリちゃんのアトリエも、ヒヨリちゃんの絵の具も、ヒヨリちゃんの筆も、バケツも、パレットも、全部! 全部捨てるの!?」
 「……っ、だ、って……しかた、ないんだもん……」
 ぽたり、と涙が零れる。ヒヨリだって、悲しい。胸を突き刺し、肉を裂くような苦しみだった。
 この大学で、ヨリコと出会った時から、絵を描くことは格段に楽しくなった。あの時から、真っ白なキャンバスに色を付けることは何よりも素晴らしいことになった。あの時から、絵が完成した際の、あの震えるほどに満ち足りた感覚は――絵を描ける者だけの特権は――ヒヨリの、至上の幸福になったのだ。
 初めての授業でペアになった時、「素敵な絵だね」と弾けるような笑顔で、ヨリコは言ってくれた。アトリエを一緒に使って、背中合わせに課題を描いた。誰かに悪戯されて、ぐちゃぐちゃになったキャンパスを見たとき、ヨリコは自分のことのように怒ってくれた。
 「この絵、っ、だって、ほんとは……」
 小学校にも通えなかった幼少期、ヒヨリはずっと同じ景色を見ていた。自室の大きな窓の向こう、遠くの方に、黄色に染まっている丘があった。毎年、夏の時期にだけ金に燃える大地に、ヒヨリはただ何かも知らずに、「綺麗だ」と感じていた。
 大きくなったある日、体調が良い折に出かけたヒヨリが、そこに咲いていたのが向日葵だと知った時――あの時、生まれて初めて、ヒヨリは感動に打ち震えたのだ。
 黄色の花が。自身よりもずっと大きな身の丈を持つ、植物が。ずっとずっと向こうの方まで――無限に続くかと思われるほど遠くまで、咲き誇っていたのだ。
 窓の外の、平べったくて、細長い黄金色の線は、こんなに広く、雄大な向日葵の群れだった。
 その時の感情は、筆舌に尽くしがたい。言葉には、とてもできない。だから、絵に込めようと思ったのだ。
 ――絵に込めて、世界で一番大好きな友人に、伝えたいと思ったのだ。
 「ほんとは……ヨリコちゃんに……」
 たくさんのものをくれた友人に、絵しか描けない自分が、返せるものを、と。
 「ヨリコちゃんに……見せてあげたかったのに……」
 ヨリコは、ぐっと言葉を詰まらせた。はぁ、はぁ、と荒い息を吐き出しながらも、目を閉じて、高ぶった気を静めていく。
 次に目を開いた時、彼女は幾分か理性的に戻っていた。ヨリコは、ヒヨリへと向かうと、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
 「私に、この絵をちょうだい。ヒヨコちゃんが描いた、私のための絵を。絶対に完成させて」
 「でも、」
 「何があっても、描き上げるって誓って」
 嘘は許さないと、ヨリコはヒヨリにしっかりと目を合わせた。ヒヨリは、オドオドと下に向けていた視線を、遠慮がちに何度か持ち上げると、唇を引き結び、こくりと頷く。
 「わかった……」
 ヨリコは満足げに目を細めると、やっと気づいた、という様子で、ヒヨリの頬を伝っていた涙をぬぐった。ヒヨリはコートを羽織ると、携帯電話を取り出し、アトリエの外で、母親に一か月の期限をくれ、と懇願をしている。
 ヨリコは、窓の向こうのその背を見つめながら、小さく、吐き捨てるように呟いた。
 「絶対に許さない」



 ――ヨリコのための絵は、半年経っても完成しなかった。
 母に頼んで得た一か月を過ぎても、なお未完だった時は焦ったが、母からの催促の連絡はなくなってしまった。それどころではなかったのだ。
 実家で放火が起こったらしく、お見合いはどさくさに紛れて消えた。それ以降、母から大学についての連絡はない。沈黙が却って恐ろしい気もしたが、それよりも、今目の前にある、ヒヨリのかつての世界すべてを描き上げる方に、心を奪われていた。
 課題や講義を繰り返しながら、毎日毎日、空いた時間を憑りつかれたように絵に打ち込んだ。
 あの誓いをした冬から時間は流れ、気が付けば夏になっていた。
 「ヒヨリちゃん、どう?」
 「ごめんね、まだなんだ……」
 ヨリコは頻繁に様子を見に来てくれたが、ヒヨリにはどうしても描き上げられなかった。あの時の感動が表せない。悪い出来ではないのだが、ヨリコに渡すにはまだ足りない。
 「ねえヒヨリちゃん、その絵の場所にはもう行った?」
 「え……ううん」
 生家には、上京してから帰っていなかった。両親が、ヒヨリが大学に通うのにいい顔をしていないことを、気にしていたのだ。……だが、今なら。
 「うん。ちょっと、休みに行ってみようかな……待っててね、ヨリコちゃん」
 見下ろしたキャンパスには、窓から見た世界が描かれている。あの時惹かれた向日葵を、記憶のままに描いただけでは、あの情動を描くことはできない。あの時の感覚を、大きな感動を、ヒヨリは全部よりこにあげたかったのだ。
 幼少期の殆どを過ごしたヒヨリの家は、真っ黒に全焼していた。正門は煤けて、辺りの芝生も禿げてしまっている。
 持っていたキャリーバックを転がしながら、屋敷を大きく回る。二階の窓から見えた向日葵は、正門とは反対側の丘に――。
 「…………え?」
 ――焦げた屋敷の敷地から、ずっとずっと奥の地平線まで、向日葵畑が伸びていた。
 二階の窓から眺めて、ようやく細い線として見えていたくらいに、向日葵は遠い存在のはずだった。だからこそ、近くで見たときに、あんなにも眩しくヒヨリを照らしたのだ。
 だが、今は違った。向日葵は今や、幼いヒヨリの部屋のバルコニーからもその形がはっきりと捉えられるほど近くに、その顔を覗かせていた。
 「――あ、ぁ……!」
 あの日、自分の見ていた黄色の正体を知った時の。
 自分が今まで、どんなに狭い世界で生きてきたのかを知った時の。
 こんなに素敵なものが、存在するのだと――びりびりと、全身に痺れと共に叩き込まれた、暴力的な色彩。
 鮮明な黄色が、体に電流となって駆け巡る。
 ああ――あの時と、同じだ。
 今ならば、あの絵の空白を埋めることができる――。ヒヨリは逸る胸を抑え、きらきらと目を輝かせ、キャンパスを頭に思い描く。
 電車に乗っている間も、駅から歩く間も。ヒヨリの心はずっと、あのアトリエの、あのキャンパスの元へと飛んでいた。



 どれほど、時間が経っただろうか。
 不意に顔を上げた時には、外はどっぷりと闇に沈んでいた。ヒヨリのアトリエの灯りだけが煌々と輝き、キャンパスを誇らしげに照らしていた。
 「うん……できた」
 あの窓から見える景色には、大輪の向日葵が描き加えられていた。筆を置き、立ち上がりもう一度眺める。
 一目見ただけであの感情を思い出せる。この絵には、人の目を惹きつけ、向日葵の色彩をその人へと叩きつけるような、乱暴なほどの魅力があった。
 どっぷりと満腹感にも似た感情に浸りながら、ヒヨリは微笑む。これを、ヨリコに渡してやりたかった。
 メールを送ろうかと思ったが、もう夜も遅い。今すぐに見せたいという気持ちをなんとか堪え、ヒヨリは身支度を整え、アトリエの灯りを落とした。
 明日、あの絵がヨリコの目に映る。ヒヨリのあの感動が、ヨリコにも分かってもらえる。そう考えるだけでワクワクして、ヒヨリは足取りも軽く帰路につく。
 (そういえば、あの向日葵は誰が植えてくれたんだろう……)
 燃え尽きた屋敷は、誰の手も入っている様子がなかった。おそらく、両親はあの家の手入れなどしていない。
 元の向日葵畑は、車で十分ほどの場所に、25mプールほどの大きさで植わっていた。小さいヒヨリには何より大きかったあの向日葵も、1,3m程度しかなかったことを、今の大きくなったヒヨリは分かっている。その固定観念が、あの絵を仕上げる邪魔をしていたのだろうことも……。
 (でも、今の向日葵畑はとても大きかった)
 まっすぐと太陽に向けて伸び、遠くへ遠くへと広がっていた向日葵畑。あの中に入り込んでしまえば、もう二度と出ていくことができないような――見入られたものを異なる世界に誘う、太陽の花の迷路。
 ――あんなに美しいものを、描かずにいられる画家なんて、存在しない。
 ヒヨリはぶるりと身震いした。もしも、あの時の縁談が通っていたら、ヒヨリの手にはパレットナイフは握られていなかっただろう。きっと誰も、ヒヨリが、ヨリコのための絵を描くことを、許しはしなかった。
 そんな時に、もしもあんなに美しい向日葵畑を見ていたら、ヒヨリは感情をキャンパスに表現することができない不自由に耐えられず、その手に握ったパレットナイフを、自身の首に当てていたかもしれなかった。
 「ヨリコのおかげで、完成したよ……」
 だから早く、見て欲しかった。幼いヒヨリを油絵に狂わせた、あのうつくしい、花を。



 朝、目を覚まし、ヒヨリはすぐさま、ヨリコへと連絡をした。
 メールの返事も待たず、ヒヨリは大学へ向かう。アトリエのある棟に駆け込み、まるで何かに急かされるように、自身のアトリエの扉を開く。どうしてか、昨日の傑作が夢のように溶けてしまっている気さえしていたのだ。
 「……あ、れ?」
 ――はたして、その予感は的中していた。
 ヒヨリは混乱し、その場に立ち尽くす。昨日、確かに布をかけて置いておいたキャンパスが、なくなっている。代わりに、ヨリコのイーゼルにはキャンパスが置かれており、ヒヨリとお揃いの刺繍の入った布がかけられている。
 いつも彼女が座っていた椅子には、白い封筒に入った手紙が置かれており、ヒヨリは呆然としながら、それを手に取った。
 見慣れた、ヨリコの字で、『ヒヨリちゃんへ』と書かれた簡素な封筒だった。震える指先で封を切ると、やはりヨリコの筆跡で、便せんに文字が綴られている。

 『絵、勝手に持って行っちゃってごめんね。私、ヒヨリちゃんに謝らないといけないことがあって、それは言ったら絶対に嫌われちゃうことだから、約束通りに、この絵だけは貰いたかったの。

 ヒヨリちゃんのお家を燃やしたのは、私です。謝って許されることじゃないけど、本当にごめんなさい。
 本当に許されちゃいけないことをしました。私は中に、ヒヨリちゃんのお母さんとお父さんが居るのを知ってたのに、火を付けました。
 ヒヨリちゃんの絵を描く邪魔をする人なんて■■■■■(ごめんなさい。酷いことを書いてしまいました)居なくなっちゃえって思ってしまいました。幸い、お二人は大きな怪我もなかったみたいで、ヒヨリちゃんを悲しませずに済んで、少しだけほっとしました。だけど、あの人たちがヒヨリちゃんの邪魔をしたことを考えると、そんな安堵はすぐに真っ黒に塗りつぶされました。
 そんな風にいろんなことを考えても、私は結局、ヒヨリちゃんが絵を描ける現状に喜んでしまっていたことを、白状します。

 一度、燃えたお家を見に行って、ヒヨリちゃんの描いていた向日葵畑も見に行きました。そのあと、向日葵の種をたくさん買って、たくさん植えました。ヒヨリちゃんの絵の向日葵がとても綺麗で、未完成なのに私は大好きになってしまったからです。それから、もっとたくさんあれば、きっとヒヨリちゃんも喜ぶかもしれない、と思ったからです。』

 ヒヨリは一枚目の便せんを読み終えると、ぺたんと床に座り込んでしまった。
 ヨリコがこんな思いでいたことを、自分は知らなかった。半年。火事が起こってから、それだけの時が過ぎた。
 その間、ヨリコは、そんな憎悪を抱いたことをおくびにも出さず、ヒヨリの絵を変わらず称え続けたのだ。

 『ヒヨリちゃんがアトリエに帰ってきたことは、すぐわかりました。夜になっても、ずっと灯りが付いていて、私はそれが消えてすぐに、ドキドキしながらアトリエに入りました。
 完成したキャンパスの布を取り払った時、私は自分が息をすることを忘れているのに、しばらく気付くこともできませんでした。
 やっぱりヒヨリちゃんはすごい。見た瞬間に、頬を撫でる風も、熱い太陽の光も、植物の香りも……眩しい向日葵の花弁も、全部鮮明に浮かんで、初めて見たとき、私、何分もここに突っ立ってた。気が付いたら、泣いちゃってた。こんなに素晴らしい絵を貰ってしまって、ごめんなさい。ありがとう。
 お礼には釣り合わないけど、せめて、私の描いてきた中で、一番の傑作を置いていきます』

 そして最後の便せんには、『こんなおかしな私でごめんなさい。許さないで』とだけ書かれており、それで手紙はお終いだった。
 ヒヨリは座り込んだまま、布のかけられたキャンパスを見上げる。端を握りしめ、軽く引くと、はらりと布は地に落ちた。
 キャンパスに描かれていたのは、微笑みを浮かべるヒヨリの姿だった。
 一目見た途端に、込められた感情がヒヨリを襲った。一心不乱な好意が、恥じらいもなく押し寄せてくる。穏やかなクリーム色の背景と、『好き』と『大好き』が混ざり合って、溺れるくらいの感情が溢れていた。
 ヒヨリは思わず、便せんで口元を覆った。赤面して、眼鏡の奥の瞳がうろうろとさ迷う。ぎゅっと握った『許さないで』の文字はくしゃくしゃになって、ヒヨリはそれを見て、小さく苦笑を浮かべる。
 「ヨリコちゃん、ゆるすよ。怒ってないよ。だって、私もだもの。私もおかしいんだよ」
 ――だって私、あの屋敷を見て、あの向日葵畑を見て。
 ――両親のことも、焼けた思い出に対する感慨も、何も、何も湧かなかったんだもの。
 「ずっと、ヨリコちゃんにあげる絵のことを、考えてたんだもの……」



 辺りで人が疎らに絵を見ている。画家になって、ヒヨリが初めて開いた個展は、大盛況とはいかないものの、若輩者にはもったいないほどの来客に恵まれていた。
 思い思いの絵で立ち止まる人々を見つめ、ヒヨリは少し目を細めて、自分の絵を一番に見せたい人のことを考えていた。
 あれからヨリコとは一度も会えていない。向日葵畑の絵と共に行方知れずとなり、何度連絡しても、繋がることはなかった。
 ヨリコのお陰で、今のヒヨリがある。個展を開けるまでにもなって自分の姿を、ヨリコに見てもらいたかった。大好きな友達に、見てもらいたかった。
 閉館した後も、照明に照らされたとある人物画を、ヒヨリはじっと見つめていた。そこに立ち、微笑んでいるのはヨリコだった。
 あの絵と同じくらい、お返しに『大好き』を込めた絵だった。他はだめでも、せめてこれだけでも見てほしかった。ヒヨリは、ヨリコのことをとっくに許しているのだと、怒っていないのだと、ヨリコに知ってもらいたかった。
 肩を落とし、とぼとぼと歩き出す。もうすぐ夜だ。閉館時刻も迫ってきている。なに、個展はまだ続く、もしかすれば、いつかヨリコが訪れてくれることも、あるかもしれない――。
 入り口に職員から渡されたネームホルダーのIDを翳し、ロッカーへと向かう。荷物を手に取ろうと、扉を開いたところ、そこからはらりと何かが落ちた。
 「あ……」
 白の無地の封筒だった。誰かが間違えたか、と宛名を確認するが、何も書かれていなかった。
 ヒヨリは不躾とはわかりつつも、封筒を覗く。どうやら、封はされていないようだった。罪悪感を覚えながら便せんを抜き取り、文面を少しだけ確認しようとする。
 ――だが、そこに書かれていたのは、たったの一文だけだった。

 『あなたの絵が大好きです』

 それから先、ヒヨリの絵が世に出て、その手紙が届かないことは、ただの一度もなかった。